「叫」の巻


 おあつらえ向きに事故現場は誰もいない山奥である。そこのガードレールからよっこいしょと落っことせばまず見つからない。ついでにおれも助からない。

 おれが死んでいるならまだ諦めもつく。だがおれはまだ生きているのだ。すごく生きているのだ。

 起き上がって抵抗するべきだろうか? しかし相手は見るからに屈強な男であり、こちらはひ弱で右手首は折れてて顔面が血みどろでたぶん腰か背中も強く打っているモヤシ野郎である。ついでに頭頂部が削られてハゲている。肉弾戦で勝ち目はない。

 一点だけ有利な点を挙げるとするなら、向こうは俺が死んでいると思っていることだ。

 近づいてきたところに「うわぁーっ!」と叫んでつかみかかったらどうか? 「うわぁーっ!」と叫び返されてつかみ返されてガードレールの外側に放り出されるだろう。

 お兄さんとお姉さんがひそひそ話をしているのが聞こえる。突然お姉さんが「はぁッ!? なんでェ?」と激怒した。たぶん死体を運んで落とすのを手伝ってくれと頼んだのだろう。死んでないけど。

 彼が彼女を説得するまで時間がなさそうだ。あるいはあきらめて一人で取りかかるかもしれない。俺の頭はグルグルと可能性を探った。逃げ出そうか? いやあっちには車がある。再度はねられてから念入りにすり潰されて終わりだ。あの二人を倒すか退散させなければならない。ベストの方法を思いつかなければ……おれは死ぬ! 考えろ! 考えるんだ!



 思い浮かばなかった。



 マンガだとだいたいこういう場面では「そうか! これだ!」となるもんである。しかしこれは現実であり現実とはいつも冷たいものだ。

 その冷たさに徐々に腹が立ってきた。現実のせいと言うよりかアイデアが浮かばないおれの頭のせいなのだが、なんせこちとら頭皮がめくれているのでうまい考えなど浮かぶはずもない。

 腹立たしさは自暴自棄へと変化していった。

 よしじゃあ、もうどうなってもいいから、奴らが近づいてきたら絶叫しつつ起き上がってやろう、そう思った。その次には何をされるかわかったもんじゃないが、一発かまして仕返ししてやらないと気が済まない。だって向こうが加害者で、おれは被害者なんだもん。

 腹筋に力を入れて頭を1センチだけ浮かせてみる。ちらりと見れば、腹部はケガをしていない。大きな傷を負っているようなモヤつきもない。

 いける。起き上がれる。

 確認し終えた直後だった。道の先に停めてあった車が動きだし、狭い道をどうにかUターンしておれの方にヘッドライトを向ける形で再び停まった。一瞬轢き直されるのかと身がすくんだが、この山道を降りる準備を先にしたらしい。

 ドアが開いて、大きな音を立てて閉じられた。決意の力みなぎる音だ。そうしてライトの逆光の中、お兄さんが俺に近づいてきた。おれは薄目を開けるだけにとどめた。お兄さんは頭の脇に手を掲げ、物体を握っている。鈍器や拳銃にしては薄く見える。では刃物か。刃物だな。やはりああいう類の人は車内やポケットに刃物を常備しているのだろう。

 やはりこいつはおれを消すつもりなのだ。寄ってみて死んでいたらそのまま崖下へ。まだ息があったら持っている刃物で殺るつもりなのだ。どっこいおれは生きている。息があるどころではなしにどうにか反撃できる程度には体力も残っている。

 俺はまた腹に力を込めて準備をした。とりあえず、足元まで来た相手に起き上がりと絶叫をぶちかますのだ。その後は野となれ山となれの出たとこ勝負である。勝てるとは思わないが傷のひとつでも負わせてやりたい。

 背後からのヘッドライトと上から照らす街灯のせいで、お兄さんの姿は真っ黒に見えた。後ろにはギンギラに紫色の車がどんと控えている。それもまた実に悪者らしく見えた。緩慢な歩みがまた悪人っぽい。倒した相手を見下すために近づいてくる悪役のようだ。

 いや、もう「お兄さん」などではない。敵だ。「奴」だ。そうか、奴がそのつもりならこっちにも考えは、特にないが、せめてビビらせるくらいはしてやろうではないか。

 奴が、おれの足元までやってきて止まった。俺は呼吸を止めた。死んだふりだ。奴は腰をかがめた。顎が上下に少し動く。倒れているおれの肢体をまじまじと観察している。死んでいるな、と確かめているのだ。悪いな、おれは死んじゃいない!

