第5話 元勝ち組女子の現状



 呆然自失とはこのことだ。


「な、なん、」


 昨日もそうだったけれど、今日もそう。 仲が良さそうな親子が大きな家の中に消えていく。それを遠くから眺めるしかない自分。


 言いたいことも、言うべき言葉も見つけられず、『冬子』は口を開けては閉じた。


 悔しいのか、悲しいのか、恨めしいのか、憎いのか、辛いのか、苦しいのか。その全てなのか。揺れる視界は滲む視界に取って代わった。


 『深山遥』だという意識しかない自分からすれば、まるで人生を乗っ取られたような気持ちにしかならない。


 このまま泣いて喚いて、彼女を引っぱたいて、『自分』を返せと叫びたい。


「……できるわけ、ない」


 最後に残った理性がそう結論を出した。


 頭がおかしいと警察を呼ばれるのが関の山。

 だって、あそこにいるのは『深山遥』の記憶と体を持っている『深山遥』自身なのだから。


 記憶の混合にしろ、体の入れ替わりにしろ、彼女の協力がなければ話は進まない。

 でも、彼女にその気がないことだけはわかった。


 とぼとぼと見知らぬ家に帰るしか、現状選択肢はないのだ。

 途方に暮れて思うのは、「これからどうしよう」。

 それだけ。


 いつか『深山遥』に戻れるのだろうか。

 あるいは『鈴代冬子』の記憶は戻るのだろうか。

 不安ばかりが這い上がる。


 こうなると何らかの解決を見るまでは、とりあえず『鈴代冬子』として生活していかなければならない。


「わたしに、できる?」


『冬子』としての生活は、『遥』とはまるで違うものだろう。


 冬子には昨日は顔を合せなかったが、母と弟がいるはずだ。

 記憶を失って別人のようになった娘を、姉を、彼らはどう思うだろう。

 早々にバレて、自分と同じような結論に至った彼らから家族の身体を乗っ取った悪魔と罵られやしないだろうか。


 ちゃんと深山遥として記憶があるらしい彼女にはない問題がこちらには山積している。


 学校は?

 友達は?

 親戚は? 近所の人は?

 そんな多人数を誤魔化して生活なんてできるわけがない。


 理由を考えなければ。

 記憶がない理由。

 やはり記憶障害が妥当だろうか。

 ならその原因は?

 事故? 事件?

 ひき逃げ? 階段から落ちた? 不審者に殴られた?

