「かわ」の巻



 クマが右腕をぶん回すのとおれが反射的に一歩下がるのがほぼ同時だった。

 おれの鼻先も鼻先、数ミリ先をぶっとい爪がかすめた。

 さらにもう一撃が飛んできた。おれはほとんど失神していたが生存本能というのはすごいもので、もう一歩下がった。

 一撃目が空振ったクマの右手は二撃目、大きな衝撃音と共におれのそばに立っていた針葉樹の幹にぶつかった。

 クマはぐう、とうめいて四本足の姿勢に戻った。木の幹が半分ほどえぐれている。あれが直撃していたら首が飛んで首だけが山を越え谷を渡りアパートに帰っていたかもしれない。おそろしい。

 とは言えクマの方も結構な痛みを感じたらしかった。四つ足になったものの右手をかばっているような仕草をしている。痛み万歳。

 ところがクマはそんな様子なのにおれの姿を探しているようだ。イライラした顔つきで時折歯を剥きながら左右を見渡している。

 おれは静かに、限りなく静かにあとずさった。


 メキッ、と音がした。

 しまった枝を踏んでしまったか、と全身に恐怖が走ったもののそれは足元からではなかった。おれの少し前方、さっきクマが一撃を加えた木の幹から発されている。気づけばクマもその木を見ていた。

 針葉樹はみるみるうちに傾いていく。バランスの加減なのかえぐれた側にかしいでいく。上の枝葉が他の木のそれとぶつかって火のはぜるような響きが夜の森に広がった。

 今しかない、と思った。

 おれはクマから目を離さぬようしばらく後ろ向きに移動した。クマは緩慢に倒れそうな木からまだ目を離していない。

 おれは背中を向けて駆け出した。

 クマの咆哮が背後から聞こえたのと、針葉樹が倒れ伏す音がしたのはほぼ同時だった。

 おれは走った。針葉樹の森の足元は真っ暗だったがその代わり障害物もなく、目の前に迫る木の幹だけに気を払えばよかった。だから走ったとは言うけども小走りみたいな速度だった。いや競歩くらいかもしれない。実質としては早足くらいだったと思う。左足だって裏表になったままだし。そう簡単に走れるわけがない。ただそのあたりの速度は周りに計測してくれる人がいなかったのでわからない。とにかくおれは気持ち的には走った。

 背後から迫り来る気配はなかったが立ち止まらなかった。よしもう大丈夫だ、とひと息つくなんて、襲いかかられる直前の流れとしてしか想像できなかったのである。

 

 しばらく必死になって「走って」いると、少し走った先で森が切れ、白々とした場所が開けていた。

 あれは石だ。

 川原だ。

 おれは最後の最後まで気を抜くことなく幹をかわし、森を突っ切った。

 果たしてそこは白い石がたくさん並ぶ川原であった。すぐ前には川が流れている。

 おれは足を止めた。呼吸が限りなく荒い。月明かりが柔らかく、一つ一つの石を照らしていた。浅い川は優しく静かに流れていた。

 真っ暗で刺々しい森の中からそんな空間に出れたことが無性に嬉しく、おれの両目から涙が一滴ずつこぼれ落ちた。


 …………拭いがたい違和感があった。右頬には熱いものが伝うのに、左頬にはなんにも落ちてこないのである。

 そういえば走っている間もずっと、右目の視界がなんかヘンテコなのだった。左はクリアに見える。右の視野が、たまに真っ暗になったりやけに狭くなったりする。なんか知らんもんが右側でヒラヒラしている。

 一度、クマの追跡がないかどうか振り向いて確認をとった。それから右手で、顔面の右を触った。

 葉の穴のボツボツが指先に感じられて不快極まりない他は、自分の顔だった。

 そのまま指を左へと滑らせていく。

 顔の左半分に、布がひっついていた。

 おれはその布を指でつまんでみた。布にしては弾力がある。引いてみる。伸びもよい。あとヌルヌルしている。そのヌルヌルが輪郭を伝って、左の顎から足元に落ちている。


 よもや。


 おれは左手の指で左の頬をなぞった。そこにはほっぺたはなかった。糸のようなものが無数に張ってある。眉も顎もなかった。似たような糸がびっしりと張りめぐらされている。蜘蛛の巣がくっついているにしては密度があった。そしてやっぱりヌルヌルしているのだった。血が出ていた頭頂部のように。