 今だ、と思った。


「うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!」

 おれは叫びながら一気に半身を起こした。


「うわあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」

 奴は叫びながら背中を向けて逃げていった。


 一目散に車に駆け寄った奴はドアを開けた。車内から女の金切り声が聞こえた。

「なに何なに! なんなの!? どうしたの!!」

「ヤベぇよ! ヤベぇよ! こえぇよ!! 逃げ」

 ドアがバタンと閉められエンジンがかかり、車は猛スピードで山道の下り坂を走り去った。



「えっ」

 おれは当惑した。

 どうやら、勝ってしまったようだった。

 数秒後、胸の奥に爽快感がぐいぐいと満ちてきた。一撃必殺、まさかの大逆転で、人生最大の勝負に勝利したのだ。これが誇らしくないわけがない。

「ふふ、ふ、ふふふ」

 おれは不敵に笑った。なんと痛快な一幕だったろう。大ケガを負ったか細い青年が、むくつけき悪人を退散させたのである。

 ふと見れば、さっきの野郎が履いていたのであろうスニーカーが片方、横倒しになって落ちている。逃げる時に靴が脱げちゃったのだ。シンデレラかよ。0時は過ぎているんだぜ。そういえばあいつ、叫びながら両手を中空に上げて駆け出したっけ。まったく間抜けな悪党だ。

「ぬふふ、ふふ、ぬふふふ」

 おれの笑いは午前1時過ぎの道路に響いた。物音もしない静寂の山道に…………


 …………いや、無音ではなかった。

「もしもし? どうされました? もしもし?」

 誰かの小さな声がする。

「もしもし? どうされました? 聞こえますか?」

 おれはぐるりを見渡した。人の姿はない。それに声はだいぶ低いところ、地べたに近い位置から聞こえてくるようだった。

「もしもし? もしもし? あのう、よろしいですか? 切りますが? 一度切りますが大丈夫ですか?」

 おれはようやく街灯の下に、黒い板切れを発見した。

 スマホだった。さっきの奴が驚いて投げ出していったのだろう。

 ということは、奴が顔の脇に構えていたのは刃物なんかではなく、あのスマホだったことになる。

 おれの死を確かめんとするあの状況でどこに電話をかけていたのだろう? 車の修理を闇で請け負う業者か、あるいは処分を引き受ける組織か。それにしては丁寧な喋り方だ。まるでお役所のような……


「こちら119番ですが、ご反応がないようなので、一度切ってしまってよろしいですか?」


「えっ」

 それ、今おれが一番かけたい番号だわ。

「ちょ」

 言い出す前に電話は切れた。ツーツーいう虚しい音がかすかに耳に届いた。


 …………あのお兄さん、救急車呼ぼうとしてたの? マジで?

 あんなイカツい顔してたのに? 車高の低い車に乗ってたのに? しかもパープルの。ツカグチさんとかいう完全に怖そうな名字の人に電話してたのに?

 じゃあ何、ツカグチさんは「そんな野郎は山にでも捨てろ」じゃなく、「救急車を呼べ。逃げずに罪を償うんだ」とかってアドバイスしたの? 「俺、怖いッス」ってのは、人を轢いてしまった事実とそれを背負うのが怖いって意味だったの? あの顔は、贖罪の決意?

