社会と窓 (お題:窓 所要時間:1時間半)

 貴子は控えめに言って甘やかされていた。

 フリーターのくせに小さな戸建てを親から買い与えられて、そこで自分の小遣いを稼いで親からの仕送りを生活費のみに充てる自身を偉いと本気で思っている。前に得意げに言ってた、言っとくけど自分の小遣いくらいは自分で稼いでるよ? って。当たり前だ、バカ。みんなそれに加えて生活費も自分で稼いでるし、一人暮らしの為の家を親に充てがってもらうような奴なんてまず居ないんだよ。そんな言葉を飲み込んで、私は「そうだよね、貴子偉いね」と言った。その日の帰り道、私は履いていた1980円のスエードのサンダルで小石を蹴った。

 貴子が人生を舐め腐っている阿呆であることには変わりないけど、それでも私は貴子のそんな浮世離れしたようなところをどちらかと言うと好いていた。平凡な家に生まれ育った私と、何もかもが違う貴子とのギャップに凹むこともあったけど、慣れればそれも楽しみの一つとなった。


 私達は趣味の社会人サークルで知り合った。高校の頃から部活とは別に細々と続けていた手芸関係のサークルで、最近はヘンプの編み物にハマっている。だけど、それを身に着けることは無かった。安月給で趣味に使えるお金なんて限られていたから、材料費の大して掛からないそれは私という人間と相性が良かったのだ。それに、編んでいる最中は何も考えないでいられる。複雑な編み方に集中すれば、仕事であった嫌なことも忘れられた。

 そんな折、貴子は現れた。はじめましてなんて挨拶をする貴子は私のことなんてほとんど見ていなかったけど、私は貴子に釘付けだった。彼女の身なりを見れば、まともな人間であればすぐにいいところのお嬢さんであることが分かるはずだ。持ち物もそうだけど、私が目を奪われたのは短くて艶のある茶髪だった。手入れの行き届いた髪はワークショップの窓から差す日差しを受けて輝いており、眩しささえ覚えた。

 貴子は瞬く間にサークルの人気者になった。彼女の物怖じしないハキハキとした性格は内向的な人が多いこのサークルとは相性が悪いようにも思えたが、結論から言えばそれは私の杞憂だった。


 そして今日。


「社会の窓が開きそうになってるよ」


 誰かが笑いながらそう言った。指された貴子は不思議そうに自分のデニムを見て、少し遅れて声をあげる。ジッパーではなくボタンで留めるタイプのもので、その一つが取れかけて下を向いていたのだ。私はみんなと笑った。貴子でもそんなことがあるのがやけにおかしくて。


「わー。マジだ。恵梨香、これ直せる?」

「出来るけど、自分で出来ないの?」

「私、縫い物って駄目なんだよね」


 多分、ここにいる人なら貴子以外みんな出来るそれを、彼女はわざわざ私を指名して直して欲しいと言った。材料なら売るほどあったから、すぐに取り掛かる。縫い物は私も久々だったけど、それにしても十分も掛からなかったと思う。最中、ビーズアクセサリー作るくらい器用な貴子が、ボタン一つ縫い付けられないのが意外でしょうがないとか、そんな話をした。

 時間が来て帰ろうとすると、貴子はお礼がしたいから家に寄ってほしいなんて言ってきた。彼女の家がどこにあるかは分からないけど、噂の一軒家に興味が無かったと言えば嘘になるので、私は即決で頷いた。


 最寄り駅から徒歩十分。私がボタンを付けるのと、貴子の家から駅に着くまで、一体どっちが早いだろうなんて馬鹿なことを考えながら、彼女が玄関の暗証番号を打つのを待った。

 確かにこじんまりとしてはいる。だけど、家に入る為に鍵を使わない、それが私にとって既に未知の領域で、「入って入って」なんて言われる頃には、緊張は最高潮に達していた。