 右の膝頭と左の膝裏が震えるのを感じながら、おれは川へと歩み寄った。

 月光で川は鏡のように反射していた。そこにおそるおそる、顔を出した。


 顔面の左半分が、ペローンと剥けていた。

 剥がれた皮膚が、だらしなく垂れ下がっていた。


 おれは衝動的に左手でその皮膚を戻した。無理に戻した皮膚と顔面の筋肉の境目から血がジワリとにじむのがわかった。

 おれは顔を上げた。もう川の鏡面を見ていられなかった。スーパーで買い物に来て「どれにしようかしら?」と迷う主婦のような位置に手を置いて、おれはどうしてこんなことになったのか考えた。

 そうだ、クマの一撃目はおれの鼻先を数ミリかすめたのではなかったのだ。爪の先、数ミリだけ当たったのだ。カンナがけで木材を薄く削る大工の技のように、顔面の皮膚だけが持っていかれ、半分だけずる剥けになったに違いなかった。

 手や顔が穴だらけになったことを嘆いていたら、今度は顔面を半分なくしかけている。

 おれは川べりに膝をつきかけた。が、左足が前後反対になっているのを思い出してとどまった。近くに大きめの岩があったので、そこに腰かけた。腰の骨が可愛くペシッ、と鳴った。


 右手が折れている。

 左膝から下は裏返しになっている。

 手や腕や顔には葉の刺さった無数の小さな穴がグロテスクにポツポツ開いている。

 今は押さえてあるが、顔面の皮膚が半分ぺろりと剥がれている。 

 あと腰や背中にも何かしらダメージがあると思う。車にボベェンされた後からちょくちょく奇妙な音がするからだ。


 おれはつとめて、自分をはげまそうと試みた。

 …………これだけ全身がひどいことになっていても、「痛み」がないことは幸福なことに違いない。これは間違いのない事実だ。これで万が一痛かったらそれはもう、失神を百度繰り返すくらいの激痛が走っていることだろう。

 負傷の程度に比して出血量が少ないこともラッキーだ。それともおれは常人よりも血の気が少ないとかそういうのだろうか? そんなことはないはずだ。

 実はもうおれは死んでいて、このこぢんまりした川原が三途の川、という雑念が浮かんだので頭の中でぶん殴って粉々にした。縁起でもないことを言うな。バカ。 


 クマから逃げられて川に出たのだって幸せである。下界への連絡方法こそないが、ここには水がある。水分は補給できる。いや、川の水をそのまま飲むとおなかを壊すらしい。しかしまぁ顔は洗える。いや洗えない。皮膚が剥がれかけている。まず手足くらいは洗ってもいいはずだ。しかしそもそも、手足が洗えるからといってどうだというのか…………

 考えの向きを変えてみよう。ここは開けた川だ。登山者やキャンパーがやって来そうな場所である。明日か、明後日か、来週、来月…………まぁ先のことは考えず、とにかく待てばいい。ここにいれば安全だろう。クマが水を飲みに来たらこの岩陰に隠れるか、いっそのこと川を渡ればいい。くるぶしまでの深さしかないし、向こうの川原も開けていて──