「いや……それは……ずるいわぁ…………」

 おれは呟いた。どうずるいのかはわからなかったが、とにかくずるいという表現しか浮かばなかった。人は見た目で判断しちゃいけないなぁ、と思った。

 しばしぼんやりとした後で、おれは右腕をしっかり握っていた左手をそっと離した。それから右手がぽろりと外れないよう注意しつつ、左手で尻のポケットに入れてある自分のスマホを取り出した。とにもかくにも救急車を呼ぶのである。

 さっき心優しいお兄さんが、頼れる先輩ツカグチさんや119番に電話をしていた。つまりこの道路では電波が入るのだ。

 おれは取り出した自分のスマホを見てあー、と嘆息した。画面が粉々に割れている。電話どころか電源すら入らない。完全に死んでいる。おれは生きているというのに、頼りないスマホだ。

 しかし、俺にはもう一台スマホがある。お兄さんの落としていったやつだ。やったね。

 お兄さんの残していってくれたスマホを取りに行く必要があった。上半身は動くので、きっと下半身も大丈夫だろうと思った。腰を強く打って違和感のようなものは漂っているものの幸運なことに痛みはない。頭部のような生あたたかさも感じないので出血はしていない様子だ。大丈夫大丈夫。

 俺は再び左手で右手首をつかんで固定してから、自分の下半身を見た。


 左足が変だった。


 180度ぐりん、となっている。靴の踵が完全に見える。よくよく眺めればズボンの左の膝あたりが雑巾を絞ったようにねじれた上にボコッと何やら丸いものが浮き上がっている。人間の膝にああいう丸っこい突起はなかったはずだ。

 ははぁこれは、膝から下が回転してるってわけね? と俺は頷いた。しかしやはり痛みはない。180度ぐりん、となっているのを目視してはじめてさっきみたいなモヤモヤが発生しだしたが、やっぱり「痛み」は、これは「痛い」ぞと問答無用でわかるような感覚はやって来なかった。

 どうやらおれは本当に、奇跡のように鈍感であるらしかった。


 この左足で歩けるだろうか。いやそれ以前に立てるだろうか。俺はまず無事に見える右の脚を曲げた。曲がった。それから左の脚を曲げる。曲がった。「ええっ?」と声が出た。プラモの脚部に無理矢理反対に脚をくっつけたような形にはなっていたが、ちゃんと稼働するのである。

 おそらく骨は折れるかどうかしているが、筋肉は損傷なく無事であるらしい。人体の仕組みについてはよく知らないが。とにかく動くことは動く。問題はこれで立てるか、歩けるか、だ。

 左手で体を支えつつ、気合一発立ち上がった。コキンと左の膝から妙な音がしたものの、直立はできる。足元を見やると右には靴の爪先が、左には靴の踵が揃っている。どうも居心地が悪い。いっそのことねじれている脚を元に戻そうかとも考えてみたがやめておいた。一歩踏み出した途端にズレて嵌まっていた膝が外れて、ブチリと足がもげて倒れ伏す図が浮かんだからだ。足は、もげたらたぶんくっつかない。

 おれはそろり、と左足を出した。体重の二割ほどをかけてみる。コキン、とまた音がしたがこの程度なら問題なさそうだ。裏表になっているとは言えこれはこれで安定している。

 ゆるゆると移動して、まずお兄さんの残していったガラスの靴……ではなくスニーカーを拾いあげた。何かに使えるだろう。それから彼のスマホを拾って、今度は右、左、右を確かめてから道路を引き返した。

 痛みは絶無とは言え足も手もヤバいことになっている。大きく動いてべったり座り込むわけにはいかない。おれはガードレールに尻を置いて一息ついた。ここなら座っていられるし、街灯も当たるし、猛スピードの車にはねられることもない。

 背中側にちらりと目をやった。ガードレールのすぐ外は切り立った崖になっていて、下には真っ黒な森が口を開けている。「うわ、おっかねぇ……」と呟いて、体重を腹の側にかけた。ここから落ちるだなんて想像もしたくない。気をつけて座っていないといかんのである。

