第14話 底辺女子の不満



 鈴代冬子は、恵まれない人生を送ってきた。


 父は記憶の中にはいなかったし、住んでいる家はいまにも崩れそうな幽霊屋敷然としたボロアパート。

 狭い家に家族三人。

 暗い食卓に貧相な食事。家族で囲んでいたテーブルから一抜けしたのは冬子本人だった。


 やがて母はいつの頃からか姿も見なくなった。

 きっと、子供なんてどうでもいいんだろう。

 なんならいない方がいいと思っているにちがいない。


 弟はぴいぴい泣いてばかりで、姉なのだからちゃんと面倒を見ろと無言で責め立てる近所の目がとても不快で。

 うるさいと怒鳴り続けていたら、そのうち喋りもしなくなった。

 やればできるじゃないと頭を撫でたら振り払われた。

 ホント、可愛くない子。


 学校に通うようになるとクラスメイトたちから浮くようになった。

 見た目が暗いとか、知らないわよ。

 私だってお姫様みたいになりたかった。でもそんな家庭環境じゃない。

 あんたたちは恵まれてるからそんなに傲慢なんだとひたすら罵って過ごした。


 中学、高校と上がるとブスとか、デブとか、不潔とか、からかわれていたのは最初だけで、そのうち価値のないものとして彼らの視界にすら映らなくなった。


 学校に行くのが億劫だ。

 そうして一日中、家でゴロゴロと過ごし、好きなものを食べて好きに過ごした。


 毎日置いてあるお金の額は昔から変わらない。

 子どもたちが成長してることを、あの母親は気が付いていないのではないかと疑った。


 必要な食事量は増える。欲しいものも増える。やりたいことも、できることも増えているというのに、これでは何一つままならない。

 足りないと文句を言ったけど、増えることはなかった。


 どうせ子供なんて勝手に育つと思っているんだろう。

 たまに見かける弟は、まるで汚物のように自分を見る。

 勝手な母親に、生意気な弟。


 家族に恵まれなかったのが、きっと一番の不幸だ。


 外に出れば、こちらを指さし笑うものがいる。

 こそこそと囁き合って、悪意に歪んだ口元を見せる。


 面倒だ。

 ああ、面倒だ。

 よけいに外に出なくなった。


 世界はなんでこんな不公平であふれているのだろう。


 私だって、私だって、素敵な両親がいたら。

 お金持ちの家に生まれていたら。

 容姿に恵まれていたなら。

 幸せになれた。笑って過ごせた。人生はきっと楽しかった。


「きみ、具合でも悪いの?」


 そう声をかけられたのは、どうしても学校に行かなければならなかった憂鬱な日。

 下ばかり見ていたから気付かなかった。

 揺れる電車の中ではっと顔を上げると、心配そうにのぞき込んでくる涼やかな目。


「この席、どうぞ」


 にっこりと笑いかけてくれた彼に、多分冬子は一目ぼれをしたのだ。


 この路線にはたくさんの学校がある。

 そのどこかの生徒だろう。


 まともに返事もかえせなかった冬子にも、彼は優しかった。


 去っていく背中を呆然と見送って、彼と友人たちとの会話を耳にする。


「おおい、涼太。お前優しすぎねえ? どうせ席譲るならかわいい子にしろよー。で、お話するきっかけにして、ゆくゆくはお付き合いとかさ。はあ、夢だわ~」

「何言ってんだ。あんなに具合が悪そうだったんだぞ? かわいそうじゃないか」


 なんて素敵な人だろう。

 デブで、不細工で、暗い女でも、平等に優しくできる人。

 こんな人が世の中にいるなんて。


 学校に行くのは嫌いだけれど、彼の姿を探して無理やり登校もした。

 彼のことならどんな小さなことも知りたくて。

 少しだけ彼らの傍に寄って、聞き耳を立てるくらい可愛いものだ。


 名前は東海林涼太。兄と弟がいるらしい。

 背がなかなか伸びないのが悩みで、毎朝牛乳を1L飲んでいる。

 優し気な風貌通りとても優しい性格で、女子の人気はそこそこ。

 でも本人はもっと男らしい見た目に憧れてるらしい。


 全然いいのに。そのままでも素敵なのに。

 でも努力する姿も素敵。

 たまにお腹が痛そうにしてるのは、牛乳の飲み過ぎかもしれない。やり過ぎはよくないけれど、そんなところもかわいい。


 小学校の頃は転勤族。そのせいかコミュニケーション能力はとても高い。

 友達も多くて、運動神経もいい。

 成績は普通。数学と英語が足を引っ張っているとか。


 好きだと言っていた音楽は全部聞いた。

 大好きになった。

 趣味が合うのかもしれない。

 学年も同じ。運命を感じた。


 でも、すぐに気付く。

 見ていたらわかる。


 彼の友人たちがからかう様に、一人の女の子を指さした。

 彼は、慌てて友人たちを諫める。


 ――ああ、彼は恋をしているのだ。

 頬を染める様は自分みたいに醜くはない。天使みたいに輝いて見えた。

 同じ電車に乗り合わせる少女に送る視線はおずおずと、でも熱に浮かされたように煌めいて。


 自分とはどこもかしこも違う。

 細くてきれいで、名門私立の制服を着た、冬子がなりたかったお姫様みたいな女の子。

 砂糖菓子で出来てるみたいな、淡い色の、特別な少女。


 ずるいと思った。

 なにもしてないくせに、人に好きになってもらえる。

