第15話 元底辺女子の誤算



 深山遥の生活は最高だった。

 誰もがちやほやしてくれる。


 遥、遥と、呼ばれる声はひっきりなし。

 困るほどに人々は遥を中心に世界を回す。


「玉砕覚悟だけど。もう一度だけ言わせてほしい」


 東海林涼太から再び告白を受けたのは、遥になってからしばらくした頃。


 ちらちらと、電車で視線を送っていたのは早々にバレた。(だって幾度となく目が合うから)

 鏡で何度も練習した笑顔は結局とてもぎこちないものになったけど、必死に笑いかけてみた。


 また、声をかけてくれたら。友達からでもいい。

 どうかもう一度、私に恋をしてくれないかと。

 そんな下心がバレていたのかと思うと少し気恥ずかしい。


「君が好きだ。どうか付き合ってほしい」

「よ、よろこんで!!」


 あまりにも、あまりにも夢のようで。

 幸せだった。


「あ、あのさ、俺たち付き合ってるんだから『遥』って呼んでもいいかな?」

「ぜひ呼んで! 私も涼太って呼ばせてね」


 その腕に絡みつく。

 冬子では絶対に出来なかった行動。

 涼太は嫌がったりはしなかった。嬉しそうに頬を染めて、大切に、大切に、お姫様のように扱ってくれた。


 思い通りに、して欲しいように、周りが動く。

 何もしなくても、勝手にすべてが整っていく。

 世界は自分を中心に回って、初めて『遥』は満足というものを知った。


 それからしばらく。

 ――何かがおかしい。


 ボタンを掛け違えたかのような、違和感が身を包むようになった。


「ねえ、今日は学食に行きましょ。久しぶりにA定食が食べたいわ」

「え、私お弁当持ってきてるから」

「なによ、一緒に食べたくないの?」

「そうじゃないけど……」

「なら行きましょ。お弁当なら中身だけ捨ててしまえばいいのよ。それならきっとバレないわ」


「パパ、私欲しいワンピースがあるんだけど」

「お、なら、次の週末には久しぶりに一緒に買い物に行くか? 娘とデートか。楽しみだな!」

「ええ? お金だけでいいわよ。一緒に出掛けるなんて面倒だもの」


「遥、宿題はやったの? 自分の部屋の掃除は? また間食? そんなにお腹が減ったなら、一緒に夕飯を作りましょうよ」

「もう、ママうるさい!」


 なんでよ。

 父はなんでも買い与えてくれて、母は娘に甘くて、友達はなんでもしてくれるはずなのに。


 綻び、ひび割れ、染みのように広がり、やがて――破綻。


「遥、悪いけど、いまのあなたには付き合えない」

「なによ、なんで言う事聞かないの? 前は頼んだらなんでもしてくれたじゃない」

「……そうね。遥が私たちにしてくれた分を、返していただけだけど。でも、それももう終わり。あなたは過去の遺産をすべて使い尽くした。

 だから、さよなら。――元の遥に戻ってくれることを心から願ってるわ」


 そうしたら、また、もう一度、お友達になりましょう。

 寂しそうに、去っていく。


 困惑しているのはこちらだというのに。

 まるで被害者面で背を向けるその態度が気に食わない。


「パパもママもどうしちゃったの!? どうしてそんなに口うるさくなっちゃったの? 前は何も言わなかったのに。なんでも買ってくれたし、なんにも干渉なんてしてこなかった」


 そう聞いていた。

 あれは嘘?


「なんでって、……だって、あなた、言う前に全部やってくれてたじゃない。宿題も、手伝いも、お掃除も、何も言わなくても。全部。やらなくていいことまで、一緒にやれば楽しいし速いからって。

 パパとだって、いつも楽しそうにお出掛けしてたでしょう? 買い物に付き合って欲しいなんて口実で、本当はただ一緒に出歩きたいだけだって。……ねえ、遥。どうしちゃったの? なにがあったの? あの頃のあなたにどうしたら戻ってくれるの?」


 ぐつぐつと、頭の中が煮えたぎる。


 なにそれ。

 なにそれなにそれなにそれ!


「どこまで馬鹿にすれば済むのよ。みんな、前の遥、遥って! 遥は私よ! 私以外の誰が遥だっていうの!? そうでしょ、涼太!」

「う~ん、そうだね。……俺としては、遥は変わらず可愛いと思うんだけど」


 どう? とまっすぐに好意を伝えてくる綺麗な瞳。透明度の高い、宝石みたいにきらきらと輝く。

 それはいつだって遥を天にも昇る気分にしてくれた。


「ふふ、嬉しい」


 そうよ、本当に欲しいものは一つ。

 それさえあればいいんだから。

 他なんてどうでもいい。


「涼太はみんなみたいに変わらないでね。……変わらないわよね?」


 私を好きでいて。

 皆みたいに、前の遥が好きだなんて言わないで。


「変わらないよ」


 ……でも、待って。涼太は自分が遥になる前に、彼女を好きになったのではなかった?

 変わらないなら、それは前の遥が好きという事ではないの?


