市井の人々
暇乞い日記
『暇乞い日記』
メリーナ・メイドン
長年勤めた王宮に暇乞いをし、一昨日に故郷シルビオネへ戻った。
数十日前に崩した体調は良くならない。
今は実家の二階にある自室で何をするでもなく、ただ机上の水晶石を見つめ、次に思い浮かぶ文字列を考えるばかりである。
幻聴はあまり聞こえなくなったが、それでも時折、呻き声が残滓のように頭の中でこだまする。
今や第一王女なのか、全く別の誰かなのかも区別がつかない。獣のような唸り声は、例えば湯浴みや就寝の際の精神が緩んだとき、遠くの野から静かに聞こえるのである。
私はおかしくなってしまったのだろうか。
言葉で話すわけでもない。名前を呼ぶわけでもない。ただ、低い獣の唸り声のような、それでいてなにかを訴えかけるような小さな叫びが、あたかも山の向こうからただ語りかけてくるようだ。
私は城の使用人の職を辞することになった。
私はメリーナ・メイドン。この日記に書くのは幻聴によって仕事を追われた使用人の、その後の記録だ。
◾️
今朝は市場で水晶石を買った。
世間の騒ぎに関係なく市場はいつもの人の賑わいであふれている。その市場の隅の、出口のところに一件の本屋がある。
いつもなら一瞥して通り過ぎるほどのひっそりとした小さな書店だが、ちょうどそのとき例の幻聴がひそやかに聞こえたので、逃れるように店の中へ入った。
店に入った以上はとにかく何か買わねばと、衝動に追われるように、たまたま目についた水晶石を手に取ったのである。
あまりに衝動的に買い物をしたせいか、ものを買うには財布を出さなければならないという、当たり前のことも失念していた。
近頃は財布の中身を確認するのも怖い。財布から硬貨を出すときには嫌に緊張し、背中にじっとりとした嫌な汗をかいてしまった。私よりも一回り若い女の店員に怪訝な目で見られたが、いつもの笑顔でごまかした。
さて、購入した水晶石だが、なにも心に留まるところなく選んだわけでもない。
水晶石の放つ輝き、透明さは見ていて飽きないものだ。産地はすぐにわからないが、大きさといい艶といい、中々のものといえる。
私の実家は魔術関連の道具を取り扱っているから、水晶石のような魔法小物は良く目にする。だからその良しあしを見る目にもそれなりの自信があった。
わざわざ水晶石を選んだのにはもう一つ理由がある。
一般には魔法の媒体としてよく用いられる水晶石だが、文字の記録媒体として使えることはあまり知られていない。言語化した思考を魔力に乗せて念じることで、水晶石内部の擬似的な魔術回路に情報そのものを記録することができる。
元々私たち短命種の魔術師が日々の研究などを記録するために発明したものだが、ある商会が大々的に売り出したことで、近頃は段々と一般層にも膾炙しつつあるようだ。
本屋で日記を売っていること事態は極めて良くあることだが、水晶石を日記として売っているのは珍しい。
流行っていると聞いてはいたが、実際にこの目で目にするとはまた違う新鮮さを感じられる。案外、ああいうなんでもない店が知らぬ間に流行の発進地になっていたりするのかもしれないと思った。
流行にそれなりに敏感な筈の城では、水晶石日記は噂程度にしか知られていなかった。
この国では日記を書くことが非常に盛んだ。
現国王が信仰する旅の神が日記を好むためと言われるが、起源は定かでない。長命種ならば知っているかも知れないが、彼らの経験は私たち短命種にとって失われた歴史に等しい。
友人たちも短命種、長命種に関わらず日記を書くことを好む。私自身も以前は日記を書いていた。城勤めが決まり、職に着いてからは、日々の忙しさのためにパッタリと途絶えてしまった。
城の使用人たちの中にも、忙しい中わざわざ時間を作って日記をつけている人たちがいた。それでも彼女らの中に水晶石で日記を書いている者を見たことは無かった。
城の中では、水晶石日記はそれほど珍しいものだった。
城勤めは大変だったが悪かったとも思わない。
休みは無かったが、体質が合っていたのか、それとも性分があっていたのか。今まで仕事のために健康を損なうことは無かった。
城勤めといえば聞こえはいいが、私のようにそこまで身分の高くない者の仕事は常に体力勝負だ。そんなものどこの仕事も同じだと思うが、明らかにひとり分以上の仕事を、働ける限り常に続けなければいけない。そのうち体を休めることさえ仕事になってしまった。
職場では王女様方の衣装の着付けや給仕をしていたが、衣装選びも調理も別の者の仕事である。私の場合は一生かかっても消費できないほどの衣装を城の隅の部屋から隅の部屋へ移動させたり、その衣装をまた運んで王女様方に着せたり、はたまた王女様方の好みを聞き出し、最近の流行を取り入れつつも王族の威厳的に当たり障りのない衣装を商人から買い付け足りするのが主な仕事だった。他に朝食のバナナを1房運ぶのも私の仕事だった。王女様はお二人とも朝食はバナナだった。多分、長命種は自分たちの耳と同じ形をした食べ物を好むのだろう。共食いというやつだ。長命種はこぞってバナナばかり食べてるに違いない。
そして、たまには朝の食卓にも彩りをと(料理長が)気を遣って、みそ汁とヴォヴォェなどの異世界ニホン料理を届けると、「私は異世界に興味があるけど食べ物の好みまで寄せる気はないから」と突き返されるのだ。そしてまたバナナを届けるのである。そういうことが月に2回起こる以外は良い職場だった。
一度バナナの代わりに、ルツィア第一王女にルツィアを届けたら本気でキレられたことがある。ルツィア様にルツィア様を届けただけなのになぜああまで起こられたのか理解に苦しむ。私はただルツィア様にルツィア様をルツィア様しただけなのに。誰の仕業だと聞かれたので料理長のせいにしたが、あれは私が早朝から海へ漁に出て釣ってきたアゴルツィアだ。やはりルツィア様ともなれば顎までルツィア様なのだろう。
リィア様にもリィア様を届けたことがあるが、特に何も反応がなく突き返されただけだった。
◾️
水晶石を買ったあとはすぐ家に帰った。今日は店番がないので、別段市場をぶらついても良かったのだが、一向に幻聴が良くならなかったので、まっすぐ家に帰ったのである。
このところ、また幻聴がぶり返しているような気がするが、それも私の妄想なのかもしれない。
幻聴どころか、この頃は幻覚まで見えるようになった。何かよくわからないものが視界の端で私を見ているのである。
頭の中の唸り声が誰なのか、私には検討がつかない。
第一王女がまだどこかで悲鳴を挙げられているのかもしれないとも思う。しかし私たち身分のあまり高くない使用人にまで優しく接してくれた彼女は既に死体で見つかっている。
彼女の霊魂が彷徨える幽魂となり私を呼んでいるということも、あり得るかもしれないとも思った。「王手に触れる」という古い言葉が表すように、死んだはずの魂や肉体が魔物となって人々を襲う例は枚挙にいとまがない。
しかし、城に住まう賢人に聞くと、それはあり得ないという。領内で霊魂は基本的に魔物にはならないのだそうだ。
「基本的に」という言い回しがやや引っかかったものの、あのラクノス先生が言うのだから真実なのだろう。太古の昔、死者蘇生の法が人々から永遠に失われた時に、死者の魂が魔物となる法も失われたのだ。
そのわりには冒険者がダンジョンから持ち帰る話の中に起き上がった屍者や骸骨の話が多いのはどうしてだろうか。理屈をどう捏ねたところで、頭の中で起きている事実は変わらない。
誰かが私を呼んでいる。
では誰が呼んでいるのかと問われれば、それが誰なのかわからない。
退職するとき、ラクノス先生は「あまり気にしないように」とおっしゃられた。私自身その言葉に従い、なるべく幻聴を遠ざけて暮らそうとした。
はじめのうちそれは上手くいった。
しかし、風向きが変わるのにそう時間はかからなかった。
きっかけは第二王女に渡したはずの硬貨が手元に返ってきたことだ。数日前にリィア様が引き受けてくださったときは一時的に気分が軽くなったが、それがそっくりそのまま何倍にも鬱屈した気分となって帰ってきたかのようだった。
かつて王家から賜った礼服を見て気分を高めようかと、戸棚を開けた中に、硬貨が3枚忍ばされていたのである。
どうやら怪奇はおいそれと私の元を離れてくれないようだ。私は未だ渦中の只中にある。
こういった原因不明の事態に見舞われているのは私だけではない。今や国中で人や物が突然無くなる事態が多発している。第一第二両王女を筆頭に、行方不明になったという話は今やこの港町にも現れつつある。
多分、私はその一番最前列に並んでいる。
そして同じく耳にするのは、身元不明の硬貨を拾った話だ。行方不明事件よりは知名度に乏しいが、やがてこの話も国全土を覆うだろう。
三日前のことだ。
私は実家の高台にある魔法屋の店番をしていた。
高台にある魔法屋など、祖父が趣味で始めたもので人に魔法を売るのは本業ではない。
メイドン家は魔術師の家系だ。
私に限らず、城の使用人は魔術師の家系が多かった。魔術師なんて日がな一日魔法のことを考えているような連中だと思われがちだが、しかし魔法というものも案外便利である。
護身にもなるし、発達した魔術社会においては自身の知性と知識の証明にもなりうる。
ただ、魔法の飽和する社会の中で、純粋に魔法の力だけで生活できているのは、一握りだけの大魔道士と、冒険者魔法使い職だけだ。後者は旅の最中に死に果てるだろう。
私の実家は魔法研究と呪文解読の傍ら、魔法商品の小売をしている。
まともに客が寄り付くはずもなく、店番をするのもただ店の奥で座って本でも読んでいれば良かった。
しかし、その日は珍しく一人の客が店を訪れた。
厳密に言えばその男は客ではなく、私を訪ねにきたのだった。
勇者パーティーの男だ。彼は明らかに錯乱しており、何かうわ言のように幻聴の話をした。
そう言えば数日前にも同じ男と城内で話をした。その時は幻聴の話を聞かれ、その詳細について話した。
