第6話 元勝ち組女子の遭遇
食生活改善も急務だった。
台所のガスコンロはめっきり使った形跡はなく、シンクはゴミであふれている。
生ごみがないだけマシだと冬子は自分を慰めた。
そもそも食器が手の届く場所、目の届く場所にないのだ。ありえない。
たぶんペットボトルと缶ピールと、カップ麺とコンビニ弁当で作られたゴミ山の向こうの桃源郷にあるに違いない。
冷蔵庫に申し訳程度に張られたごみ収集日表を見つけて、とりあえず少しずつでいいからゴミを捨てようと決意した。発掘には根気と時間が必要だ。
食事に関してはゴミから推測できる。
各自が総菜やら弁当やら出来合いの商品を買って食べているか、外食で済ませているのだろう。
お湯を注ぐだけのインスタントカップ麺が箱買いして置いてあるもの見つけた。
結構な頻度で空のカップがゴミに捨ててあるので、母はほぼ毎日、弟もしょっちゅう手を付けているのではないだろうか。
道理で雑多なモノにあふれた台所で、電気ケトルだけが頻繁に使われている気配があったわけである。
「『冬子』だけじゃなかったかぁ。インスタント食品生活」
思わずがっくりと床に手をついた。
きっと母にとってはお手軽飯。弟にとっては小腹がすいたときの夜食。そしてかつての『冬子』にとっては多分、仕方なしに食べる常備飯。
『冬子』の部屋に積んであるインスタント麺はコラボ商品や期間限定品ばかりだが、こちらはなんなら割引シールが貼ってある一山いくらの商品だ。
「期限を考えて食べるとか。そういう考えは……」
思わず愕然と呟いたのは、その箱が一つだけではなく山積みで。上をどかせばすでにある程度中身を消費した形跡のある段ボール箱が現れ、かつ下の方が古いという事実に気づいたからだ。
買ってきたら上に積む。面倒だから上の段ボールから取る。そうやって形成された山なのだろう。
「まあ、ないんだろうなぁ」
少しだけわかってきた家族の生態。
和やかな食卓など望むべくもない状況だという事はよくわかった。
食費に関してもわりと早いうちに理解できた。
二日目辺りにテーブルの上に千円札が三枚置いてあるのを偶然見つけたのだ。
それから毎日のことだから予想はつく。
夜遅くに帰ってきて、死んだように布団に寝て、朝早くに幽霊のようにふらふらと家を出ていく母の置き土産。
弟と、自分の分なのだろう。
たまに倍額置いてある時は、きっと母が帰って来られない日。
「……忙しいんだなぁ」
ため息を吐きつつ、ひらひらと三枚の千円札を手の中で弄ぶ。
一人1500円。あるいは食べ盛りの男の子だから、弟用に二千円かもしれない。
そんな現状把握中の五日目。
そろそろまともに洗濯ができるようになったので、週明けから学校へ行ってみようかと考えていた朝だった。
どたどたと大きな足音が聞こえて「おや?」と思う。
母と同じく異様に朝が早い弟が、まだ家にいるなんて珍しい。
寝坊かな、と思ったがそういえば今日は土曜日。
部活動に精を出している様子があるので、朝早いのも、夜遅いのもそのせいだと推測している。
いつも通り足音が荒いのは、朝練はなくとも結局今日も部活動なのかもしれない。
そういえば気配だけで、いまだに一度もその姿を見てないな。
……と、ここに至ってからはっとした。(死んだように寝ている母は度々見かけた)
できれば仲良くしたいけど、と廊下を通るだろう弟をそっと盗み見る心持ちで息をひそめる。
予想に反して弟は玄関に直進せず、ぬっとダイニング兼台所に顔を出した。
素通りするだろうと思っていたせいで初対面の心構えができていなかった冬子は姿を現した彼を見て、「おと、うと?」と脳内で疑問符をべったりと張り付ける。
端的に表現するならば、
でかい、ごつい、こわい。
確か二つ下なのでまだ中学生のはず。なのに鴨居をくぐる時に頭をかがめて入ってくるほど背が高い。
もう出来上がっているのでは? と思える広い肩幅には頼りなさの一つも見えなかった。
