死にかけ

ドント in カクヨム

「轢」の巻



 やっと森から道路に出れたと思ったら、おれの身体はすごい勢いで車にはね飛ばされた。


 夜中の1時の山道だ。車を運転してた奴も驚いたと思うがこっちも驚いた。そんな時間に車が走っているとは考えない。森で散々迷っていたところにようやっとアスファルトが現れたので「やったァ! 道路だァ!」と喜び勇んで走り出たらボベェンと轢かれたわけである。

 車は車で森から人間、もといおれが「やったァ! 道路だァ!」と喜び勇んで走り出てくるなどとは夢にも思わない。なので相当のスピードで飛ばしていた。

 車高のえらく低い、紫色の改造車だった。まずおれの太股がボンネットにグイッと持っていかれた。そのままそこを支点にクル~ンッと身体が90度回転し頭がフロントガラスにブチ当たった。どのくらいブチ当たったかと言うと顔が半分めり込んで車内の様子が一瞬見えたくらいブチ当たった。茶髪でピアスをしたゴツい体つきのお兄さんと、茶髪でピアスをしたケバめの化粧をしたお姉さんがすごくビックリしていた。お兄さんは女子のように両手を口に当てて驚愕していた。手放し運転は危ないと思う。

 そこから今度は刺さった頭を支点にクル~ンッと下半身が回転して身体が車の上部に激突した。腰のあたりを強く打ったと思ったら頭がガラスから抜けてそのままおれは後方に落下した。

 一瞬の出来事だったのにどうしてこうも詳細に記憶しているかと言うと、まず第一におれが走り出た道路の真上にはちょうど街灯がひとつ立っていたからである。それゆえ俺を轢いた車も運転手もその連れもよく見えたというわけだ。

 第二に、これらの一連の出来事がおれには全てスローモーションのように感じられたのであった。

 昔テレビ番組で、


「バイクが……宙を飛びました。

 瞬間……周りの全てがゆっくりに見えました……

 地面にぶつかる瞬間……

 僕はとっさに……受け身をとったんです……

 柔道の経験がここで役に立つとは思いませんでした……」


 と語っている若い人を観たことがある。なるほどそうか、あの人の言っていたのはこういうことだったのか、とおれは納得した。

 問題は、おれには柔道の経験も受け身の経験もなかったことだ。

 ボンネット、フロントガラス、車の天井への三激突を経て路面に落下する直前も、全てがゆっくりだったのに「あ~地面、地面来てるな~、地面来てる~」と考えることしかできなかった。

 それでもおれは人並み程度の知性は持っていたので、頭とか顔から地面にいっちゃうのはよくないな、死んじゃうやつだな、くらいのことはわかった。なので道路スレスレの高さになってからとっさに右腕を顔の前に出して頭をかばった。

 接地の瞬間右腕から「ペキョン」みたいな小枝が折れるような音がした。右腕がバネのようになって身体が軽く跳ね、おれの肉体は綺麗にぺしん、と背中から路面に叩きつけられた。見事に街灯の真下だった。

 時間にして3秒と経過していないと思うが、このようにしておれは深夜の山道で車にはね飛ばされたわけである。



 読者の皆さんの中にはまず、おれがどうして深夜の山をさまよっていたのか気になる向きもあろう。その理由は実に簡単で単純でバカバカしい話なので先に書いてしまう。

 おれは休みの日に街を歩いていた。するとひょっこりと「この上、●●神社」と書かれた看板と、山の上へと伸びる階段があった。

 おっ神社いいじゃん神社、最近運動不足だし、階段いっとくか? そのくらいのノリで登りはじめた。そこまではよかった。

 神社への階段をダラダラと登っていると、階段の途中に脇道というか、この山をよく知る人しか通らなそうな山道があることに気づいた。

 おっ山道いいじゃん山道、神社なんか行っても拝んで帰るだけだし、ここは一発、登山としゃれこもうじゃん? そのくらいのノリで脇道に入った。

 休みの日に街を歩いていた格好と持ち物で登山をはじめたと、ざっとまぁこういうわけである。そこまではまだギリギリセーフだったかもしれない。

 その道なのだが、ただの山のただの山道なので面白くもなんともない。木がワーッと立ってて草がワーッと生えてるだけである。こりゃ面白くねぇなぁととって返して神社で拝んで帰って牛丼とか食べて寝ればよかったのだが欲が出た。人間欲を出すといけない。おっここに謎めいた小道があんじゃん、小道いいよね小道、興味深いもんが発見できるかもしんないよね? 

