あの日、僕はアイスを託された。そして彼女は去った。
あの日彼女は、箱のアイスクリームを持ってきた。「将棋部をやめるので、皆さんにこれを渡してください」そんなことしなくても、と感じたが、頷くよりなかった。彼女がやめるということは何となくわかっていたし、アイスは溶けてしまうので、今食べるしかない。
もう一人の女性部員につれられてきた彼女は、将棋のことをほとんど知らない状態で入部した。気が付くと、私がいろいろなことを説明する係になっていた。社交的なわけでも女性との交流が多かったわけでもないが、「女性と普通にしゃべれる」というだけでも貴重な人材になる場があるのだ。
将棋のルールを覚え、対局もするようになっていった彼女。ただ、楽しかったのかどうかは今でもわからない。違和感もあったと思う。「マネージャーでは駄目ですか?」と言った時、もし、認められていたら。将棋を指さない将棋部員という、新しい形があり得る状況だったら。
やめていく人の空気というのはわかる。それでも、そういう人でも楽しめる場所であってほしかった。将棋をしていないときも。違うゲームをしたり、おしゃべりをしたり、突然阿蘇に行ったり、巨大かき氷を食べに行ったり。将棋部は、将棋をする仲間たちの集いの場だった。
彼女にも楽しんでもらおうと思って、孤立しないようにと気を遣った。そしてそういうことは、すぐに恋愛に結び付けて色々と言われてしまう。慣れていないからこそ、そうなってしまう。それでも私は、信頼されなければならないと思った。みんなといることが楽しいと感じてもらえるまでは。
部室の外でアイスを渡された私は、部室に入るとできるだけいつもの調子で「退部するとのことです。皆様にということで、アイスを貰いました」と言った。どんな感じで皆がアイスを食べたのかは、驚くほど覚えていない。
学部が一緒だったので、彼女とはその後も顔を合わせることはあった。将棋部のことは聞けなかった。将棋部に私の学年は全部で9人いたのだが、やめたのは彼女を含めて二人だ。その後入った後輩の女性部員も、すぐにやめてしまった。
他の学校ではどうなのだろうか。やはり男性部員よりもやめることは多いのだろうか。参考になるようなサンプル数ではなく、たまたま私が「やめた二人」のことを気にしてしまっているだけだろうか。どうすればよかったのだろうか。いや、そもそも彼女は将棋部にあっていなかったのだろうか。
マネージャーとしてでも残れないかと考えたということは、少しは「集いの楽しさ」を感じてくれていただろうか。今なら将棋を指さなくても、たとえ将棋部をやめても、将棋を楽しめる方法を伝えようとしたかもしれない。
私はその後も、「やめる人にアイスを託される」ような立場になることか多かった。私がもう少し踏ん張れば、結末は変わったかもしれない。私以外がこの役割をできれば、結末は変わったかもしれない。いろいろなことをぐるぐると考えて、今に至る。
「マネージャでもいいじゃないですか」とあの時他の人々に言えたなら。何年に一度か、思い出して後悔する。多様な楽しみ方が認知されるようになった今ならば、大丈夫だろうか。それとも、将棋部ではそもそも対局することが必要条件だろうか。わからない。
指導や大会運営に携わるようになっても、一番いいやり方はわからないままだ。ただ、「アイスを買いに行く前に相談してもらえる人間になりたい」とは思っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます