Case.9 五日目 八月十七日~寿ロスト~

 これは記憶の奥底に沈んでいた、古い、古い、過去の欠片──十六年前の今日のものだ。

 今よりも短い手足、小さな体。

 私は夢寐委素島の崖の上にいて、海に向かって走っていた。

「はぁ、はぁ……」

 絶壁にたどり着いたころには、目がかすんでいた。

 のどの痛みはひどく、肺に違和感や圧迫感が生じ、全身がずっしりと重い。

 いつ倒れてもおかしくないぐらい気持ち悪い。

「あと、少し……もう少し……」

 私は勾玉と鏡を持っていた。

 夢寐委素三種の神器、夢を見せる──夢幻勾玉むげんのまがたまと、寐の境につかせる──仮寐鏡かりねのかがみだ。

 この二つさえこの先の海……青波様の気が密集している場所に投げこめば、夢寐委素一帯を支配した怪異を眠りにつかせ、封じることが出来る。

 人の力しかない私でも、眷属レベルなら対処できるのだ。

「う、まだ邪魔をするか、人間!」

 季節に全く馴染んでいない、雪だるまが封じられてなるものかと、遠くから何か禍々しいものを投げ飛ばす。

「んぐっ」

 不意に私の背中に衝撃が走る。何かが突き破ってくるような凄まじい痛み。そして、私の胸部から二本の氷柱が生えた。

 背中から胸に……貫通しているのだ。

 あの雪だるまが私に投げつけたと考えていいのだろう。

 私の血であろうか、突き刺さった氷柱は二本とも血まみれだ。

「くっ……よく生きてるな、私……」

 即死こそ免れているようだが、目がこれ以上ないぐらいかすれてきている。

 このまま眠ってしまいたい。

 だが、私は確実に海に勾玉と鏡を投げ入れなければならない。

 血を失い、体がいうことを利かなくなってきている中、神器を海に投げ込むかどうかも危ういぐらいだ。

(なら、この方法をとるしかないな)

 どうせ、後わずかな命。動けるだけで奇跡に近い。子どもながらに感じる近づく死に、私は最後の力を振り絞って、神器をがっちりと抱きかかえ、体ごと海にダイブした。

 血が流れているというのに水に入り込むこと自体相当やばいのだが、崖から海に飛び降りることによって、危険はさらに跳ね上がるのは知識としてわかっていた。

 推理もので、コレをしてまず助かった人間はいない。

 死亡フラグしか成り立たない。

 だが、もう私自身これ以外の方法は考え付かなかった。

(あ……)

 気持ちいい。

 なぜか死にそうなぐらいの気持ち悪さもなくなっていく。長い間祠に入っていたためか、サビ付いていた鏡も、きれいな銀色に輝く。

 神器は沈めば沈むほどその光は強くなり、その形状が海に溶けていく。

(これでいいのかな……)

 息苦しさはあるが、ある種の心地よさも感じる。

 氷柱が突き刺さったままだが、死に近づいているとわかっていても、体が跳ねる。

 まがまがしい気配は完全に消え、代わりに流れてくるのは清浄。

 ここに居れば安心なのだと、体の細胞の一つ一つが訴えてくる。

 もう、恐れなくてもいい。

 羊水の中にいる赤子はこのような気分なのだろうかと思いつつ、穏やかで静かに満たされていくような、充足感に近い快感が流れ込んでいく。

 ゴポリ。

 いよいよ眠気を引き起こされそうになったとき、意識を落とすなといわんばかりに空気の層が私を包み込む。

 あまりの出来事に遠くなっていた気が一気に目覚める。

「こ、これは……」

 青い膜のようなオーラに包まれたことによって、氷柱が突き刺さったはずの体はまるで何事もなかったように治っている。

 一瞬、氷柱が二本突き刺さっていたのは幻であったのではないかと思ってしまったが、服の穴は開いたままである。ならば、あの痛みは現実にあったものなのだ。

 だが、現実では考えられない摩訶不思議なことが起きているというのも、確か。

 さらに私の体を包み込んでいたオーラは黒い棒状のものへと集束。私の中に入り込む。

「あぁっん」

 痛くはない。

 むしろ、心地よく、懐かしい気持ちにさせてくる。

(ク……なんで、こんなことが、起きているっ……わけがわからない……)

