Track.16 五日目 八月十七日~ひとつの恋の終わり~
瑠璃色の夜空にするすると橙の雲が棚引きはじめ、東から少しずつ少しずつ空が淡くなってくる。
浜辺もゆっくりと色づき始め、空をそのまま写したような海ではあるものの、波によって絶えず揺れ動く。
──快晴だ。
盗まれた窟拓村の鏡を取り戻した、刑事・関口環は朝日を眺め、今日も無事に清々しく活気に満ちた朝を迎えられる喜びを、噛みしめた。
☆五日目 八月十七日
ボクが見つめる先。
夢を見せる──
寐の境につかせる──
青波の力を委ねる──
この夢寐委素三種の神器が雲紋の台座に鎮座している、夢寐委素町の夢寐委素神社で。
愛翔兄ちゃんは黒五つ紋付き羽織袴に身を包んで、三三九度の盃を交わしていた。
……そうだ。
今日、愛翔兄ちゃんは東海林沙良と結婚した。
夢寐委素町島観光協会の新たな事業、ブライダルプランの試験的な導入という大人の事情もあるが、夢寐委素島のたつなみペンションを貸切って、今、盛大な披露宴が行われている。
結婚式といえば、ボクの中ではウェディングドレスなのだが……ここは、和式。
夢寐委素神社では白無垢姿だった沙良は、お色直しの色打掛でこれまた、今日の海のように色鮮やかな青を身にまとっている。
全体的には和装婚なのだが、披露宴のお料理はビュッフェスタイルと和洋折衷がすごかった。
「まぁ、普通にやっても客は来ないわよ」
「律子お姉さん」
モグモグとキッシュを食べながら、手持ち無沙汰なボクに声をかけてきたのは、呂子お姉さんの双子の妹。
音楽関係のそれなりの名門生まれではあるものの、本人曰く才能がいまいちだったので、早々に見切りをつけ、ボクのおじである仙崎探偵の弟子になるべく姉と一緒に転がり込んできた行動派である。
律子お姉さんのバイオリンを聞いたことはあるが、上手いというのは素人耳でもわかる。だけど、それ以上……感動したか、また聞きたいか、と問われれば少し判断に戸惑う。
そういうところが才能がいまいちだと言い切る由縁だと、律子お姉さんが寂しそうにだけど吹っ切れて笑っていたのは記憶に新しい。
だが、一方で探偵としての才気は素晴らしく、つい三か月前に『宮瑠の殺人鬼』と言われ、恐れられていた連続殺人鬼の逮捕に貢献している。
協力関係だった宮瑠町の刑事に手柄を。ネタと資料は桜井先生に。
桜井先生は近い将来、『宮瑠の殺人鬼』を基にしたミステリー小説を書くことだろう。
非常に楽しみである。
「ん。中々。これなら姉さんの結婚式場もここにしてほしいところだわ」
「あははは……」
呂子お姉さんはのんびり屋さんだから……。
桜井先生の方も表情が読めないし。
今、この場から遠目から見ても、仲睦まじい姿ではあるが、もうすでに夫婦として出来上がっているため、今更結婚するかどうかは微妙。
出来ればここでガッチリ結婚アピールをしてほしいところなのだが……本当にどうだろうか?
見守るしかできない、非力な観戦者であるボクを許してくれ……。
「それにしても、十六年間も思い続けて、ゴールインするなんて、さすがは仙崎探偵の倅ってところなのかしら。粘り強いわ」
「愛翔兄ちゃんも探偵だから……」
といっても、兄ちゃんは婿入りするらしく、戸籍上は東海林愛翔となるらしい。
都甲複合ビルの三階フロアにある、探偵事務所『仙崎探偵事務所』という名称こそ変更する気はないそうだが、所長の座を雛形姉妹に譲り渡し、愛翔兄ちゃんは結婚を機に夢寐委素神社の神主を務めるという。これからの活動拠点は夢寐委素になるわけだ。
相談にはいつでも応じるというが、パソコンの画面越しになることは決定事項。
ボクは気楽に相談できる相手を一人、失うようなものだった。
(それはちょっと違うかな……)
愛翔兄ちゃんは今まで通り気安く会いに行ける存在ではなくなった。
ボクは兄ちゃんに振られた。
わかっていたことだけど。
脈なんか元からなかったけど。
初恋が終わりを告げるって、こんなにも心が乱れてしまうものだったとは、全く想定外だ。
淡く、熱いこの気持ちを整理するのに、一日もかかった。
実際、四日目は何もする気が起きなかったぐらい心がダウンしていたのだ。
(それでも……)
兄ちゃんは、ボクに……。
『私は唯愛には応えられない……だけど……』
すでに愛する人がいる兄ちゃんに恋したボクを非難することなく、
『私に恋をしてくれて……ありがとう、唯愛』
感謝の言葉で締めくくった。
兄ちゃんはボクの気持ちに気がついて、ちゃんと受け取ってくれていたのだ。
そして……ボクのことを考えて、振った。
(ボクは愛翔兄ちゃんに恋をしてよかった……)
決着がついたのだから……ボクは十分いい初恋ができたと言えよう。
ちょっとビュッフェの料理がしょっぱい気がするが……きっと、この会場が、たつなみペンションが、海から近いせいだ。
腹八分目ぐらいになったボクは、律子お姉さんに軽く一言添えた後、会場から出る。
一応、お手洗いという名目なんだけど……本当は涙があふれてきたからだ。
一日、休んだのにな……。
目の張れも引っ込ませたのに……。
辛いものはやっぱり辛いってことだ。兄ちゃんの前では格好つけたいから、いい従妹でいたいから、我慢していたけど……さ。
「あの……大丈夫ですか」
聞き覚えのある少年の声がする。
確か、都甲複合ビルの居住空間に住む子で……ライトアップ剣を修理に出していた、小学生。
年の割にはかなり落ち着いた子で……まぁ、妹が亡くなっているところから、お察しくださいだろうけど、ボクの中では、信じられないくらい大人びている。
「具合が悪いように見えたから、気になって……」
ごめんね、路敏君。
体調は全く問題ないんだ。ただ、心が辛いだけなんだ。
そっとしておいてほしいんだ。
「あ、あの……唯愛さん、でいいですよね。いつもよりきれいだから、ちょっと自信ないけど」
……路敏君。やっぱり君はまだ小学生だ。
そのイマイチ女性に対する心づかいとか、空気を読み切れていない微笑ましさに、ちょっと涙が引っ込んだよ。
「ええ。路敏君、ボクのことは気にしないで。ちょっと退屈かもしれないけど、ボクを相手にするよりはずっと会場のほうが楽しいよ」
同い年の子供がちらほらといたからね。
一人で泣きたいボクよりは、ずっといい話し相手になるはずだ。
「はい……」
素直で大変よろしい。
「でも、これを……」
路敏君は、しわのない……しっかりとアイロンがけをした青いハンカチをボクに手渡してきた。
「これ、返さなくてもいいので。だから……えっと……ま、そういうことで、元気になってください!」
語彙力が死んだ。
路敏君も……ボクも……気恥ずかしさで、顔を赤く染めることしかできない。
お互い逆方向にダッシュしたけど、耳の付け根まで真っ赤になったのはチラリと見えた。
……見えてしまったんだ。
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