 そうなると、まぁ、迷う。必然として。山を舐めるとこういうことになる。


 こっちにも木あっちにも木、前も後ろも左右も木に囲まれて、あれっこれは、もしかして迷った? とわかった時点でもう遅かった。電波が入らないのでスマホの地図も役に立たない。電話もメールもできない。これは大変だ。悲しいことにスマホの時計で時間はわかる。3時過ぎに神社へ向かい色々あって現在6時、山はただの山なのでどんどん暗くなる。登山したことも遭難したこともなかったのでどうしたらいいかわからず、足元だけに注意しつつ道なき道を当てずっぽうに歩いていった。周囲の風景にまるで変化がない中で時間だけが過ぎていく。勘弁してくれよ~、うわ~テッペン越えちゃったよ~、おれ明日会社なんだよ~? などと考えていたらひょっこりと道路に出た。「やったァ! 道路だァ!」、ボベェン、クル~ンッ、ペキョン、ぺしん。

 これが本日のおれの流れだった。これまでの話で、軽い気持ちで山に入ってはいけないということがわかってもらえたかと思う。つまり、軽い気持ちで山に入ると、車高の低い紫色の改造車に轢かれるのだ。



 アスファルトに叩きつけられたおれだったが生きていた。それどころか身体のどこにも痛みはなかった。頭か背中か肘のどこかが少しくらい痛くても変じゃないのに、これはおかしい。

 よくよく考えてみると、興味深い事実が頭の中に浮かんだ。

 …………おれは生まれてこの方、「痛い」と思ったことはあるだろうか?

 …………ない。一度もない。

 一度として「痛い!」「ツッ!」「ウグッ!」とうめいたことがない、はずだ。


 これは大変なことに気づいた、とおれは大の字の状態で思った。もしかしたらおれはちょっとやそっとのことではケガをしない超人なのではないか。マンガみたいな。アメコミみたいな。もしそうだったら今この瞬間からがヒーローの物語のはじまり、ビギニングというやつなのではなかろうか。

 おれが超人か否かを確かめるには、さっき「ペキョン」と音を立てた右腕を確認するのが手っ取り早い。あの音は気のせいだったのかそれともケガをした音だったのか? おれは寝たまま右腕を持ち上げた。やはり全然痛くない。うん、これは折れてない。これは折れてないぞ。そのまま顔の前まで持ってきた。


 右手は折れていた。


 右手が、力なくペローンと180度曲がって、手首の方にぴったりくっついている。だらしなく垂れ下がっていると言ってもよい。ちょっと振り回したらもげ落ちそうなくらい重力に負けている。手首の先からは赤く染まった白っぽい尖ったものが突き出ている。骨だ。そのさらに先には赤黒い肉と細長い血管がこびりついている。全体重をモロに乗せられた右手首がペキョンとなって骨が突き出ている、とこういうわけである。

 おれは念のため目を閉じた。夢かもしれない。もしかしたら折れていないかもしれない。目を開けた。右手は折れていた。はい折れてる。これが世に言う開放骨折というやつだ。なるほどねー。

 悲しみにひたる暇もなく骨の先から血が垂れてきた。数滴が頬のあたりに落ちたので、どうやら無事な左手でぬぐうとこれが数滴という量ではない。手の平がべっとりと赤く染まっている。そういえばさっきから頭から首のあたりまでがホカホカあたたかい。視野が全体に赤い気がしないでもない。同じく左手で頭の先を触ってみた。頭頂部の髪の毛がごっそりなくなっていてそこからヌルヌルしたものが少しずつ湧いてきていた。指先で注意して探ってみるとなんかこうツルツルしている。血でヌルヌルしつつもなんかこうツルツルしている。ははぁこのツルツルは頭蓋骨だなとわかった。フロントガラスに突っ込んだ時か抜けた時に頭皮がえぐり削られたに違いなかった。顔面は血で真っ赤になっているのだろう。それはそれとしてやはり痛くない。

 あんまり触ると髪が二度と生えてこない気がしたので左手を放し、代わりに手首から垂れた右手の指をそっ、と握ってみた。だいぶ鈍いものの、指を握られた感覚はあった。でも痛くはない。

 そのままゆっくりゆっくり、右手首から上を、突き出ている骨の部分に戻そうと試みた。痛くはないのだが言葉にしがたいモヤモヤした感じが右手首周辺から脳に伝わってくる。

 だが、このまま元には戻せなさそうだった。骨がヌックと突き出ているのでそこにひっかかるのだ。

 しょうがねぇなぁ。

 おれは痛みがないのを幸いに、半分ちぎれかけている右手全体を握って少しずつ伸ばしてみた。皮膚と肉が溶けたチーズのようにニューンと伸びていく。見ようによっては美味しそうでもあったがこれは人間の手でおれの手なのだ。

 街灯の明かりを浴びながらおれは自分の右手を丁寧に引っぱった。いつぶっつり切れてしまうかと危惧しつつやっていたが、人の皮膚や肉は思ったよりも伸縮するものである。血管をずりずり引きずり出されるような感覚と顔に血が次々と垂れてくるのがイヤだったけれど、骨がモロに出ているのよりはマシだった。

 皮と肉が数センチばかり伸びたので、パーツを嵌めこむように慎重に、尖った骨にフタをするみたいに手首をかぶせてやった。

 見えない部分の骨がスッ、と綺麗に合わさった感覚があった。おれはその位置をずらさないよう左手で握った。右手の指を動かしてみる。動く。違和感も先ほどよりかなり少ない。

 

 よかった、とりあえず固定できた……そんな安堵もそこそこに、次なる疑問が湧いて出た。

 どうして痛くないのだろうか? 