「……ねえ、涼太が好きなのは、本当に私よね?」

「そうだよ? 突然なにを言い出すのかと思えば」

「ええ、そうね。変なことを聞いたわ。ごめんなさい」


 遥は私。

 以前の遥も、今の遥も。遥は遥。

 涼太が好きなのは、だから私。


 いいのだ。

 それで、いいのだ。


「涼太、私のこと好きよね? まだ、好きでいてくれてるわよね」

「僕は変わらないよ。なにがそんなに不安なの?」


 みんな私を嫌いだから。

 友達も、パパもママも。

 変わってしまった私を嫌いと言うから。


「涼太は、変わらないで」


 毎日、祈りのようにそう口にし続けた。


「変わらないで。変わらないで」


 涼太の顔が、少しずつ曇っていくことに気づいていたけれど、引き留める言葉をそれ以外に持たない。


 最後通告の日は、奇しくもあの日から一年を経ようとしている頃だった。


「僕は変わらない」


 いつもの言葉を、いつも通り聞いて、ほっと息を吐く。

 そして続く言葉に、息を飲んだ。


「……変わったのは、君だよ」


 はっと顔を上げて必死にのぞき込んだ遥の大好きな明るい瞳は、固い色を宿して前を向いたまま、――遥を見ない。


「……あなたまで、そういうのね。やっぱり、そう言うのね」


 知っていたかのように、遥は答えた。

 時が来たとのだと、強張っていた肩の力が抜ける。

 ようやく真実を口にしてくれたと安堵すらした。


 涼太は、そんな遥にやっと視線を動かし。

 そして眉を下げた。


「きっと、君はわかってない。僕の言葉を、信じてない」

「わかってるわ! 誰もが私を変わったというもの。元の方がいい、ともね」


 皮肉気に笑った。

 結局、こうなった。

 私はなに一つ手に入れられないままだった。

 そういう運命の元に生まれたのだろう。


「僕の気持ちは、言葉は、……君には届かなかった。――遥、元に戻ろう。それしか方法はない。僕たちはどこかで、なにかを間違えたんだ」


 涼太の声が遠くに聞こえた。

 聞きたくない。

 もう、なにも聞きたくない。


 まぶたが熱い。燃えるような熱水が一つ二つと頬を伝って、零れ落ちる。

 愛する人が、なにかを必死に喋っていた。


 一言一句聞き逃さないようにと浮かれていたあの頃。今はなにも聞きたくないから、現実を遮るように感情をそのまま声にする。


「いやよ! 絶対にいや!」


 別れるのはいやだと叫んでやった。

 絶対に別れてなんてやるものかと。


 きっと困った顔をしているだろう。


 期待通りの顔を見てやろうと、ぼやける視界を必死で払う。

 けれど、困った顔なんてそこにはなかった。


 ――ただ、哀し気な顔がある。


 涙が滝のようにあふれ出した。留まるところを知らず、枯れることを知らず。


 もう駄目だと、心が言った。


 この人を引き留めることは、もう私ではできない。

 それを唐突に理解する。


 痛い、苦しい、辛い。切ない、悲しい、寂しい。

 身体は重く、心は暗く、血は冷たい。

 幸福が去っていく。祝福は逃げていく。愛は、消えた。


 手には、なにも残っていない。

 ……きっと、また、誰かが奪っていったんだろう。


 どろりと心にタールのような液体が広がった。

 たぶん、自分の流した血涙。


 道の向こうで、明るい声が響く。

 うるさい。


 馬鹿みたいに、影の一つもない、空に抜けるような、笑い声。


 耳障りだった。

 こっちはこんなに苦しいのに。

 こんなに大変なのに。


 世の中のどこかでは、いまが楽しいと笑う者がいる。


 ああ、最悪。

 幸せな人間なんてみんないなくなればいいのに。


 ふと目に入った集団はどこかキラキラと輝いて見えた。

 人生が楽しいとばかりに青春を謳歌している学生たち。

 同じ年頃の。

 だというのに、まるで明と暗。


 見覚えがある顔があった。

 新島優華。

 かつて通っていた学校の、クラスメイト。

 派手な顔の女で、ファッションリーダーを気取った人気者。

 スタイルのいい美人は性格もきつかった。

 冬子が教室の片隅で大人しくしていても、「きも」と通りがけにわざわざ呟いていく陰湿な女だ。

 彼女が屈託なく笑っている。


 周りの連中にも見覚えがあった。

 大人しい美術部の女子。根暗女。自分と同じく暴言の対象ではなかったか。

 なぜ一緒に笑っているのだろう。


 サッカー部のエースが、勉強一辺倒の委員長と肩を組んで歩いていた。

 奔放な彼。生真面目な委員長。犬猿の仲だったと記憶が囁く。

 二人とも、笑ってる。


 どうして。

 自分のいないところで、誰かが。

 不幸だったはずの誰かが、楽しそうに救われているのだろう。


 私にはなかったのに。

 救いなんて一つも。

 だれも、救ってなんてくれなかった。


 ふと、背の高い男が目に入る。

 見るからに体育会系の強そうな男。

 強面だけど、彼の隣はきっと安心感がある。

 なにより目を引いのは、キツい顔立ちがくしゃりと笑みの形に崩れる瞬間。


 見た目と違って、きっと優しい男なんだろう。

 涼太みたいに。きっと。


 その笑みを向けられる相手、は。


「はっ」


 笑いとも、怒気とも取れない声が漏れた。


 目にした瞬間に視界が真っ赤に染まる。


 気付いたら走り出していた。

 憎しみの全て。恨みの全て。なにもかも。

 ぶつけなければ気が済まない。


「あんた!!」



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