 だが、そんな私の疑問や悩みは脳に入り込んでくる声によって、かき消される。

 まるで、そんなことを考えるなと止めるように……。

「勇敢なものよ、現し世に帰るがよい!」

 異空間から生還する探索者がよく耳にするフレーズを直接脳内流れると、私はザァッバァーンという波の音とともに海の中から吹き飛んだ。

「あう。海から出られたのはいいけど、どうやって着地しろというんだ、相棒ぉおぉおお!」

 安く見積もっても地面が平地でもケガ待ったなしの状況なのに、脳内で聞いた言葉につっこまざるをえない。

 悠長にモノローグをする暇は、ない。

「オレに任せろ、あいが! やさしく抱きしめてやる!」

 丁度いい場所に待機していた沙良の両手が、落ちてきた私を見事キャッチする。

 私は線が細く柔らかくも、たくましい腕の中に抱きかかえられたのだった。

「あ、ありがとう、沙良……」

 私は、赤面した。

 ……これはもしや逆お姫様抱っこというものか。

 当時の私はそこまで思い立ったかどうかはわからないが、なんかとても恥ずかしいという思いだけに振り回される。

 そんなあまりにも刺激的なことがありすぎて、完全にキャパオーバーした私は、安堵したこともあって気が抜け、そのまま眠るように意識を失ったのだ。

 ……だから、今までこのことは夢だと思ったのだ。

 相棒こと、青波の力を委ねる──委龍剣いりゅうのつるぎを再びこの手に握りしめる、昨日まで……。





 ──五日目 八月十七日。





 私は私の言葉で、唯愛を振った。

 唯愛の中では、三日目の八月十五日の夜となっていることだろう。

 ただし、私の中では、術を使う直前。

 かわいい従妹がまだ生き返らず、魂だけの状態。

 人外へと転化した私でも、その心が、その魂が、仙崎愛翔にもっとも近い状態に戻れる、あの瞬間。

 私は最後の人間らしさを睦月唯愛に捧げた。



 華やかな式が終わり、人間たちがまた一人、また一人と正気の世界へと帰っていく。

 私はそれを黙って見守る。

 私がもう帰れない場所に帰っていく人たち。

 悔いはないが、センチメンタルな気分にさせる。

(ええ。これ以外……唯愛を生かすことはできなかった……)

 死んでしまった人間を生き返らせるのは、神の御業なしではかなわない。

 ノーリスクとなるとほぼ不可能。

 一見罰でも何でもないものがあったとしても、何らかしらの形が残っている。

 かわいい従妹にそんなもの背負わせるにはいかないと仙崎愛翔は思い、十六年前とは違うエンディングを自らの意志で選び取った。

「……。沙良、沙良……お待たせしました」

 私は愛しい花嫁の指先に触れる。

 これが、合図だ。

「おう。オレとしては人の寿命が尽きてからでもよかったんだぜ」

「いえいえ。願い事を叶えてもらったからには、これ以上沙良を待たせするわけにはいきませんよ。それに私も……我慢できないよ……」

 景色が一転する。

 した先──そこは薄暗い海水の中だった。

 ワープした……というのは正確ではないな。次元が違うだけなのだ。

 私たちの次元ではここにはたつなみペンションがある。

 ただ、この次元のチャンネルに合わせれば、この薄暗い海があるだけなのだ。

 神隠しはそんな別次元の隙間にたまたま入り込んで戻れなくなってしまったことで起きている。

 そういう事故が起きないように、神社に住む従者……具体的には狛犬やお稲荷が隙間を修復したり、入り込んでしまった人間を追い出したり、と正気おもて狂気うらの世界のすみ分けを行なっている。

 そう、ここは狂気うらの世界だ。

 神域と違うのは、清められているわけではないから。

 だが、ここの空気は肌に、心にとことん馴染む。

 久方ぶりのこの感覚に、私は陶酔すら覚える。

「沙良……いや、かも助様……」

 前世の藤波ふじなみ実愛なおのりの想いが加わる。

 彼は神主の中で、歴代最強と謳われたぐらい、アーティファクト夢寐委素三種の神器との相性は最高だった。

 そして……。

「いいえ、いいえ……この場では青波様と奏しましょう」

 大気が震えると同時に 沙良の頭に二本の龍の角が生える。

 瞳の瞳孔も細長いものへと変わり、爬虫類を思わせる。

「ああ、青波様……」

 藤波実愛は身も心も主神に捧げ、ほぼこの狂気の世界でかの柱の側に仕えていた。だが、不慮の事故により輪廻を巡り、仙崎愛翔として転生した。

 はじめて沙良にあった年、愛翔は大人になって探偵になることを夢見ていた。

 恋心を理解していない時分だったからこそ、十六年前の私は、青波様と出会っても惹かれはするものの、正気の世界から去る気はなかった。

 青波様も仙崎愛翔という人格を尊重してくれた。

 しかし、お互い惹かれあう存在。

 覚えていなくても、その想い変わらず。

 一年の内お盆期間だけでも一緒にいないと、会えない苦しみに胸が焦がれてしまう。

 だが、ただ人である仙崎愛翔には青波様は刺激的過ぎた。

 そこで、毎年この期間に出会っては記憶を差し替え、差し障りないものに置き換えていた。

 道理で夢寐委素町島に仙崎愛翔が来ているのを知られていないわけだ。

 お盆期間中、ほとんどこの狂気の世界で過ごしているのだ、正気の世界の人間が愛翔が毎年夢寐委素島に通い詰めているなんてこと、知る由もない。

「そうだな、愛翔。これからはまたオレの側にいてくれるのだったな」

「はい、青波様。あっ……」

 青波様の手が伸びる。

 ごく自然に、まるでそれが当たり前であったかのように。

 ずっと焦がれ続けた宝物をようやく取り戻せた童の様に、それでいて、海の如く清らかに微笑みつつも情欲を隠しきれていない神の姿は、私の心をさらに熱くさせ、蕩けさせる。

 左手が私の腹にまわり、抱き着かれていると認識した時には、ポロポロとほほに涙が転がった。

 還ってきた。

 狂気の世界と愛する主神のもとに。

 還ってきたのだ。

 眠りから覚めた神主は、正気の世界の冒険に区切りをつけた。

 ──長かった夏休みが、終わったのだ……。

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