 骨が完全に折れて右手がちょいとちぎれかけていて、おれはその手をちょっぴりニューンと伸ばしたというのに、「痛み」というものがまるでない。いや、そうではない。違う。


 そもそも「痛み」って、どんなんだったっけ?


 物心ついた時から今さっきまでの過去をざっくり回想してみる。そうして今度こそあっ、と驚いた。

 おれは生まれてこの方、「痛い」と思ったことがないのではない。

「痛み」を感じるような出来事そのものに遭遇していなかったのだ。

 まるっきり。一度として。

 心の「痛み」は、経験がある。たとえば半年前に彼女から「あんたってマジで鈍感ね」との言葉と共に別れを告げられた。あの時は本当に心が痛んだ。いやもしかすると「鈍感」というのはこのことを言っていたのではないか。違うな、たぶん違う。

 おれの言っているのは物理的な痛みだ。走って転んで膝を擦りむいたこともない。どこかに頭や腕をぶつけた記憶もない。カッターで指を切ったとか、叩かれて痛かったとか。ない。なんにもない。

 小学校から大学までの友達はしきりに「サッカーで足をひねって痛い」だの「一晩ゲームをしていて肩が痛い」だの言っていたが、おれにはそんな経験がなんにもなかったのだ。 

 友達や知り合いには、なんとなく「へー、大変だねぇ」「痛いっしょ~、それは~」などと適当に相槌を打っていた。痛みの何たるかも知らないまま、雰囲気で…………

 そして今まさに、普通の人間なら痛みで気が触れてしまうであろう状況に叩き込まれたおれだったが、実は痛みというものをまるで感じない体質であったことが判明したわけである。偶然とめぐり合わせというのは、まったくおそろしい。



「マジッスよマジ! 山道トバしてたら! 人がいきなり飛び出てきたんスよ!!」

 左手で右手首を握ったまま寝転んでいる俺の耳に、離れたところから声が聞こえてきた。目だけでそちらを見ると、おれを撥ね飛ばしたお兄さんが車から降りて誰かに電話をしている。路面にブレーキ痕が黒々と光っている。車は森に突っ込むこともガードレールを突き破ることもなく、道路に踏み止まったのだ。

 お兄さんはいかつい体格に見合ってこんがり日焼けした顔面をしていた。顔が怖い。その怖い顔がいま困惑一色だ。所在なげにうろつき回りながら通話していた。そうとう狼狽している。電話先は口調からして年上の人間だろう。職場の先輩とかだ。このお兄さんの容姿から、アロハシャツを着て半袖から皮膚に描いた絵がチラ見えしている男が先輩の姿として想像された。たぶん金色のネックレスとかしてる。常に眉間に皺が寄っているタイプだ。前科があるかもしれない。

「マジでガチの本当なんですよ! いや死んでますよ! あれ絶対死んでますって!」

 死んでないんだけどなぁ。

 お兄さんがうろうろしている最中、助手席のドアが開いた。

「ねぇっ! もういいよォ! あんなんほったらかして逃げよ!!」女が半身を乗り出しながら鬼の形相で叫んだ。 

 あんなん呼ばわりとはひどいと思う。俺も人の子なのだ。

「アッチョットスイマセン……お前うるせぇよ! ツカグチさんと話してんだからよ!」

「なにもう! あんた何かあるとツカグチさんツカグチさんだよねっ!」

「ちょっと黙ってろよ! ……アッスイマセン、連れがうるさくて……」

 先輩はツカグチさんと言うらしい。もう名字からしてパンチパーマだ。たぶん小指もない。そういう系の情報誌の「先代組長の墓参」の写真の端っこに載っているタイプの人だ。

 女はせっついている。電話先はまず十中八九そのスジの人だろうし、こういうゴタゴタは嫌うはずだ。

「どうしましょう! …………えっ…………マジですか…………?」

 それまで慌てていたお兄さんの声が急にしぼんだ。

「でも……いや、俺、でも……それは…………怖いッス…………」

 先程よりいっそう狼狽している。

「俺それは……ちょっと……女もいるし…………」

 雲行きが怪しい。

「いや……よくわかんないッスけど……俺にはとても……重荷っていうか……マジでキツいッスよそれ…………」

 ものすごく怪しい。

「……ハイッ! すいません! すいません! 申し訳ないです! わ、わかりました……やります……」 

 あーもう、「やります」だって。っていうかおれが「やられる」流れじゃんなこれ。

「……自分のケツは……自分で拭くんで…………! ハイッ!」

 お兄さんは意を決したように耳からスマホを離して、力を込めて通話終了のボタンをタップしたようだった。

 先ほどまでの慌てぶりは消え、腹を括った顔になっていた。


 これはよくないことになった。おれはそう思った。

 九分九厘、あのお兄さんはおれを「処分」するつもりだ。





【「叫」の巻につづく】

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