 却下だ。どれも警察が出動する事態になる。捜査されれば嘘なんて簡単にバレるにきまっているし、大事おおごとにされても困る。


 だからと言って『深山遥』の名前を出すのはマズい。

 向こうに話を聞きにいかれても、こちらに不利な話にしかならない。

 実際にそうなのだ。

 接点のない二人の唯一の邂逅と言ったら今日、突然『冬子』が家を訪ねてきて訳の分からないことを喚き散らしただけということになる。

 いくら体が入れ替わったと訴えたところで、彼女が『深山遥』を自称する限り、『冬子』の主張はただの頭のおかしい女でしかない。


 ――と、散々頭を悩ませたが、すべては杞憂に終わった。


 なぜなら、『冬子』には友達がいなかった。

 学校もほとんど行ってない。近所と交流もない。

 家族とすら、顔も合わせない引きこもり。


 三拍子揃って誰からも疑われなかった。

 そもそも疑うような人間がいない、という遥には考えもつかない理由だ。


 びくびくして過ごしたボロアパート生活二日目も誰にも会わず。

 三日目になってやっと現状を受け入れた。


 思わず遠い目をした『冬子』を誰が責められよう。

 ほぼ初期状態の携帯は、どうやらゲーム以外の用途で使われてこなかったためだったらしい。もしやわざわざ初期化したのか? と疑った自分を猛省した。

 友人と連絡をとる必要もない、SNSで周囲の情報を収集する必要もない、電話帳には家族の番号すらなかった。


 いつだって人に囲まれていた遥からは想像もつかない生活。


 三日も経てば、精神もいい加減落ち着いてくる。

 泣いても喚いても暴れても、どうにもならないのだから仕方がない。


 だから、

 「よし、前向きに考えよう!」

 そう決めて『冬子』はぐっと拳を握った。


 住む場所があるという以外の基盤がまっさら。

 とにもかくにも、当面の間は『冬子』として生きていかねばならないのなら、そもそも生活の土台がゼロであることをポジティブに捕えようというのである。


 自分の知らない骨組みの上に積み立てるより、一から自分で組み立てた方がやりやすい。

 そう考えることにした。


「死にたくはない。うん、生きたい」


 まずは自分と相談だ。

 目標を定めるにあたって、自分がなにをしたいのか。なにがいやなのか。どうなりたいのか。

 考えてみれば簡単に答えは見つかる。

 知らない身体になったからといって、その生活が荒れ果てているからと言って、絶望して死を望むなんて、そんな思考には欠片ともならなかった。


「それで、生きるなら、やっぱり楽しく!」


 明るく、笑っていたい。

深山遥記憶』がそうしていたように。


「学校は、行きたい」


 勉強は嫌いではない。

 いつか社会人になって就職もしたいし、恋人だって欲しい。

 結婚もしたいし、子供も欲しい。


 その時、自分が『深山遥』なのか、『鈴代冬子』なのかはわからないが、普通に段階を経てちゃんと大人になっていきたいのだ。

 そのための準備である知識と社会性を身につける学校は、自分のためにやはり通っておきたかった。


 そんなわけで『遥』改め、『冬子』はまずは学校に行こうと決意した。


「なら、まずは身辺調査かな」


 そもそも『冬子』が通っている学校がどこにあるのかすら知らない。

 何組で、どこの席なのかも。

 同学年らしいが、勉強はどこまで進んでいるのだろうか。

 同じくらいだと少しは楽なのだけど。

 時間割は?

 引きこもりという事はイコール不登校なのだろうから、部活はきっと入っていないはず。


 そんなことを考えながら、登校準備を進めたが早々に壁にぶつかった。


 行く気がないのが見え見えな皺だらけの制服をどうにか着られるようにしなければならない。

 そう思って洗濯機を探し当て、のぞき込んで、冬子はあちゃあと顔を顰めた。


「……こりゃ、家の掃除からかな」


 洗ったら余計に汚くなりそうだ。


「学校に行く以前の話じゃんよ~」


 情けない声で天井を仰いだら、目に入った天井はやはり汚い。

 ……天候次第では雨漏りしたりするんだろうか。

 思わず真顔にもなる。


「と、いうか!」


 薄い壁に気を使って小さく憤りを声にした。


 そう、そもそもの話である。

 冬子はぐるりと家の中を見回す。


「台所、……名称返上案件! 風呂場、推定物置! 廊下、人の足跡が残る雪道か! 自室、湿気でカビそう」


 びしっと指さし確認しつつ読み上げればそんな有様だった。


 万年床は自分の部屋だけではないようで、居間に敷かれた布団は多分母のもの。悪いなと思いつつ思春期まっさかりであるはずの弟の部屋をそっと覗いたがそちらもまた同じ。


 母も弟も、引きこもりで自由時間しかない姉と違って朝は早く、夜も遅い生活らしい。

 冬子のように寝っ放しというよりは片付けの暇もない雰囲気だ。……弟の方はただのずぼらかもしれないが。


 誰も開けないカーテンと窓。

 部屋の中はよどんだ空気のみ・・が漂っている。

 それだけで病気になりそうだ。


「か、風通しは毎日しよう!」


 健康第一、体が資本で基本で、自分が持ちうる最大の財産。

 朝は必ず、全部のカーテンを開けて、空気の入れ替え。

 脳内の日課リストの一番上に書き込んだ。


 日課リストに二つ目が追加されたのは空気入れ替えを心に決めた翌日。

 早々にランニングという項目が付け加えられた。


 重量級の体に耐えかねてのダイエット、……ではない。

 もっと切実な理由だ。


「お通じがこない……」


 一日二日目あたりはまだ呑気に構えていたが、ここまでくると冬子は死を予感して青ざめた。

 世の中には一週間ためる人もいるとは聞いたことがあるが、あいにくと深山遥は一日たりともためたことがない。


 なんか体が重い。突然こんな太った体になったから? いや、違う。なんか、……お腹が重い。気持ち悪い。ってか、いつから出てないっけ?

 ……あれ?

 というわけだ。


「やばい。糞詰まりで死ぬ。それだけはいや!」


 死ぬはいやだが、その死因はもっと嫌だ。

 ネットで必死に調べてみれば、やはり基本は運動と食事。


「……デスヨネー」


 わかっていたことだ。魔法みたいに解決できることではない。

 地味で地道だが、死にたくないから朝晩家周りを走ることにした。


「ダイエットも出来て一石二鳥!」


 と冬子は気炎を上げる。

 でなければやっていられない。


 なぜ自分の記憶にない生活習慣のツケを自分が払っているのだろうという理不尽な思いがうっかり込み上げてくるもので。


 ……涙が出そうだ。


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