「刺」の巻

 まっ逆さまに落ちていくおれの身体は木の先端に突き刺さる、ことなく、生い茂る葉と枝の中に突っ込んだ。幸運なことに、背の高い木の先の真上に落下することはなかったのだ。


 ところが別に刺さってきたものがあった。まさにその木の葉っぱである。おれが落ちたのは針葉樹の森の中だった。群生しているらしい松だかモミだかの尖った葉や枝先がぷすぷす刺さる感触があった。


「わ~」


 分厚く重なるように繁った葉がクッションの役割を果たすのか俺の落下速度はゆるやかになっていくものの、それと比例するかのように針葉樹の名の通りに尖った葉が刺さっていく。


「うわ~」


 眼球がやられてはまずいと思って目をしっかり閉じた。枝と葉にもてあそばれるようにおれの身体はぐるんぐるんに回転してそのたび全身のいたる箇所に刺さりまくる。 


「うわぁ~」


 尖ったものが身体に食い込んでいく感じはあるもののやっぱりこれっぽっちも痛くない。ただあまり気分のよいものではない。たくさんの知らない人に全身を指でまさぐられているようなそんな嫌な感じである。


 あぁ、そうか。おれはようやくわかった。


 さっきから手首が180度折れてたり足が逆向きになってたり、あるいは針葉樹の葉がぷすぷす刺さり続けるこの感じ、さっきから言葉にしがたくてモヤついていたこの感じにふさわしい表現にようやっと思い至ったのである。


「気持ち悪い」だ。



 どすん、と大きな音を立てておれの身体は着地した。


 茂みの中に尻から落ちたのであるが背骨の付け根あたりから「クキッ」と軽い音がした。葉っぱの中をくぐってきたことと落下地点が茂みだったおかげか勢いはかなり殺されており、身体への衝撃はほとんどなかったようだった。とはいえ痛みというものがわからないので、はっきりしたことは言えないが…………


 おれはしばらく、茂みのど真ん中で仰向けに寝っ転がっていた。山は空気が澄んでいるらしく、街中では見えない星が空にあった。星を数えてみる。いち、に、さん……ちゃんと数えられる。意識があり、頭はしっかりしている。すなわちおれは生きている。

 あの高さから落ちたら十中八九死ぬと思ったものの、今回は残りの二か一のようだった。


 どのくらいそうしていたかわからない。先んじて落ちたあのお兄さんのスマホのことを思い出して、おれは起き上がろうとした。あれが見つかれば、また救援を頼める。


 腹のあたりに、モヤモヤしたものが生えていた。


 いや腹だけではない、太股や胸や、二の腕や手の平にも、なにやら名状しがたいモヤモヤがある。いきなり身体中に毛が生えて剛毛になったみたいな気分だ。しかしいかんせんここは真っ暗で自分の身体は見えない。


 少し向こうに、木と木の間から月明かりが射し込んでいた。おれは立ちあがり、当然ながらまだ反転しているであろう左の足運びに注意しながら、よたよたとそこまで歩いていった。


「…………えぇ…………?」


 月光で自分の首から下を確認したおれは絶句した。それからしばらくしてこんな言葉が口から転がり出た。 


「き、気持ち悪い…………」



 全身のほとんどの部位に、尖った葉や枝が刺さっていた。


 服から出ている腕や手の平に、少しでも柔らかそうな部分にびっしりと、みっしりと、数センチほどの長さの深緑色や茶色の細いものが並んでいる。服を着ている腹や胸にすらかなりの量が突き刺さっている。おそらく背中もそうなっているだろう。


 ……そういえば何だか視界が全体的に暗い。森のただ中とは言え青臭さも強すぎる。よもやと無傷の指先で顔を触ってみる。額や頭部などの硬いところは無事だった。しかし顎や頬や鼻のあたりはそうはいかなかった。皮膚そのものに触れないのだ。皮膚から数センチの高さまで細くて長くてしなやかなものが出っぱっている。手の平と同じくびっしりと、みっしりと、葉や枝が刺さってることは明白だった。


 ケースに入っているつまようじを思い出していただきたい。ヘニョヘニョしたプラスチックの容器に二百本だか詰まっているあれだ。俺の顔や腕はまさにああいうことになっていた。


 命が助かったのだから切り傷すり傷刺し傷程度なら文句は言わない。しかしそれにしたってあんまりだと思った。これはさすがに刺さりすぎだ。針葉樹ってこんなに葉っぱがカッチカチなのか。それともおれの皮膚が柔らかすぎるのか。それはわからない。そんなことはどうでもいい。やっぱりこれは刺さりすぎだと思うのだ。 


