第九話 お前を置いていけない
「置いていって」
「は」
切羽詰った声でそう言ったのは当たり前だけど冷夏。
「置いていって」。そう言う冷夏の心理が俺には分からなかった。
「私を置いて、逃げて」
「いやだよ! お姉ちゃん!」
「お願い河野。春のためなの、ここにいて危険な目に合わせるわけにはいかないの」
選択が迫られる。
お日様が顔を出し始めた頃、マンホールの中にいる冷夏の顔がはっきり見える。
「お願い」
「……分かった。春」
「お兄ちゃん! いやだよ……!」
「お前は生見さんと電話をしながら見つけた地下水路に行くんだ。外で生見さんが待ってる」
「え?」
「俺は冷夏を置いていくことはできない、絶対にしない。約束する」
「でも……」
「大丈夫。冷夏をここから引っ張り出して、お前の所へ行くから」
まだ幼い春には酷な選択だろう。
だけどここにいるより、生見さんもいる地下水路に向かう方が春は安全なはずだ。
「頼む」
「分かったっ」
今にも泣きそうな顔になっている春は鼻を啜りながらそう言った。
「ありがとう。ここを押して生見さんと通話するんだ」
「うんっ」
「ほら、行け」
春が走って行くのを確認し、俺は再びマンホールの中に体を突っ込んだ。
「どうして……」
「春にとっての冷夏はどういう存在だ。家族がお前しかいない今、春を一人にするとどうなるか分かるよな?」
「っ」
「春にとっての冷夏はなくてはならない存在。酸素だ。酸素がなくなると人は死ぬ。苦しませたくないなら生きろ」
「うんっ」
「歯、食いしばれよ。俺も頑張るからさ!」
必死に引っ張りあげる。
こうしている間にも、時間が迫ってきている。
「ぃ」
中から痛みに耐えるような声が聞こえるけれど構っている場合ではない。
するとブーブーと通知音がした。
春が無事に生見さんと合流し、地下水路に入れたのだろう。
「河野っ」
「あと少しだ!」
もう少しで自力で這い上がれる所まで来た。
「出れた……」
俺はマンホールから体を抜くと冷夏が地上に上がってきた。
「行くぞ!」
俺はリュックを背負い、冷夏の手を掴み走る。
通り過ぎる風が頬に触れ、心地よい。
大きく影が伸びる物体の横を通り過ぎ、一直線に地下水路へと向かう。
腕時計を見るとすでに四時が過ぎており、あと二十分もない。
「あっ、お姉ちゃん! お兄ちゃん!」
地下水路への入口が遠目に見えてきた。
扉の近くには春と生見さんが。
「急いで! 完全に日が昇るよ!」
あと少しで扉と言うところで物体の腕がピクっと動いた。
「まずいっ」
完全に日が昇ったのだろう。小さな物体も動き出した。
「早くっ!」
春が必死に叫んでいる。
扉まではあと一歩。こちらの方が確実に先にたどり着ける。
と、思っていたのに……。
「冷夏!」
足が竦んでいる冷夏が少し先に見えた。
いつの間にか手が離れていたらしい。俺も必死で今まで気づかなかった。
「ぐわぁあああああ!」
大声を出し、大きい物体は長い足でこちらへ。
小さい物体は短いけれど早い足でこちらへ向かってきている。
ドシドシと言う足音が俺達の恐怖心を誘い出す。
頭が真っ白になる。足が何かに縛られたように動かない。
「お姉ちゃんー!!」
「!」
大きな声で冷夏を呼ぶ春の声で意識が戻ってきた。
俺は冷夏を担ぎ上げ、無理やり入口の方へ連れて行く。
「早く!」
生見さんも必死で叫んでこちらに手を伸ばしている。
「届けーー!!!」
――ガチャン。
「はぁはぁ」
「危機一髪だったね……」
「あぁ」
閉まった扉の先からゴンゴン扉を叩く音が聞こえる。
だけれどそれはとても壊せそうにはない音だった。
「集めておいた点検道具を扉の前に置いておこう。これなら多少は扉が開かないようになるはずだよ」
「だな」
俺は今だ担いだままの冷夏を降ろした。
「お姉ちゃん!」
「春……」
零れた涙は冷夏の衣類に滲んだ。
「手伝う」
「助かるよ」
傍に置いてあった点検道具などを扉の前に移動するのを手伝うことにした。
背後からは嗚咽が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、ありがと!」
「いいや」
階段を下りている時、ふいに春から礼を言われた。
「河野、本当にありがと」
「なんかさ、お前を置いていったら空にいるおふくろに怒られる気がしてさ」
なんとなくそう感じた。
おふくろは女の子を守れと俺に強く言ってきた。
それにここまで助け合ってきた“仲間”を見捨てられないっていうのも勿論あるけどな。
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