猫になる。空を駆ける。
白と黒のパーカー
第1話 猫になる。空を駆ける。
ふう、と息をつきながら肩を揉む。明日までに終えなければいけない仕事がようやっと終わったのだ。
しょぼむ目を擦りながら時計を確認すると、短針はすでに午前一時を指していた。
もう明日じゃなくて今日じゃないか。などと誰に届くでもない軽口をたたきながらコーヒーを入れるためにポッドへと向かう。
もう五年ほど愛用しているこのポッドには、普段の手入れを怠けているせいでコーヒーの渋がこびりついてしまっている。これを見るたびに何だか申し訳ないなあなどと思うのだが、思うのと実行するのとではまた別のお話なのだ。きっと五年後も同じことを考えているに違いない。
それにしても仕事終わり且つ深夜の入り口に立って飲むブラックコーヒーはやはり美味しい。正に至上の幸福というやつである。
仕事が深夜までかかることの多い今の状況を唯一癒してくれる素敵なアイテムだ。
こんな生活をずっと続けていると、もはや眠いという概念自体がどこかになりを潜め始める。よってこの時間にカフェインを摂取することに恐怖など今や存在しない。
最強無敵のコーヒーを片手に、リビングにある少し奮発して購入したソファへと移動する。
長い間パソコンとにらめっこしていたせいで痛めた腰を労わるようにゆっくりと腰掛けながら、よっこいしょういち。なんつって。もはやこのネタが通じる人間が存在するかは甚だ疑問ではあるが関係ない。口からでたギャグには逆らうべきではないのだ。
ごほん、誰もいないが急に恥ずかしさと虚しさが同時に襲ってきたので咳ばらいを一つ。
故あってテレワーク化の進む現代では、咳払いなどしようものなら嫌な視線のレーザービームを浴びせられるのだろうなどと考えるが、頭を振ってそんな暗い思考を打ち消す。
さてと、仕事に引きずられて鬱な気分でいるのはこれまでだ。
今からは、昨日のうちに買っておいた『週刊ペットわんわんにゃんにゃん』の最新号を読むのだ。ぐへへ、涎が止まりませんなあ。
両手をワキワキさせながら、ソファの向かいにある小さな円机の上にのせてある雑誌を手に取る。
ぱらりぱらりとページをめくりながら、世に蔓延るベリベリキュートなわんわんとにゃんにゃんを舐めるように見回す。
食い入りすぎて目を回すまでが一連の流れである。
そんな幸せなひと時を過ごしていると、ピロンと携帯がメールを知らせる。
うん? こんな時間になんじゃらほい。
ま、どうせ変な詐欺メールだろうと、開いてみると。
【今日をお疲れの
件名には、私の名前とそれに連なる意味不明な言葉。と語尾の「にゃ」。
猫に、なる? はて、仕事のし過ぎでとうとうお頭がおぶっ壊れになられたかしら。
瞼をつねり、鋭い痛みを知覚して現実を確認する。
想像より痛くて涙で目がしょぼしょぼするが、このメールは本物であることを理解させられる。
不思議な引力でもあるのか、普段ならバカバカしいと流していたであろう怪しいメールが妙に存在感を放つ。
ま、まあ? 一度くらいなら? こういうバカバカしいのに乗せられてみるのもアリっていうか? なんていうか。
(普通に考えたらナシである)。
でも、もし本当だったら? 猫になれるかもしれない。
それはちょっと気になる。なら臆せず押しちゃえ。
好奇心旺盛な自分が出てきて勝手にメールをタップしてしまう。
その瞬間。
ピカッと光るスマホに目がくらむ。にゃっと驚き目を閉じる。
今の一瞬に違和感を感じながらも、私の意識はそこで飛んでしまった。
ぴちょんぴちょんと鳥の鳴く声が聴こえる。
お隣さんのピー太君という文鳥の声だろう。毎朝六時ににゃったら餌をよこせとそれはそれは盛大にゃフルコーラスを響かせる。
徹夜明けの日にゃんかには、晩御飯は焼き鳥にしようかにゃと、献立を決めるお手伝いをしてくれるのだ。
そんなことはさておいて、今夜の晩御飯が
朝だということはすにゃわち昨夜(というか今朝)終わらせた仕事を上司に提出しにゃければにゃらにゃいということ。
ああ、自宅にいる間にも仕事に縛られるにゃどばかばかしいと嘆きにゃがらも起き上がろうとしてハッとする。いや、ニャッとする。
私の体が猫ににゃっている。
いやいやいや、え? どういうこと? 私が猫ににゃった? まさか昨日のあのメールは本物だったのか。いや感心している場合ではにゃい。
これからどうする? 仕事は? 家族や友人にはにゃんて話す?