 中に入ると、まず窓が視界に入った。高い壁に据え付けられた窓。どうやって開けるんだろうと考えてから、採光の為かと遅れて気付いた。あんなの、見たこと無い。だけど貴子はあんな窓のこと、なんとも思っていないんだろうな。


「恵梨香さー、ビーズ興味あるって言ってたじゃん」

「あ、あぁ。うん。なんで?」

「今日のお礼。ちょっと待ってて。あ、そこ座ってて」


 言われた通りダイニングテーブルの前に立つ。ガラスで作られているそれはいかにも高そうで、長い背もたれの椅子からも気品を感じる。

 恐る恐るそこに座って待つと、貴子は抱えてきたケースを私の前に置いた。中にはテグスやら、色とりどりのビーズやらが入っている。なんとなしに手に取ったスワロフスキーのビーズは1個単位でバラ売りされているものらしい。1粒70円。それをばかばかテグスに通して貴子のアクセサリーは作られているらしい。節約しながら趣味を楽しんでいる私にとっては信じられない出費だ。


「これ持ってってよ。私は他のがあるし、これなら私も教えられるし」

「いや、でも」

「いいって。社会の窓? だっけ? 開けっ放しで歩かなくなったこと考えたら安いもんだし」


 そう言って貴子はテーブルの上にあったリモコンを持って、あの高い窓の方に向ける。見ると、窓じゃなくてその近くに設置されているリモコンに向けられたらしい。ピッと音がしてすぐに吹出口が開いた。

 貴子はまたどこかに消えて、お茶を持ってすぐに戻ってきた。紅茶でも淹れようかと思ったけど、暑いから麦茶にしといた。なんて言って差し出されたコップ。下には、私が前に貴子にあげたヘンプのコースターが敷かれている。


「あ、これ使ってくれてるんだ」

「あぁうん。大活躍だよ。ありがとうね」

「ううん、こんなので良かったらまた作るよ」


 貴子が私の作っているアクセサリーを身に着けているところが想像できなくてプレゼントしたものだったけど、私の作ったコースターだけがこの空間で浮いている気がして、急に恥ずかしくなった。そして悔しくなった。

 貴子は何も悪くない。だけど、たかがボタン一つ付けたお礼にこんなものを人に簡単に与えられるような裕福さが、勝手に劣等感を感じている自分が、全部全部嫌になった。


「あ、テレビでもつける?」

「いい」

「そう?」


 私は正面に座ろうとした貴子の手首を掴んで制止した。細い手首。不意に「社会の窓」という言葉の意味を理解出来ずにいた貴子の、ぽかんとした表情を思い出した。そうだよね、貴子は知らないよね。社会のことなんて、何も知らないもんね。

 衝動に任せて貴子を押し倒す。そしてそこで我に返った。何してるんだ、私は。すごい音がした。腰やお尻を打ったに違いない。

 慌てて手を離して、ごめんと告げた。貴子はあの時と同じ顔でぽかんとしていた。だけど、私が口にした謝罪を聞くと、見たこともない妖艶な顔をして言った。


「なぁんだ。もう終わり?」

「……は?」

「つまんな。もうちょっとガッツあると思ったのに」


 貴子は起き上がってため息をつく。そして立ち上がって私を見下ろした。


「あっち行こうよ」

「……ねぇ、ごめんってば」

「いいから」


 今度は貴子が私の手首を掴んだ。あの細い手首からは想像もできない強い力。私は半ば強引に立たされて、視線の先にはベッドがあった。


「あぁ、玄関ね。内側からも鍵がないと開かないから」

「へ……?」

「だって逃げようとされたら面倒くさいじゃん? だから先に言っといた」

「どういう……」

「どうしてもってんなら、そうだな。あの窓なんかいいかも」


 貴子は私を突き飛ばして笑った。視線の先には、エアコンと同じくらいの高さに据え付けられたあの窓がある。届くわけない。

 絶望していると、貴子はゆっくりと私の腹の上に腰を下ろした。



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