二 ウワサの飲屋

 そう……今のやりとりからもわかる通り、この青年、ただの通りすがりでもなければ店の客でもない、じつは波斯花の兄で今は亡き先代店主の息子、更須守虎さらすもりとらなのだ。


 しかし、守虎はテキヤ・・・になって家を飛び出してしまったため、今は彼の叔父叔母夫妻と妹の波斯花が店を切り盛りしているというわけである。


「それよりも、お兄ちゃん。珍しく帰ってくるなんて、いったいどういう風の吹き回し?」


「……い、いやあなに、風の便りにちょいと気になるウワサを聞いたもんでな……」


 妹にぴしゃりと叱りつけられた守虎は、気恥ずかしさを誤魔化すかのようにバツの悪そうな顔でそう答える。


「気になるウワサ? 何それ?」


「ん、まあな……それより、さっきみてえな酔っ払いはよく来るのかい?」


 その意味ありげな言葉に怪訝な顔で波斯花は聞き返すが、守虎は曖昧に返事をぼかすと逆に質問を彼女へ投げてよこす。


「え? ああ、最近はちょくちょく来るかな。でも、うちだけじゃないよ? ここのところ、この界隈じゃよく酔っ払いを見かけるかも。しかも、さっきみたいに悪酔いしてる人ばっか。みんな、おこり上戸じょうごなのかしらね?」


「やっぱりウワサの通りか……そんじゃ、何か酔っ払いが増えてる理由なんて知っちゃいねえか?」


 波斯花の答えにまた意味深長なことを口にすると、守虎はさりげなさを装いつつ、重ねて妹にその理由を尋ねた。


「そいつはあれだよ。たぶん、合酒あえざけ屋のせいだな」


 しかし、それに答えたのは波斯花ではなかった。


 不意に暖簾をくぐって現れたスーツ姿のでっぷりした中年男性が、それまでも話に参加していたかのような自然さで口を挟んでくる。


「おお、イカ社長か。なんだ、まだ会社やってんのか? とっくに破綻して一家で夜逃げしたと思ってたぜ」


一方、その男性の方へ目を向けた守虎も、まるで顔馴染みにでも対するような調子で悪態を吐く。


「カーッ! 相変わらず口が悪いねえ。そこは元気にしてたか? とか、しばらくぶりだねえ、とかだろ?」


 ひどい言われ様に額へ手をやって嘆いてはみせるものの、彼もその言葉とは裏腹に本気で怒ってはいないみたいである。


 このイカのような角刈り頭をした男、本名は木戸桃次郎といい、付いたあだ名は〝イカ社長〟。ししやのとなりで零細出版社を営むしがない中小企業経営者だ。


「うるせえ。イカさまに人さまへするような挨拶してどうすんだよ。それよりもなんだ、その合酒屋ってのは?」


 再会を懐かしむこともなく、その幼馴染にまた悪態で返すと、守虎は急かすように彼の言った店の名を聞き返す。


「ああ、飲み屋の名前だよ。〝合酒あえざけ〟っていう、ずいぶんと旨い自前ブランドの酒を出す店でよう、つい最近できたんだが瞬く間に話題になって、たいそう儲けてるって羨ましい話さ」


 そんな気の短い守虎にも慣れているらしく、イカ社長は何事もなかったかのように本題へ戻ると、舌の調子も滑らかにそんな説明を付け加えた。


「合酒……あえさけ……あえしゅ……まさかダジャレ・・・・か? こりゃますます怪しくなってきたぜ……で、イカ公、てめえはその店行ったことあんのかよ?」


「ああ、あるよ。いやあ、ほんと旨い酒だったよ。でも、あんまし酔っ払って帰ったもんだから、母ちゃんにこっぴどく怒られてよう。行ったのはその一度っきりだ」


 またも意味深な台詞をぽそりと呟きつつ、さらに突っ込んで訊いてくる守虎に、イカ社長はその酒の味を思い出して表情を蕩けさせると、直後、今度は角の生えた奥さんの顔でも脳裏に過ったのか、真っ青い顔をぷるぷると振るわせてそう答えた。


「よし。なら、今からその店へ案内しろ」


 それを聞いた守虎はパンと膝を叩き、やにわに立ち上がってイカ社長に道案内を請う。


「ええ!? ……いやあ、別にかまやしねえけど、ほんと案内するだけだよ? 母ちゃんに怒られるから、俺はぜったい一緒に入んないからね?」


 その頼みにイカ社長はニヤニヤといやらしく笑みを浮かべ、口ではそう宣言しつつも、これをよい口実に自分も飲む気満々である。


「ちょっとお兄ちゃん、今帰ってきたばっかなのにお酒飲みに行く気? それじゃ、さっきの飲んだくれ達と変わらないじゃない」


 対してそれを耳にした波斯花は円らな目を見開き、フウテンにもほどがある兄に呆れ返って苦言を呈する。


「ハァ……まったく、なんてヤクザな兄貴だろうねえ」


「そうだよ。帰ってくるたびに前にも増して自堕落になってるよ」


 また、仕事に戻った叔父や叔母も溜息混じりに嫌味を口にする。


「なあに、社会勉強だよ。巷で流行ってる飲み屋くれえ知らなけりゃ、口上が売りのテキヤはやってられねえからな。んじゃ、そういうことでちょっくら行ってくるぜ。おい、とっとと案内しやがれ、このイカ野郎!」


「んもう、わかってるよ。んな慌てなくたって酒は逃げやしねえよ……」


 だが、守虎はどこ吹く風という様子でもっともらしいことを言い返すと、眉根を寄せるイカ社長を急かしてさっさと店を出て行ってしまった――。

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