落ち着け私、ただでさえ意味の分からにゃい状況にゃのだ。これ以上焦ったところで状況は変わらにゃい。寧ろ悪化する可能性のほうが高い。
それに思い出せ、私に友人は一人もいにゃい。
ああ、それは思い出したくにゃかった。ただただ寂しい事実じゃにゃいか。
一通りボケ散らかしたら自然と体が落ち着いてくる。
まあ、にゃんだ。せっかく猫になったのだから深く考えずにこの生活を楽しめばよいではにゃいか。どうせ戻れる保証もにゃいのだ、仕事のことなどこの際忘れてしまおう。
人生で一回は猫ににゃることを夢見るものだとは思うが、まさか本当ににゃれるとは、よくよく考えてみたらこれはとことんまで私得な状況だ。
猫ににゃったにゃらばやりたいことにゃど無限大にあるのだ。
多少脳内言語の「
前足を突き出して、おしりを突き上げるというあの飛び切りキュートにゃ状態だ。それをいざ私が再現する。
んほほ、気持ち良い。
おっと、気持ち悪い声が出てしまった。
とは言えこれは仕方にゃい。思わず変にゃ声が出るほど気持ちがよいのだ。我慢してくれ。
そんにゃこんにゃで結構にゃ時間を猫ににゃったらしたいことランキングで過ごしたあと、私は重要なことに気づく。
あ、ありゃ? そういえばまだ周りが暗い。もしかして時間が経っていにゃい?
この場合の時間が経っていにゃいというのは、私が猫ににゃる前とにゃったあとの時間が変わっていにゃいということだ。
つまり、現在の時刻は午前一時半(三十分増えているのは遊んでいた時間)である。
何故だろうか。お隣さんのピー太君の鳴き声は確かに聞いたはずである。にも拘わらず時間は経っていにゃい。
にゃんだか妙に気ににゃって再びあのメールを読もうと携帯を探すが、そこで愕然とする。
私猫だから携帯開けにゃいじゃん。どうしよう。勿論猫の肉球には指紋認証を開く能力にゃど備わっていにゃい。
とにかく、落ち着いてだれか知り合いに連絡を……ってスマホ使えにゃいんだからそれも無理か。
どん詰まりかと思いかけてから、アレがあったと思いだす。
いや、ちょっと待って、固定電話があるじゃにゃい!
猫ににゃっている今、自分の声が届くかは分からにゃい。でもやってみる価値はあるだろう。
早速固定電話のある場所までトテトテと走り、棚の上へと飛び上がる。
今や自分のことにゃがら途轍もにゃいジャンプ力である。
それだけ変化してしまった体に少しだけ切にゃさを覚えにゃがら、受話器を取り外して実家の電話番号を打つ。
ぷるるというコール音が四回目に差し掛かろうとして、途切れる。その後に眠たそうにゃ妹の声が聞こえて何とにゃく安心感を覚える。
かつて家族の声を聴いてここまで安心した覚えにゃどにゃいから、にゃんだか新鮮にゃ気持ちである。
とは言え本当に重要にゃのはここから、果たして私の声は届くのか。
『もしもし私、華だけど』
「あれ? 猫の声がする。ねえ、お母さん。お姉ちゃんって猫飼ってたっけ?」
速攻で電話を切る。やっぱりダメだ、通じにゃい。
受話器の前にいる二人だって私が急に猫ににゃって電話をかけてくるだにゃんて思ってもにゃいだろうから察せというのも酷な話だよね。
だとするにゃらば、新しい作戦を考えにゃければにゃらにゃい。
そこでふと神がかり的にゃタイミングで記憶がよみがえる。
そういえば、先週のわんわんにゃんにゃんにはスマホをいじるにゃんにゃん特集が組まれていたはずだ。そこににゃにかヒントがあるかもしれにゃい。
早速先週の雑誌を引っ張り出してきて確認すると、どうやら猫の肉球でも人間の手と同じようにスマホの画面自体はいじれるらしい。つまり、指紋認証を解除することはできにゃいがパスワードを入力してロック解除は可能だということ。
にゃんと天才的な文明の利器だろうか。にゃいす!