 おれは靴ヒモもスマホも外れず固定したまま無事だった右手の指で、左の手の平に並んでいる針葉樹の葉をつまんで一気に引き抜いた。それを何度か繰り返し、最後の数本を取り去ると、左手はようやっとハリネズミを脱して元の形になった。 


「んもうっ!!」


 おれは手を休めず、今度は腕の枝葉を抜きにかかった。先ほどはおそるおそるだっだが案の定痛みはなかったので、作業に手間取ることはなかった。両手両腕の「剛毛」を除いたら次は顔面だ。鏡がないのであてずっぽうに掴んでむしっていく。身体に刺さったモノを抜く行為によって快感と気分の悪さがないまぜになった感じが延々と続く。それが終わってから首にかかり、腹部や胸、手が届く位置までの背中や腰に固まる少量の枝葉を乱暴に取り去った。


 手の平で全身をまさぐって、抜きもらした数本を除去した。背中の一部を除いた全身がようやくモヤモヤから解放された。 


「はぁ……もう…………」


 おれはため息をついた。


 今が本格的な夏で、もし俺がランニングシャツに短パンとかだったら全身がもっと悲惨なことになっていたろう。あるいは全裸とか。全裸で崖から落ちる状況が思いつかないものの、それと比べたらまだマシと考えて自分を慰めた。


 それから月明かりの中に戻った。手がちゃんと綺麗さっぱり「除毛」されているか、改めてきちんと確かめようとしたのである。

 おれは左手を見た。 


「ウェーッ!」


 おれは気を失いかけた。


 手も手の平も腕も、無数の小さな穴だらけになっていた。

 刺さり方が甘かったのか血は出ていない。表皮を突き抜けるか突き抜けないかぎりぎりの深さだったらしいが、いっそのこと血まみれの方がまだマシというものだった。

 1ミリほどの「穴」が手から腕まで、枝葉の刺さっていた部分すべてにブツブツと広がっている。無数の小虫が寄り集まっているかのようでもあり、毛穴という毛穴が目に見える程度にぽっかり広がってしまっているかのようでもあった。


 おれは指先で顔をなぞった。顔も同じだった。人さし指の先ですら感じられるような小さな穴が顔面全体に数限りなく開いているのがわかる。いやいやまさかそんな、とおれは口から舌を出して唇の回りを探ってみた。散らしたたくさんのゴマ粒を舐めているような感触が舌先に走った。

 おれは急激に現実逃避したくなって頭頂部に指をやった。ツルツルしている。血が固まり出血はほぼ止まっていたが、頭蓋骨は露出したままである。そうだよな、人間の皮膚ってのは本来このくらいツルツルでなきゃいかんのだ。これが人間というものだ。

 おれはこういうブツブツやボツボツが大の苦手なのだ。もう本当に苦手なのだ。勘弁してほしいくらい苦手なのだ。

 整然と揃った蜂の巣の穴も苦手だし、びっしり種の埋まったイチゴの表面もまじまじとは見ていられない。ネットで悪い奴が貼っているブッツブツの、ボッツボツの、プッツプツな画像なんかをうっかり見てしまった日にはぎゃっと椅子から飛び上がって逃げてしまう。

 そのブツブツやボツボツが画面越しでなく、目の前でもなく、自分の身体に現れたわけである。


「ひどい……」


 俺は月光の下から逃げて、木のそばの暗がりまで歩いた。自分の姿を眺めたくなかった。


「あんまりだ…………」


 木の幹に左手をかけて寄りかかった。足がグネッと曲がっていたさっきとは比べ物にならないくらい立っているのもやっとだった。身体の痛みはなくっても心は痛むのだ。やっぱり俺も人の子だった。 


 この腕や手や、特に顔面の穴は一時的なものなのだろうか? シーツのシワが顔面にくっついたようなもので、数時間とか数日経てば消えてくれるものなのか? そうだったらいいと思う。切に願う。だがもしも、そうでなかったら、