 考えながら向こう岸に目をやった。

 森の奥に明かりが見えた。

 月の光や動物の瞳ではない。人工的な、ランプかライトか焚き火か、とにかくそういうものの光だった。

 おれは思わず立ち上がった。

「おぉい」

 声が出ていた。そのまま足が勝手にざぶざぶと川の中に入っていく。

「おぉーい!」

 右手を挙げて大きく振った。人だ。人がいるのだ。登山者かキャンパーがあそこに。

 口が開きっぱなしになった。いまさら過呼吸になりそうだった。 

「おぉーい!」

 頭の中が多幸感で満たされていく。しかし一割くらいは冷静で、「どうせいきなり深くなってるんだ」「足をとられて転んで頭を打つ」「巨大川ヘビに喰われる」などの不幸な可能性がボコボコと沸き立ってくる。なのでおれは足元に厳重なる注意を払いながら川を歩いた。人間がすぐ近くにいるというのに溺れたり転んだりヘビに呑まれでもしたら悔やみきれないではないか。


 おれは無事に川を渡り終えた。さらに慎重に慎重に、石の並ぶ川原を歩いていく。声を出すと足の力が抜ける気がしたし、顔の皮膚がズレるので叫ぶのはやめにした。


 森の中へと入った。光源は20メートルほど先だ。

 おそらくランプか火を囲んでゆったりしているであろう先方を驚かせないように、言葉を選んで声をかけなくてはならない。山の亡霊などと思われて逃げ出されてはコトである。「おぉーい」とか「こんばんはー」では気味が悪そうだ。「あのう、ヒトですか?」……これもよくない。「ちょっとお時間よろしいでしょうか?」……街角のアンケートではない。ここは山だ。

 距離を詰めていくと、あちらさんは3人ほどで、テントを張っていない様子だった。なるほどまだ暑い時期だから、寝袋だけで眠るのだろう。おれはキャンプには詳しくないので、そういう就寝方法もあるのだろうな。

 さらに近づくと、光の中で2つの影がせわしく動いているのであった。どうやら穴を掘っているらしい。なるほど、あれはトイレを作っているのだろう。残り1つは女性か先輩かで、作業を見守っているのだろうな。トイレにしては穴が大きい気もするが、ゴミ捨ても兼ねているのかもしれないな。うんうん。


 残り5メートルまで来た。大きく繁る木の葉を手でどければ、もうキャンパーたちの目の前だ。

「…………あのー、すいません」

 おれは考えに考え抜いた台詞を、できうる限りソフトな調子で口に出しながら葉を持ち上げた。

「ぼく、道に迷ってしまいまして……」


 その次の言葉は出てこなかった。


 男が3人いて、全員がおれの方を見た。

 穴を掘っていた2人はジャージ姿だった。

 一方は金髪で脇を刈り上げているくせに襟足は長く、もう一方は艶のある黒髪を伸ばして後ろで束ねていた。

 2人ともに、今にも噛みつきそうな凶暴な顔つきの若い男だった。

 穴は想像していたよりも広く、人ひとりが入るくらいの大きさで、人ひとりが埋められるくらいの深さがあった。

 そのそばに、青いビニールシートにくるまれたものがあった。2メートル弱ほどの長さで、ちょうど人ひとりくらいの、大きさの…………

 そして彼ら2人を立って見守っていた中年の男は、純血種とも言うべき「そういう人」だった。

 面長の鋭い顔に、ばっちりとパンチパーマを当てていた。サングラスではない色付きのメガネをかけていて、その奥の目は尖っていた。左頬に「ノ」の字の傷跡があった。

 ボーダーの入った薄紫色のスーツを折り目正しく着こなし、先の尖った革靴を履いている。

 まだ火のついていないタバコを挟んだ指には、指輪がいくつもはまっていた。

 小指は、あった。



「ンダオイッコラッテメェァーン?」 

「テメドッカラキタッダヨォーン?」

 若い2人が土まみれのスコップを振り上げながら穴から飛び出てきた。


「まぁまぁ……そういきり立つな、おめぇら…………」

 純血種みたいな中年の男は落ち着きはらった声で言った。

「まぁ兄ちゃん……なんでここにいるんかは知らねぇが……道に迷った、って?」

 男は懐から金色に光るライターを取り出してタバコに火をつけ、ゆったりと煙を吸った。

「まぁ、ちょいとばかり話、しようや…………な?」





【「暴」の巻につづく】

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