本棚からポーンと飛びおりて華麗に着地。猫ににゃってからまだそんにゃに時間が経っていにゃいのにもかかわらず体の動かし方に慣れてきている。
ふと猫ににゃって楽しい気持ちと同時に、本当にこれでいいのだろうかという気持ちも芽生える。自分の本音がどちらにゃのかが分からにゃくにゃってくる。
そんにゃ一抹の不安を抱えにゃがらもスマホの前にたどり着く。
早速電源ボタンを押し込み、パスワードを入力する“
よし、開いた。さてさてあの画面はどこへやらっと。
【これはこれは、雅様。猫になった気分はどうですかにゃ?】
画面を覗いたとたん、独りでに文字が打ち込まれてゆく。にゃにこれ怖いんですけど。
そして取って付けたかのような語尾の「にゃ」にやはり腹が立つ。こちとら勝手に「
一人、と言うか一匹画面の前でにゃるるると威嚇するが、虚しさが増す。
【急なお体の変化に驚きのことと思いますが、調子のほうはいかがでしょうか? あ、にゃ】
こいつ、あからさまに煽ってきてやがる。
調子のほうといわれても特に何もにゃい。強いて言えば先ほどの仕事疲れからは解放されているが、それがにゃにか関係あるのだろうか。
というかさっきからどうやってこいつは私と会話しているんだ。思考でも読んでいるのか?
【イグザクトリー! その通りでございますにゃ。僕にはこの特典を受け取る方との円滑なコミュニケーションがとれるように一通りの便利な能力を持たされているんだにゃ】
顔は見えにゃいがおそらくドヤ顔をしているだろうことは容易に想像が可能である。
目の前にいたら確実に我が猫パンチの餌食にしてやっているだろう。
む、苛立ちが先に来たせいで聞き逃しかけたが、特典とは何なのだろうか。
「うむむ、これは言うべきかどうか非常に迷うほどにセンシティブなお話なのですがにゃ。まあ致し方ないでしょう」
なんだ、厭に遠回りじゃないか。急に真剣味を帯びた声で話かけられたものだからこちらもゴクリと生唾を飲み込む。ん? 声が聞こえる!?
「いやーどうもどうも、文面であなたを煽るのも楽しかったのですがそれも面倒になってきましてにゃ。出てきちゃいました」
声が聞こえたほうを振り向いてみればそこには黒猫が一匹いる。
まさか、こいつがメールの主か。
「そうです。そうです。いやあ、理解の早い人と話すのは楽で助かりますにゃ。あ、もう猫か。にゃははは」
まあ正直こいつが何者だろうとどうでもいい、重要にゃのはつまり実態を得たというところだ。実態を得たにゃらば私の猫パンチをくらえ!