 ずるい。


 彼女はいつも人に囲まれていて、冬子は彼らの会話に耳をそばだてるようになった。


「今週末の花火大会、どうする? 遥は行けるの?」

「うん、もちろん!」

「あー羨ましい。うちは親がうるさくてさ。途中退場しなきゃならないかも。遥んとこは口出しされないの?」

「……そういえば、言われたことないなあ」

「普段の行いの差でしょ。遥は品行方正だから。自業自得ってことよ、諦めなさい」

「はーい」


 優しい親がいて。


「そういや、遥のその鞄新しいよね」

「あ、気付いた? お父さんが誕生日にって買ってくれたんだ、へっへー」

「さっすが趣味いいね! うちの父なんて腹巻くれたからね、腹巻。なにそのチョイス!」

「あはは、優しいお父さんじゃん!」


 お金持ちで。


「おお、居た居た。深山、今日の放課後空いてたら英語教えてくれないか?」

「いいよ。テスト前だもんね。せっかくだからみんなで勉強しようか」

「え、俺は別にお前と二人でも、」

「お? おお? なに抜け駆けしようとしてんの? もちろん俺らも参加させてもらうぜ?」


 頭もよくて、異性からたくさんの好意を寄せられて。


「遥、こんど陸上大会でるんでしょ? 応援行ってもいい?」

「いいけど。成績には期待しないでよー?」

「もちろんその後の遥を慰める会まで想定済みだから安心して!」

「それはひどい!」


 優しい友人たちに囲まれて、笑い声が絶えなくて。


「み、深山遥さん! ぼ、僕と付き合ってください!!」


 真っ赤な顔の、自分の好きな人からの告白にも、慣れてるみたいな態度で困惑顔を返す。


「ええと、……ごめんなさい」

「そ、そうですよね! すみません。むしろ、ちゃんと聞いてくれてありがとうございました!」


 ……ズルい。

 ズルい! ズルい!!


 私なら、私ならすぐにその手を取るのに。

 あなただけの手を取って絶対に離さないのに。

 一人だけなのに!


 ――ああ、イライラする。


 不公平だ。

 こんなことがあっていいわけがない。

 あの女がなにをした?

 なにもしてない。

 何の苦労もなく、最初から持っていただけ。

 それだけですべてを手に入れている人間がいる。


 比べて自分はどうだ。

 なにもない。

 最初になにも持っていなかったばかりに。

 ずっと奪われてばかり。

 持つ者がいつも、奪っていく。

 手に入れられるはずのものも、きっとあったはずなのに。


 知らん顔で、何食わぬ顔で、当たり前に。

 悪びれもせず。

 謝りもせず。

 許可もなく。

 横から突然現れて、一瞬で奪い去っていく。


 きっとその目には愉悦が浮かんでいることだろう。

 恵まれない者を見る、その顔の醜さにどうして誰も気付かない。

 こんなにも虐げられているのに。

 こんなにも私はかわいそうなのに。


 憎い。

 ズルい。羨ましい。欲しい。妬ましい。

 ああなりたい。変わってほしい。


 私だってなりたかった。

 幸せに。

 恵まれた者に。

 見下す者に。

 蔑む側に。

 奪う側に。

 光の中に、居たかった。


 そうして冬子の耳に、悪魔が囁いたのだ。

 いや、冬子にとっては神のお告げだった。


『ゲームをしよう。絶対に勝てるゲームだ』


 ――君の、望みをかなえるゲームだよ。


 誰だか知らない。姿形がなくとも、願いさえ叶えてくれればそれでいい。

 それ以外のことなどどうでもよかった。

 冬子は一も二もなく飛びついた。


 どうやったってこの底辺生活からは抜け出せない。

 なら一発逆転を狙う事の何が悪いのだろう。

 恵まれない自分がやっと手に入れた、幸福をつかみ取るためのチャンス。


 それは勝利を約束されたゲームだった。

 あまりにも冬子に有利なルール。

 不幸値をため続けたせいだろうか。ならば今まで耐えてきた甲斐もあったというもの。


 たった一つの敗北条件は意図しないと負けられないくらいの、とても難しいものだったのだ。


「あはは! するわけないじゃない。自分から入れ替わりをバラすなんて」


 そうでもしないと負けられない。

 それをしてすら負けられるかあやしい所だ。


『入れ替わり』という荒唐無稽な話を信じる第三者。

 敗北条件は実にシンプルだった。


「絶対に無理よ。例えペラペラしゃべったとしても、信じるわけがない。これはマンガじゃない、現実なんだから」


 意気消沈しながら帰っていく『冬子』の大きな背を自分の・・・部屋から見送る。

 まさか家まで押しかけてくるとは思わなかったけど、やっぱり母親はあんな馬鹿げた話を信じたりはしなかった。


「私がなにもしなければ、勝ち同然よね」


 負ければあの底辺生活鈴代冬子に逆戻り。


「ここは私の居場所。渡さないわ」


 力を込める必要がない手と歯が、なぜかぎりりと強く鳴った。


 あのクソみたいな環境で、あのクソみたいな生活で、あのクソみたいな身体で。

 自分と同じように腐ればいい。


「ざまあみろ。少しは私の苦労を知ればいいのよ」



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