 救急車を呼ぶ前にまず、気を抜くとポロリしそうな右手をどうにかしたかった。靴のヒモがある。添え木のようなものがあれば。そうだおれの割れたスマホがあるじゃないか。どうやら頭が冴えてきたらしい。靴を小脇に抱えて歯で靴ヒモを抜き取り、右手を太股に置いてスマホをあてがってぐるぐる巻きにして縛った。我ながら見事な仕上がりだった。これで左手による介助はいらなくなったわけである。

 それからポケットに入れておいた、お兄さんの遺失物であるところのスマホを出した。脇のボタンを押すと画面が光った。

「アーッ、ちくしょう!」おれは毒づいた。

「暗証番号を入れてください」の文字が表示され、4つのマスが出ている。スワイプロックや指紋認証でないだけマシだが、ちくしょうあんなナリしてロックなんかかけちゃって…………

 おれはまず「0000」と入れてみた。本体が震え「番号が違います」と出た。さすがにそう簡単にはいかない。この調子でやっていくと10×10×10×10=10000通りの暗証番号を試さなくてはならない。正解を見つける前に朝が来る。ことによっては明日の昼になるかもしれない。

 車のナンバーを思い出そうとした。ああいう人たちは概してそういう番号を使いたがるものだと思う。誕生年、誕生日、恋人の誕生日、車のナンバー、このあたりが怪しい。

 ナンバーは何だったろう、8からはじまっていたような記憶がある、思い出せなかったらあのお兄さんの容姿から予想して誕生年を入れてみよう、そんなことをつらつら考えながらおれは戯れに「1234」と入力した。


 ロックが解除された。


「えぇ…………?」

 彼の悪口を言いたいわけではないが、ちょっとこう、なんか、それってどうなんだろう。ATMの暗証番号は1111とかなんだろうか? ちなみにおれのは「4649」でヨロシクだ。1111や1234よりはセキュリティレベルがだんぜん高い。

 ともかく幸運にも15秒でロックは解除された。ありがたい。おれは電話のアイコンを押して、心を込めて「1」「1」「9」とタップした。

 相手は1コールで出た。「もしもし、119番です」とのキビキビした男性の声を聞いた途端に思わず安堵の息が洩れた。一気に力が抜けてスマホを左手から取り落としそうになったほどだ。


「もしもし、火事ですか救急ですか?」

「だいぶ救急です」

「病気ですか? ケガですか?」

「ものすごいケガです」

「どなたが」

「僕が」

「あなたがケガを」

「はいそうです、交通事故で。車に轢かれて」

「大丈夫ですか? 痛みはありますか?」

「痛みはないんですが、たぶん大丈夫ではないです」

「…………状態は」

「いろいろメチャクチャです」

「メチャクチャ」

「とにかくメチャクチャです」

「…………わかりました、場所はどちらでしょうか?」

「えーと…………………………山、ですね………………」

「山」

「山」

「山で交通事故。道路、路上でしょうか?」

「そうですね」

「場所は?」

「まぁ…………………………山、ですね………………」

「…………山、ですか…………」


 おれは昼に見た、階段の下に立っていた神社の看板を思い出そうとした。しかし思い出せなかった。あまりにも平凡な名前だったのだろう。

 しかし先方は慣れたものだ。とても的確な質問をしてくれた。

「標識や表示や、何か目印になるようなものはありませんか?」

「ああ、目印ですね? ええっと」

 おれは思わず、勢いよく左右を見回した。それがまずかった。

 スマホはその勢いのせいで左手の指先からすぽんと抜けた。そしてガードレールの崖下側に音もなく飛んだ。

「あ」

 無意識のうちに左手が出ていた。左手が伸びれば肩も前に出る。肩が前に出れば上半身も傾く。薄いガードレールに乗っていたのは尻だけだった。

 おれはバランスを崩した。

「わ~」

 おれはガードレールの向こうの、暗くて黒い森の広がる崖の下に真っ逆さまに落ちていった。





【「刺」の巻に続く】


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