寝盗るブス風谷明日花02

 半年前から、絵画教室に通う風谷の腕前は、飛躍的な進歩はないが、それでも味のある絵を描くようになっていた。優しい色合いに、柔らかなタッチで描かれ絵に、絵画教室の先生も絶賛してくれていた。

 誰かに褒められる快感が、風谷をつまらない結婚生活を忘れさせてくれる、唯一の生き甲斐となっていた。


 いつものように、絵を描いている風谷に声をかける人物が現れる。それが、黒岩瑛士だった。


「あれ? 明日花じゃないか?」

「……瑛士? 何でここにいるの?」

「先週から僕も通っている。それにしても、明日花が絵画教室に通っているとは思わなかったよ」


 誰にも知られたくないなかった風谷にとって、黒岩の出現は予想外の出来事。親友の岸島にさえ、絵画教室に通っている事は教えていなかった。黒岩が、岸島に伝える可能性を考えると、口止めする必要がある。

 そんな事を考えていると、筆が一向に進まなかった。


 絵画教室が終わると、黒岩はすぐに教室を出て行ってしまう。急いで支度をすると、後を追って風谷も教室を出る。帰り際、先生に呼び止められたが「用事があるので」と、素っ気なく返事をすると、遠くに見える黒岩の背中を追いかける。

 黒岩の歩行速度は異常に早く、風谷の足では全速力で走らなければならなかった。つき合っていた頃は、いつもの先に行ってしまう黒岩を、後から追いかけていた事を思い出す。

 ようやく、黒岩の背中が見えた時、風谷は声をかける。


「ちょっと、ま、待ってよ!」

「え? ……何だ、明日花か。どうした?」

「ちょ、……あ、相変わらず、歩くのが早いね……。おかげで、走っちゃったじゃない」


 全速力で走ったせいで、喉も渇いた風谷は、近くのカフェに入る事を提案する。

 「少しだけなら」と、黒岩の同意を得たので、カフェへと入る。店内は満席となっていた為、テラス席へと案内される。風谷は躊躇ったが、他に席が空いていないので、仕方なく案内されるが、それでも通りから見えにくい、景色の悪い席を注文する。


「それにしても、ひさしぶりだね。元気してた?」

「まあね。リオンとは、仲良くしているの?」

「まあ、それなりにね。最近は、あんまり会ってないかな?」

「ちょっと。リオンを泣かせたら、許さないからね」

「はいはい。わかってますよ」


 何でもない会話をしていると、頼んでいたアイスコーヒーが運ばれる。黒岩は、砂糖とミルクを入れて一口飲む。続けて風谷は、何も入れずにブラックのまま口へと運ぶ。


「前から思っていたけれど、よくブラックで飲めるよな」

「そうかしら。私からしたら、そんな甘いコーヒーの何が美味しいの?」

「変わらないな、明日花は……」


 味の好みが対照的な二人。その事で、喧嘩をした事もあったが、今となっては懐かしい思い出だと、つい微笑んでしまう黒岩。グラスの半分まで飲み干すと、風谷は本題を話し始めた。


「それで、お願いがあるの。聞いてくれる?」

「何? 僕に出来る事なら」

「私が、絵画教室に通っている事は、リオンに内緒にしておいて欲しいの」

「岸島に? 何で?」

「それは……。私が、絵画教室に通ってるなんて知られたら、恥ずかしいからよ。あの絵画教室は、私の生き甲斐なの。だからお願い」


 咄嗟に嘘をつく風谷。本当の理由は他にあり、それは黒岩にも誰にも言えない風谷だけの秘密だった。上手く黒岩を騙せられるか、固唾を飲んで見守っていると、あっさりと黒岩は了承した。


「本当ね! 絶対、岸島には言わないでね!」

「わかっているよ」

「よかった。これで、安心した。……ところで瑛士は、何で通い始めたの?」

「それは……自分探しかな」

「自分探し? 何それ?」

「毎日、会社に行って仕事に追われ、家に帰って寝る。そんな人生をすり減らすだけの生活を続けていて、ある日思ったんだよ。僕は何の為に生きているのか――って。本当はもっと他の可能性が、僕にはあるんじゃないかと気づいた。だから、その可能性を見つける為、色々と体験している。その一つが絵だと思ったわけ」

「ふーん……」


 熱弁する黒岩を、冷やかな目で見る風谷。まるで上ばかり見ていて、足元が地雷だらけの戦場を、何の策もなく前進を命令する愚かな指揮官。それは、明らかな愚行。痛々しいこの男と、かつてつき合っていた事実を、恥ずかしく思う風谷だった。

 とにかく、目的を果たした風谷は、これ以上黒岩と話をする理由はない。一気に残りのコーヒーを飲むと、念を押してから帰る。


「とにかく、約束したからね。それとリオンが悲しむから、自分探しもいいけれど、早く仕事を見つけなよ」

「わかってるよ。……それじゃあ、約束を守る代わりに、これお願いね」


 そう言って、伝票を渡す黒岩。せこい奴だと風谷は思ったが、七百八十円で口止め出来るなら、安いものと思い受け取る。


 家に帰ると、静まり返った部屋が風谷を迎える。家電製品のモーター音と、外から微かに聞こえる子供の声。楽しそうにはしゃぐその声を、聞いていると、自分が孤独だと思い知らされるようで、風谷は焦燥する。今すぐ外に出て、子供達の首を絞めて黙らせてやりたいが、そんな非人道的な行動は出来ない代わりに、妄想の中で残虐的な行為をイメージしていた。

 そんな時、風谷のスマホにメールが来る。相手は、絵画教室の先生からだった。内容は、明日は果物のデッサンをするので、何か一品持ってきて欲しいとの連絡。何気ない文章だったが、嬉しそうにそのメールを見つめる風谷。

 メールをスクロールしていくと、最後にこんな事が、書かれていた。


 『明日は終わった後、いつもの場所で。OKでしたら、リンゴを持ってきてください』


 慌てて、スーパーへと走る風谷。少女のように胸をときめかせて、嬉しそうな顔をしていた。


 風谷は、絵画教室の先生と不倫の関係にあった。

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