「ぎにゃあ! 急になにをするんですかにゃ。動物虐待ですよ!」
「安心したまえよ、今や私たちは猫同士。同じ土俵にゃらただの喧嘩だ」
「目がマジだにゃって、痛い痛い。痛いですにゃ~」
しばらく我を忘れて、相手とにゃんにゃんしあって気が済んだころ。改めて話を聞くために、話を促す。喋れ。
「さっきから話すつもりだったのに。もうお嫁にいけないにゃん」
耳をたれさせにゃがら、しょんぼりしているさまは私に新しい扉を開かせようとしてくるが、そこはぐっと抑えて話を聞く体制にうつる。
「うー、もう怒りましたよ。あなたに配慮してオブラートに包んで教えてあげようと思ったのに知らないんだー。あなたはね、端的に言えばもう死んでいるんですよ」
いきにゃり信じられにゃいことを口走る。
「は?」
は? いま目の前にいる黒猫は何て言った? 私が死んでる、だって。はは笑える。
「だから、仕事のし過ぎで過労死ですよ。今日の午前一時、あなたが仕事を終えてコーヒー片手にソファに座った瞬間あなたは死んだのです」
真っ青にゃまま戻らにゃい顔を黒猫のほうに向けにゃがら、口を開け閉めする。
別に酸素が足りにゃいわけじゃにゃい。口に出すべき言葉が思いつかにゃいのだ。
「まあ、そうなるのも無理はないでしょうにゃ。なにせ急死とはこのことを言うんだってくらいお手本のような急死かつ過労死でしたから」
お疲れ様ですと、肉球で私の肩をポンポンと叩いてくる。
猫の体ににゃっても肉球の感触は気持ちいいのか、にゃどとぼんやりと考えにゃがら少しばかり涙を流す。
「そういえば、特典って結局にゃんにゃのよ?」
ひとしきり泣いたあと、ふと思い出して聞いてみる。
「にゃにゃ、特典というのは、お亡くなりになった方がその瞬間に最も求めていることを一つだけかなえてあげることなのです。つまり雅様は最期の時に猫になりたいと考えておられたのでしょう」
「はあ、だから私は今こうやって猫ににゃっているというわけにゃのね」
そういうことですにゃ、と鼻先をぺろぺろと舐めにゃがら答える黒猫はにゃんだか憎めにゃいキャラクターをしていてずるいと思う。
私もこんな人間にゃら、もう少し楽に生きられたのかもしれにゃい。
ま、今更そんにゃことを考えても後の祭りであるが。
「じゃあ、あにゃたの姿が猫にゃのも私の願いが関係していたりするの?」
「いいえ、それは関係ありません。僕は元からプリチーな黒猫ですニャン」
「にゃぜに黒猫?」
「おやおや、火車をご存じでない? まあ、簡単に言えば閻魔様のところへと死者の方をお連れする役目を持った妖怪的なもんと考えてもらえれば良いですにゃ」
「にゃるほど」
最早、常識では推し量ることのできにゃいようにゃ会話をしている自覚はあるが、そもそも私自身が猫ににゃっているのだ。今更というものである。
「さて、そろそろお時間のほうが迫ってきましたにゃ。無駄な抵抗はせずおとなしく僕についてくるのです。閻魔様がお待ちですよ」
「真相が明かされたと思いきや急に終わりを告げてくるわね。でもまあいいわ、特にこの世に未練にゃんてにゃいし」
「おやおや、本当に無抵抗でこられると逆に調子が狂うのですが……よろしいので?」
にゃによ、改まってそう聞かれるとにゃんだかやり残したことがあるように思えてくるじゃにゃい。
「じ、じゃあ、家族にくらいは挨拶でもしていこうかしら」
ま、家族仲は悪いほうじゃにゃかったし、最後に会うのも悪くはにゃいだろう。
「素直じゃないですにゃあ。それでは雅様のご家族のところまで駆けていきましょうか、空を」
は? と疑問を口にする前に私たちの体が浮かび上がる。
「にゃにゃにゃにゃにするのよ!」
私は高所恐怖症にゃのだ。たとえ落ちる心配がにゃかったとしても怖いものは怖い。
もう止まってる心臓がもう一度止まりそうだ。
ふふ、一度言ってみたかった死人ジョークである。
そんにゃ私の心の声は黒猫に筒抜けにゃのでジト目で睨まれる。
猫面を赤く染めにゃがら顔をそらすと、先に走り出していく彼の後を追う。
窓ガラスにも構わず突っ込んで行くのをみて体が一瞬すくむが、ええいままよと私も続くと、するりと壁を抜けていく。
これが本当の霊能力か、にゃどと感心していると、体がどんどん上へ上へと昇っていき恐怖で全身の毛が逆立つ。
瞬く間に自宅は米粒くらいの大きさににゃり、煌びやかにゃ街の全景が見えるようににゃる。
「うわぁ、こっわ」
「ロマンの欠片もないですな」
あきれたようにゃ顔でこちらを見てくる黒猫へ、べぇっと舌をだして顔をふいと背ける。
怖いものは怖いのだ。そこにロマンにゃどにゃい。
「時間もないことですし、さっさと家族の方々にご挨拶をしに行きましょうか」
最期だというのににゃんともあっさりしているにゃとも思うが、ふつうは挨拶にゃどする機会は与えられにゃいのだ。素直に従っておくことにしよう。
空を自由に駆けていく黒猫と白猫、つまり私の姿は、恐らく夜の闇にかき消されて誰も姿を捉えることはできにゃいだろう。
それを良いことに、彼は二足歩行をしたりバク宙をしたりと随分と自由に空の旅を楽しんでいる。
私には怖くて到底できにゃいし、やる気も起きにゃいが。こう何度も何度も見せつけられるとにゃんだか悔しくにゃってくる。
ぐぬぬぬ。よーし分かった。怖いけどやってやろうじゃにゃい。一方的に煽られてばかりじゃ私だってにゃいのよ!
