第7話 元勝ち組女子の奮闘
学校に初めて登校する日はさすがにかなりの緊張を強いられた。
朝、洗面台で自分の顔を見てちょっとだけ苦笑する。
他者を貶めることを良しとしない自分でも、万人に好かれる容姿ではないことは確かだと思うから。
「清潔感、清潔感」
呪文のようにそれを唱える。
外見は如何ともしがたくても、それさえあればまあなんとかなるものだ。
呪いのビデオよろしく、長く伸ばしっぱなしだった枝毛だらけの黒髪は肩口でばっさりと切り落とした。
眉毛も整え、ムダ毛の処理もした。
制服は生乾きの匂いはしなくなったし、一応の体裁は整っていると思いたい。
学校への道のりは下調べ通り。
途中からは同じ制服があふれていたのでわかりやすかった。
下駄箱も難なくクリア。
クラスさえわかっていれば、下駄箱の上に表示が出ていたのでその周辺を探せばいいだけだ。
自分の席に関しては難関かと思っていたが、妙案を思いついた。
冬子は堂々と職員室に向かって、担任に同行を願い出たのだ。
「学校に来るのが久しぶりなので、心細くて……」
適当に言ったらなんとかなった。
もちろん教室に入ったときはクラスメイト達がざわついたけど、想定内。
ここには勉強にきた。
友達ができたら嬉しいけど、まずは勉強。だから、問題なし!
ひたすら心を強く持つ。
休み時間には何人かがオラつきながら机周りを囲みに来たが、もちろん無視!
友好には友好を。悪意には無視を!
「よく顔を出せたねぇ」
「相変わらずぶっさいくぅ」
「椅子が歪んでんじゃん。重量オーバーだってよ、さっさとどいた方がいいんじゃね?」
――聞こえない、聞こえない、聞こえないったら聞こえない!
ひたすら姿勢を正して、堂々と。
一瞥すらせず、まっすぐ無視の信念を貫く。
まったく相手にしない冬子に焦れたのか、男子の一人が手を伸ばした。
「こっち向けよ、おらぁ!」
掴まれた髪がぎしりと痛んだ。
彼が自ら触れる程度には清潔感は出ているらしいと、少し滲んだ涙を意地で引っ込める。
「ちょ、ちょっと、さすがに手を出すのはマズいって」
そんな止める声も聞こえたが。
痛みをこらえ、無表情でグイと顔を動かして冬子は髪を掴んだ男を見上げた。
無言で、じっと見つめてやる。
ひたりと。
これが自分の戦い方だ。
ちなみに参考は無言無表情の弟。あんな威圧感が出てると大変うれしい。
「ち!」
彼は投げ捨てる様に髪を放して去って行った。
勝った! やった!
無表情のまま、心の中で大歓声をあげる。
今日は祝杯だ。ちょっと豪華にジュースでも買って帰ろう。
それからは誰も話しかけてはこなくなった。
そもそも物を隠されたり、教科書を捨てられたりといった古典的嫌がらせはあまりなかったようだ。下駄箱にしまわれたままだった上履きも泥だらけなんてことはなく、学校へ行こうと思った時、勉強道具や体育着などは手元にちゃんと一式揃っていた。
いじめの対象というよりは、たまに小突く程度の相手。
――で、今は居ない者として扱われるようになったのだろう。
まあ、少し寂しいけれど害があるよりはずっといい。
勉強の方はこちらの学校の方が少し進みが遅かったおかげでスムースについていけた。
ラッキーだ。
変わったことといえば、深山遥だった頃に比べてだいぶ理解が遅くなったと感じることだろうか。一度で済んでいたことを繰り返さなければ頭に入って来なかったり、何度も文章を読み直してやっと意味が通ったり。
「体のスペックに影響されているのかも?」
もちろん確認できないのだから推測の域を出ない。
だが、正解な気がしている。
冬子はその考察を特に不満には思わなかった。
深山遥より時間がかかるだけで、わからないわけではない。
なら、繰り返せばいいだけだ。
むしろかつて友人たちに勉強を教えた際に、彼らが戸惑っていた理由がいまさらわかった。
「……なるほど、こんな感じだったのね」
共感と反省。
こんな環境でも、こんな環境だからこそ、わかることもたくさんある。
「身につけてこう」
知っていこう。遥ではわからなかったことをたくさん、知っていきたいのだ。
冬子は皮肉ではなく、素直にそう思った。
迎えた中間テストの成績は、遥としては最低順位。
冬子としては最高順位。
思いのほか上がらなかった成績を残念に思っていたのは冬子だけで、クラス内がざわついたくらいには意外な成績だったらしい。
底辺なら底辺らしく隅で小さくなっていればいいものを、と目障りに感じていた者もこれでうるさい口を閉じた。
本人に一目置かれつつあるという認識はなく、なぜかますます遠巻きにされたなと、理由もわからないからちょっと落ち込んだ。
§ § §
家の方も順調だ。
埃と汚れ的な話。
地道な掃除が功を奏して、やっと湯船に安心して浸かれるようになったし、台所の救出も終わった。廊下の端も歩けるようになった。
部活もやっていないから暇な放課後に学校の図書室で料理本を読み漁って、ついに自炊に挑戦し始めた。
正直、失敗もあれば成功もある。
もちろん無駄に出来ない食材故すべて腹の中に収めているが、苦痛を伴わず食べられる献立、すなわち成功といえるものは確実に増えていた。
冷蔵庫の中には最低限、モノが入るようになった。