硬貨のことについても話した気がする。
背の高い、狩人のような格好をした男だ。
おそらく、あの男も私のように魅入られたのだ。
それが私のせいかは分からない。
何しろ、この幻聴と硬貨がどういう条件で現れるのかも分かっていない。
心の限界はあの男の方が先に来ていたようだから、私より先にあの男の方が連れていかれるのかも知れない。
今更コレの正体を探ったところでどうにもなるまい。何も分からないまま、ただ怯えて暮らすより他にない。しかし、この気持ちをこれ以上心の中に留めておくことが出来ない。
あの男も同じなのだろう。
男が聞いてきたのは硬貨の出どころと、幻聴の正体についてだ。先述のように、私にそんなもの分かるはずもない。何も分からないとしばらく説得するのに時間をかけた。
話の端々に何故か第二王女の名前が出てきて不気味だったが、不思議と悪い感じのしない男だった。
最終的には錯乱していたものの、暴れることもなく一礼をして帰った。
あんなに取り乱してなければ、感じの良い人だったのかもしれない。
◾️
家に帰ると白い子供の死体があった。
親に手伝って貰って死体を片付けると、私は子供の死体を騎士団に引き渡した。それだけで夕方まで時間がかかってしまった。
不思議なことに、家の中に死体があったことも、一度死体で見つかっているはずの子供がまた死体で現れたこともおかしいと思えなかった。
自然とその事実を私は受け入れてしまっていた。
やはり私はおかしくなってしまったようだ。
子供の血と黒い煤のような液体が未だに私の体にまとわりついている。
思えば子供は玄関を開いたときにはまだ生きていて、笑って私を出迎えてくれたのだ。そして微笑みながら階段の方を指さすと、突然風船を叩くように破裂してしまった。
繰り返すが、不思議とそれに疑問を持たない自分がいる。そう、まるであの男と話をした時のようだった。
城内の使用人たちに魔術師の家系が多い理由は、第一に他者からの紹介で城勤めをする場合がほとんどなのと、第二に魔術師の家系なら諸々の仕事もその知識で滞りなくこなしてくれるだろうという短絡的な期待からだ。
巷に魔術師は溢れており、魔法の素養を持つ者は多い。だが、魔法を使えるからといって一概に事務能力が高いとは言えないはずだ。
それでも世間は魔術師に高い知性を求めるようである。
そもそも魔術師の家系だからといって、事務仕事をこなせると考えるのが間違っている。
まあ、家柄が確かな分、怪しい輩を雇うことが少ないというのもあるのだろう。
むしろそちらの方が一番の理由かも知れない。
元々私は魔術学校も出ていない。なので魔術職に就くにしても高望みは出来なかったし、冒険者となって一攫千金を夢見ているわけでもなかった。
城での仕事が決まったときはこれでしばらくは安泰だと胸を撫で下ろしたくらいだ。
生来、上昇志向に欠けているのである。
出世をしようとも思わない。ただそれなりの知識と教養が必要と言われる職にしがみつき、愚か者には務まらない仕事をしながら、緩やかな謹厳に安堵することで誠実な人柄だと評価されたかっただけだ。
だから都合が悪くなれば次の仕事を探そうかと常に漠然と考えていたし、幸か不幸かその機会は今まで訪れなかった。
そんなだから、城内使用人の職を辞したのにも私なりの理由がある。
今の私を苛む出来事に、これ以上頭を煩わされたくなかったからだ。
王家はじまって以来の大騒動は、この港の隅々まで風聞が届くほど広がっている。
第一王女に次いで第二王女までもが謎の失踪を遂げ、今や王都と港町では「人がいなくなる」という噂話でもちきりだ。
魔王軍が勢力を強めているという話もある。
私は未だ怪奇の渦中にある。
だからこれ以上の怪奇に見舞われる前に、私は私なりに自分の意思で決着をつけようと思う。
高台から飛び降りれば誰も私を止めることはできない。
同僚のモモエちゃんなら止めてくれるのだろうか。彼女はああ見えて気がきく性格だからきっと止めてくれるのだろう。
しかし、白い服の子供が指さした階段を、どうしても昇る気にはなれない。
あの階段を登った先は私の自室だ。どうしてあの子供が私の部屋を案内したのか、知りたくもない。一つわかるのは、私の個人的な領域は、自由は、誰かに今や土足で踏み入られるようになったということだ。
今、一階の机に水晶石を置いて日記を書いている。
二度と二階に上がるつもりはない。今から飛び降りて死のうと思う。
自分から死ねば、あの正体不明の何かはどうするつもりなのだろうか。
(王都日報から抜粋)
◾️
港町シルビオネの高台でまた"黒い煤"が見つかった。子供の死体は身元が分かっておらず、現在騎士団が捜索中。
もう一つ、女性の死体は高台の崖の上で見つかった。こちらも"黒い煤"であり、崖の上にいたにも関わらず圧死していたことから、連続怪死事件と同じ手口と見て捜査をしている。
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