羽生善治という尊厳
羽生さんが、王将戦の挑戦者になった。ついに藤井-羽生のタイトル戦が実現する。これは将棋界のみならず、世間でも大いに話題になっている。やはり「将棋界と言えば羽生」、という人がまだ多いのではないか。
私が高校の将棋部に入ったとき、すでに羽生さんは強かった。調べてみると、その時六冠王だったようである。私が高校一年生の時に、七冠を達成している。将棋に興味を持つ始めた時だったため、「そういう強い棋士がいる」という感覚に過ぎなかった。
そのころ、米長先生にかっこいい勝ち方をする北浜先生の将棋を見て、北浜ファンになった。ほかにも気になる棋士がいたが、誰もタイトルを獲得することはなかった。羽生さんがいる限りいくつかの枠は埋まっており、それ以外も羽生世代が獲得することが多かった。
私は羽生ファンだったことはない。羽生さんは応援の対象という気すらしなかった。ただ、嫌っていたわけではない。特に私は、『羽生の頭脳』に関しては偉大なものだと思ってきた。大学生になって『東大将棋』シリーズが出始めたころ、「『羽生の頭脳』はもう古い」という感じになっていた。しかし私は、「『羽生の頭脳』はそういうものじゃない」と抵抗した。その名の通り羽生さんの思考を感じることで、将棋の本質を学んでいくものなのだ。たとえ手が古くなっても、その手に対する解説から学べることはあるのだ。
ここでも「羽生さん」と書いているように、羽生先生でも羽生九段でも違和感がある。身近に感じるからの「さん」ではなく、先生や段位という枠に収めてはいけないのではないかという、畏れからの「さん」なのである。たとえ七冠は一時であったとしても、羽生さんはずっとトップ集団にいた。その間に、羽生さん以外のメンバーはかなり入れ替わったはずだ。そして無冠になり、A級からも陥落した。それでも王将リーグ全勝という素晴らしい成績で、挑戦を決めた。
羽生さんなので「復活」というような言葉で納得してしまうが、50歳を超えてタイトル戦挑戦というのはとんでもないことである。とんでもないことだが、羽生さんならばあり得ると信じていた人も多いだろう。羽生さんの強さというのは、羽生善治という人間の魂の奥底から湧き出てくるもののように感じる。年を重ねて何かが衰えたとしても、衰えた自分のコントロールの仕方を見つける。そうやって、またトップ集団で活躍しようとしているのだ。
羽生善治という人は、いかにも将棋が強そうだ。見た目からして知的で、落ち着いていて、それでいて時折ぞっとするような顔をする。99期もタイトルを獲得する人がいるということだけでなく、それが羽生善治ということで世間に与えた影響は大きいだろう。羽生さんがいたからこそ、藤井聡太も偉業を達成できる、そういう人間が「再び現れても」おかしくないと思われているだろう。
羽生さんを表す言葉を考えた時、私は「尊厳」だと思った。尊く、気高く、犯しがたいもの。それは個人としてだけでなく、将棋界全体に影響を与えるものだ。いろいろなことが起こる将棋界だが、「最終的には羽生さんがいる」という安心感がある。羽生さんに会長になってほしいなどということではなく、羽生さんには「羽生善治であってほしい」と思うのだ。将棋界にとっては、それが最善だと思う。
藤井さんにとっても、羽生さんとのタイトル戦を経験することには大きな意味があるだろう。間違いなく将棋界の顔となる人である。羽生さんを越えたという事実でも、初めて敗退したのが羽生さんという事実でも、彼を成長させることは間違いない。
藤井さんはいつか、全冠制覇にも挑戦するだろう。『藤井の頭脳』を著すときも来るかもしれない。そしてそのたびごとに、羽生さんと比較されるだろう。一度羽生善治という柱が立ってしまった以上、それは仕方がない。そして、その柱はまだまだ立っているだろう。
羽生さんのいる時代に生まれて幸せだったし、藤井さんと対戦できる時代に生きていて幸せだったし、今後も様々な幸せを享受できるだろう。繰り返すが私は羽生ファンではない。しかし羽生善治という人間を尊敬していることは間違いない。
藤井-羽生のタイトル戦は楽しみだが、羽生さんが復調したとすればそのタイトル戦は一度きりとは言えないだろう。世代を越えたライバル関係がみられるのかもしれない。それは尊厳対尊厳の戦いになっていくのかもしれない。
とにかく楽しみである。
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