前足を持ち上げ、上体を後ろに反らしにゃがら後ろ足を思いっきり、蹴り上げる!
にゃお~んっと見事一回転を成功させドヤリと黒猫に向けて視線を送ると、やれやれといった感じで拍手をしてくる。
にゃ、にゃんだよそのはいはい、すごいですね見たいにゃ反応は!
そんにゃやり取りを最後に、しばらくはお互い何も話さず粛々と私の実家へと向かう。
相変わらず目の前を優雅に歩いていく黒猫の後姿を眺めにゃがら、最期だしと自分の過去を思い返してみる。
思えば私の人生は碌にゃものじゃにゃかった。学校での成績は中の中で、運動もそれにゃり。目立つようにゃことは何一つしようとせず、常に人任せ。たまに意見を言うことがあればそれは常に誰かを肯定するだけのつまらにゃい言葉だった。
意見を戦わせようだにゃんて思わない。喧嘩ににゃるのは嫌だし、他人とできるだけ関わりたくにゃかった。
別に人が嫌いにゃわけじゃないけど、めんどくさいから避ける。お隣さんだってピー太君の名前は覚えてるのに、飼い主さんの苗字は覚えていない。
動物は話さないし、面倒くさくない。単純にかわいいのは勿論だし、気楽に生きている感じが羨ましくて好きだった。
思い返して行くにつれて頭の中がぐるぐるしてくる。
私の人生って何だったんだろうなぁ。
なんとなく受験して、なんとなく就職活動して、なんとなく今の仕事に就いて。
私の人生はなんとなくで出来ている。
なんでだろう。満足する人生を送っていると生きていた時は思っていたのに、今は胸の中に穴が開いているような虚しい気持ちしか湧いてこないや。
心の中にあるどす黒い感情が抑えられない。
いくら振り返ってもアイデンティティというものがない。自分が存在したと証明できるものがない。揺らいでいる自分の心繋ぎとめるものがない。
偽りの自分が瓦解していくのが見える。
『死にたくないなぁ』
猫の姿の私の正面にいるのは、人間の姿の私。
今にも消えてしまいそうな希薄な白とどす黒い感情に塗れた黒。
本当の私はどっち?
「本物の自分がどちらかを決める必要って本当にあるのですかにゃ?」
え? それはどういうこと?
「誰とも関わりたくない自分、誰かに覚えていてもらいたい自分。どっちも本物の自分でいいじゃないですか」
白色と黒色を混ぜちゃったら灰色になっちゃうよ。
「灰色が悪いものですか。曇天模様の後には雨が降ります。雨って私、好きなんですよね」
それ、結局灰色関係ないじゃん。
「あ、バレました? にゃはは」
ほんっと、適当なんだから。
でも、ありがと
「感謝の言葉は、あなたの家族の方々にかけてあげてください」
うん、そうする。
「最後に、お一つだけお聞かせください」
何?
「あなたは本当に猫になりたいですかにゃ?」
目の目に浮かぶ黒猫のいつになく真剣な問いかけに、私は答える。
「私は──」
ぴちょんぴちょんと鳥の鳴く声が聴こえる。
滝沢さん家のピー太君という文鳥の声だろう。毎朝六時になったら餌をよこせとそれはそれは盛大なフルコーラスを響かせる。
徹夜明けの日なんかには、晩御飯は焼き鳥にしようかなと、献立を決めるお手伝いをしてくれるのだ。
ああ、昨日終わらせた仕事、提出しなくちゃな。
猫になる。空を駆ける。 白と黒のパーカー @shirokuro87
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