「最悪だ…………」


 俺は右手を顔に当てて泣きそうになったが、触ればいやが上にもこの皮膚に開いた穴を感じることになる。なので手を下に戻した。 


「マジ最悪だよ…………」


 針葉樹の真下でおれはそう繰り返した。


 しかしおれは間違っていた。

 まだ最悪ではなかったのである。


 背後の森の奥から、鼻を鳴らす音がした。


 人間の鼻息ではなかった。もっと大きく、荒っぽい。野性動物のそれだった。

 森の全ての木の葉が少しばかり揺れた気がしたほどの力強い響きがあった。そうなればウサギやキツネではない。イノシシやシカでもない。


 獣の臭いがした。


 おれが振り向いたのと同時だった。森の奥から月の光の中にのっそりと、その巨大な姿は現れた。


 赤ちゃんとか子供という大きさではない。大人も大人、しかもその威圧感から、ほぼ決定的にオスであるように見えた。


 クマであった。


 すぐ後ろの森の中から、巨体のクマが現れたのである。


「く、く、」


 クマかよ、と呟ききる前におれは針葉樹の背後に隠れた。ヒグマはがさがさと草を揺らしながら動いている。たぶんおれが落っこちてきた音で眠りから目を覚ましたのだ。または腹を空かせて起きたのか。後者でないことを願った。


 おれは幹にぴったりひっついて木のふりをした。ここが水面ならさざなみすら立てないつもりで静止した。明鏡止水というやつだ。それから心まで木と一体化しようとした。いやそれでは足りない。おれは木そのものになろうとした。ハイ、木デスヨ、ボクハ木。森ニ立ッテイル、タダノ木サ。

 ヒグマは鼻をスンスン言わせながらこちらへ、明らかにこちらへと歩いてくる。ボクハ木ダヨ。血ミタイナ臭イガスルケド、ボクハ木ダヨ。

 四つ足で歩くヒグマの影がぬう、と暗がりの中に忍び入ってきた。でかい。おれはちびりそうになった。月の残光でその姿は異様に深く黒く、空気の中にぽっかり開いた穴のようにすら見えた。逆立つ毛は針金みたいに硬く逆立っている。あれと比べたら針葉など子供のオモチャにもならない。男の汗臭さを何倍も濃密にした獣の体臭が漂った。

 ヒグマは鼻をかぐ。どう見てもこのへんにアタリをつけている。おれは木であることを続けながら、クマに出会ったときの対策法を頭の底の底から引き上げんと頑張っていた。

 死んだふりはよくないことは最初に思い出された。「おっ、変なのが倒れてるね」と爪で引っかかれたりカプッといかれて終わるらしい。なので木のふりをしている。あと山に入るときは鈴を鳴らしたり大声を出してやるとクマは警戒して来なくなるはずだった。ただ現在まさに目の前に来てるので、いま大声を出したら爪で引っかかれたりカプッといかれて終わりだ。

 その他テレビやネットでチラ見した、様々に断片的なクマ知識を思い出したものの、「自分が木のふりをして、相手方がすぐそばにいる場合」の対処法はなかった。マスコミはそんな状況などないと思っているのだろう。ある。今おれがそうなっている。どう責任をとってくれるんだ。


 にわかに、ヒグマがぬっと二本足で立ち上がった。ドでかい。おれは再びちびりそうになった。クマとはこんなに大きくおそろしい生物なのか。なにがテディベアだ。あれは別の生き物に違いない。


 相手は高い位置から鼻を鳴らして臭いの元を探している。血の臭いだ。手負いの、喰うには絶好の相手と思っているのだろう。

 ガタイのいい怖そうなお兄さんへの絶叫はさっきこそ効果があった。ただあちらは人間でこちらはクマである。「オオッびっくりしたぁ!」くらいのリアクションはしてくれるかもしれないけれどその後で「まぁそれはそれとしてね!」とビンタを一発かましてきておれが終了する。

 そんなこんなでおれは打開策も見つけられないまんま、ボクハ木ダヨを続けた。これほどまでに動かないことに必死になったのは生まれてはじめてだった。いつもは動け、働け、仕事しろと言われているのに。


 首をめぐらせているクマの頭は、おれの顔の30センチほど上にある。その瞳はうるんでいてかわいらしいとさえ思えたが、直後に苛立たしく一瞬剥き出しになった牙の鋭さがそれを帳消しにした。

 肩から腕にかけての丸太のような太さとその先にくっついた爪の存在感といったらなかった。あんな危険なものがあっていいのだろうか。あれで掴まれただけでほとんどの人間が死んでしまうだろう。冗談じゃない。


 ふと目線をクマの顔に戻すと、クマはおれの方を見ていた。

 目がばっちり合った。





【「かわ」の巻につづく】

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