たまごと、キャベツともやしくらいのものだが、冬子は冷蔵庫に常備されている食材があることに殊更満足感を覚えている。
元々は自分たちが各自飲む用の500ml(冬子)か1L(秋人)のペットボトルか缶ビール(母)が時々ぽつんと入っているくらいしか活用されていなかったのだから驚きだ。
無用の長物というのだ、そういうものは。電気代の無駄ではないか。
最近は常時麦茶を作って用意している。安くて大量に作れるのはありがたい。
このお値段でこの量が!? と通販番組のように大いに歓喜した日が懐かしい。今では飲料の王様と崇めている。
毎回ペットボトルを買っていたら、かなりの出費になるのだ。
ついでと言ってはなんだが、発掘した水筒に毎日麦茶を注いで弟の名前を張り付けて置いておくのだが、秋人はいまだに持っていってくれたことはない。
「家族の溝は深いなあ」
呟きはすれど、冬子はぜんぜんめげていなかった。
最近は低予算故にあまりレパートリーが増えないのが悩みだ。買える食材に限りがあり過ぎるのだ。
自分一人分の自炊というのも案外効率が悪い。
そこで考えたことがある。
「そう、勝手に横領作戦!」
聞こえは悪いが、手段も悪いが、……まあ聞く耳持ってくれない弟が悪いのである。
いや、そもそもは彼のお小遣いを勝手に使い込んでいた姉たる冬子が悪いのだが、そこは一つ置いておいて、なんにせよ変化というのは無理やり始めなければ起こらないことだってある。
作戦としては単純で、
自分一人分だった朝ご飯を、二人分作る。
そして勝手に五百円徴収する。
「んん、どうにも言い方が悪いな?」
冬子は仕切り直す。
作戦名に『横領』と付く時点でだいぶ聞こえが悪いので、言い直しにあまり意味がないことには気づいていない。
「千五百円は残して、置いておく」
これで意図は伝わると思うのだ。
一食のご飯。半分に減った千円。
「ちょっと、怖いけど」
あの体格のいい弟に激昂されるのはとても怖い。
怒ったらやめよう。
だから怒るなら普通に怒ってくれることを心底願う。
「殴られたらホントに死んじゃう」
そんな子ではない、と思いたい。
体格のいい自分より、デブな姉に二千円を残してくれていた彼だ。性根の方は信じてもいい、……はずだ。
せめて、目一杯おいしい精一杯の料理を作ろう。
ちょっとドキドキしながら決行した日。
息を殺して弟の動向を自分の部屋から探っていた冬子のもとに、彼が殴り込みに来ることはなかった。
玄関を閉める音を合図にそっと台所に行ってみれば、キレイに空っぽになった気合の入れた朝食たち。
――が、二皿。
思わず額に手を添えた。
「……
いやがらせなのか、足りないという意思表示なのか、とても悩むところだ。
でも、まあ、いいやと冬子はくすくすと笑った。
拒否されなかったのだから、なんにせよ一歩前進と言っていい成果だ。
「明日はもっと量を増やしてみましょ」
少しずつ量を増やし続けた朝食は、やっと一週間で冬子の分も残るようになった。
「あの子、胃袋四つあるんじゃないでしょうね」
彼の満足する量ときたら、冬子の三倍はある。
呆れてそんな呟きにもなるというもの。
そうこうしているうちに、ついでとばかりに長らく置き去りにされていた水筒も持って行ってくれるようになった。
なんなら、ある日、突然別の水筒がおいてあったくらいだ。
これもまた掃除した折、出てきていたもので。家族のピクニックで持っていくような巨大な水筒だったので、いつか家族三人で出かけることがあればいいなと思いながら、願いを込めて捨てずにしまっておいたものだ。
「足りない、と。はいはい、了解」
苦笑には喜びが混じった。
主張をしてくれることは、嬉しいことだ。
こんな小さなコミュニケーションも、少しは前進している証拠のようで。
そんな毎日の中で、ある日『うっかり』が発動した。
自然光で目が覚めるタイプの
遥には起こしてくれる母がいたが、残念ながら冬子にはいないことが敗因だった。
アラームもかけてあるのだが、こちらは登校時間を知らせる用にセットしてあった。スヌーズ機能を使って、家を出るまでのカウントの目安にしている。
その音で目が覚めた冬子は、瞬時に覚醒して思いっきり叫んだ。
「しまった、朝ごはん!!」
がばっと飛び起きて、慌てて弟の部屋に直行したがやはり姿はない。
もう出て行ってしまった後らしいとがっくりと肩を落とす。
「やっちゃったなあ」
反省しきりだ。
せっかくコツコツ積み上げてきた信頼が水の泡かもしれないと思うとさすがの冬子もちょっとは凹む。
ぺたぺたとスリッパの音をさせながら台所に向かって、冬子の日々の努力によりきれいに片づけられた静かなダイニングテーブルに一人着く。
ここから自分一人の朝食を作る気にはなれなかった。
「あれ?」
だがあるはずのないものが目に入って、冬子はそれをまじまじと見つめた。
テーブルの上に冬子の分の千円札が一枚と、――コインが一枚残っていた。
銀色のコインを拾って大事に手の中にしまい込む。
「五百円玉……。やだ、あの子ったら……ふふ」
思わず泣いてしまった。
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