小道の過ち
Dr.龍蔵
7/20
夕方に入院が決まるとその日の夕回診のあとに計画書を作ったり患者から同意書をとったりと病棟にいる時間が延びて病院を出るのが九時を過ぎる。これを面倒だと言う医者がいる。当直明けのこの日、僕は不平を漏らすどころか時計を気にせずひたすらに入院の書類に手を動かし、気づけば時計は八時を回っていた。
この病院は病棟と医局棟が小道を隔てて建っている。最後の仕事を終えた充実感に任せて舌を回しながら三つ年上の医者とこの小道に出ると、ピンク色のスーツケースを転がしながら白髪の中年女性が声をかけてきた。彼女の背後には脇に松葉杖をさした男が立っている。
「すみません、救急の入り口はどちらでしょうか」
僕らの通ってきた出入口は夜七時以降は外から侵入できないようになっていた。コロナウイルス対策である。僕はスーツケースを手にとって医局棟と反対の方向へ歩きはじめた。
「昔はあっちだったけどねぇ」
中年女性が指差す方には閉鎖された外来棟の古びて黒ずんだ漆喰が街灯の乾いた光を浴びて佇んでいる。明かりのついた部屋はない。
「そうなんですよ、去年から病院が建て直されて正面玄関も変わったんです。わかりにくい場所にあるんですよ。実は僕も四月から働きはじめまして、病院の外も中もまだ迷うことあります。新しくなってからは初めてですか」
「いえ、つい先日まで主人が入院してまして」
そう言って女は口を結んだ。男はコツンコツンと音を立ててゆっくり後ろからついてくる。上級医は僕の前を黙って歩いて時折こちらを振り返り、男がついてきているか確かめながら歩く速さを調整している。
救急外来の受付まで送り届けたあと、上級医は言った。
「無駄な時間をかけてしまったな」
医局棟のエレベーターホールで、知った二人の先生が誰かを待って立っていた。そのうちの一人が何か思い出したように僕の方へ寄ってきた。
「昨日の夜のPVC13連発、あれ報告した?」
当直中の深夜、一過性の不整脈が出現した患者がいて、僕は心電図を確認したあとひとりで一通り診察して経過観察としていた。彼の口調はゆっくり穏やかだった。
「たしかにあれは経過観察しかないんだけど、あれはちゃんと報告しないと」
彼の声に怒りはなかった。彼は医者なのだ(彼は翌朝笑顔でおはようと言った)。
「有難うございます」
僕が返事をした一瞬は、この日もっとも気が緩んだ瞬間であった。この一言に付いていた生真面目を装って取り入るような調子の軽薄さには僕自身も驚いた。そしてそれはあまりに胸糞悪く愚鈍な響きとなって僕の耳に残ってしまった。いま彼は隣の医者と別の患者の病状について真剣な顔つきで話している。それから頭の中で引っかかっていた「無駄」という言葉が思い出され、ピンクのスーツケースを引きずっていた小道での心持ちが恥となって浮かびあがった。それは自分の愚かしい声と混ざって、病院における正しい態度を僕に教えるのだった。
小道の過ち Dr.龍蔵 @Dryu0528
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