冬子のような余計な脂肪は一切ない。ジャージに身を包んだ運動に特化した者特有の、引き締まった筋肉質の体はこんな時でもなければ惚れ惚れと眺めたいくらいだ。
随分と体格にめぐまれていらっしゃるらしい。
弟じゃなくて、兄だった? と事前情報が揺らいだほどだ。
しかも冬子と同じく少しキツい顔立ち。世間一般的に言って、強面と表現して差し支えない。
そしてだいぶ無表情。もしや『
推定弟は、他人など知るかとでも言い放ちそうな雰囲気をこれでもかと漂わせて近づく者を存分に牽制している。
テーブルの席についていた冬子は予想外の出現とその姿に思わずのけ反った。
と、ただでさえ迫力のある彼の顔が冬子の姿を見咎めて鬼のように険しくなる。
「ひえ」
と小さく上げた悲鳴はたぶん聞こえていないだろう。
そんな栄えある弟の第一声は、
「おい、また人の金まで使いこむ気かよ、クソ女」
である。
めでたく弟との仲が最悪だという事が発覚した瞬間だった。
「珍しく部屋から出てきてると思えば、やっぱろくでもない女だな。せめて俺の前に姿を見せるなよ。見てるとぶん殴りたくなる」
「え、それは普通に死ぬからやめて」
思わず真顔で返してしまった。
返事をしたことが意外だったのか、少しだけ目を見開いた弟は舌打ちをしてずかずかと冬子に近寄ってきた。
そのまま乱暴に千円をふんだくられた。
別に取る気はなかったのだが、手に持っていたのが悪かったのだろう。
だが冬子はむしろこの迫力であと二千円が自分の手に残っていることに驚いた。
その心情を正しく理解したらしい弟は鼻で笑う。
「俺はお前みたいな盗人じゃねえから」
そういって嵐のように去って行った。
どうやら冬子は彼の分の食費まで使い込むのが常だったらしい。
「ダメでしょう! さすがにそれは、姉として!」
記憶はないが! まったく記憶にないが!
と強く心の中で付け加える。
というか、千円で足りるのか弟よ。その体格で。絶対に無理だろう。
せめてあと千円持っていきなさいと言いたいが。
「言ってもダメそう……」
口を開いただけで噛みつかれそうだ。
むしろ姉に横領されてたのによくぞそこまで立派に育ってくれたと、ちょっと感動までしてしまった。
強面とはいえ、顔立ち自体は悪くないから彼女の一人でも、好意を寄せてくれる誰かでも居るのかもしれない。その誰かが弁当なりを作っていてもおかしくはなかった。
あるいは懇意にしてくれる近所の人や行きつけの定食屋の人の尽力かも。
「……だといいな」
希望的観測だ。罪悪感で作り上げた妄想だ。
育ち盛りの少年(……少年?)が飢えている場面なんて想像したくもない。
彼の名は『
『冬子』は何一つ情報を残していなかったから、ポストに入っている郵便物でそれを知った。
冬子と並べると実に兄弟らしい名前にちょっと和んでしまった。
いつか仲良くなれる日は来るのだろうか。
「とりあえずは自分のことね」
頭上の願望をぱぱっと手で払って、冬子は気合を入れて腕をまくる。
何はともあれ、まずは自炊だ。
買ってきたものばかりでは栄養が偏るし、なにより味が濃すぎて自分好みではない。
いつか味蕾を破壊されそうだ。舌が馬鹿にならないうちになんとかしたい。
冬子の持つ「遥としての記憶」では頻繁にお菓子は作っていたが、普通の料理となるとハードルが高い。
だがやるしかない。
「ま、買いそろえるには資金が足りないけど」
これから千円はちゃんと育ち盛りの秋人に押し付けることにして。
自分用の千円。これが自由に使えるお金だ。
とりあえずは少しずつこの毎日の千円を切り詰めて、まとめた食材を買えるようにしよう。
調味料なんて塩とタバスコしか置いてなかった。なぜ胡椒という定番がなくてタバスコがあるのか。心底疑問だ。
料理道具は最低限そろっているが、シンクとコンロを使えるようにするにはまだ時間がかかる。
あの封印されしゴミ溜めの向こう側から、果たして菜箸辺りは発掘されるだろうか。
前途は多難だった。
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