名人、笑顔のその先

 本日(2014年11月28日)、元チェスチャンピオンのカスパロフと将棋の現名人羽生善治がチェスで対戦し、その様子がニコニコ生放送で中継された。


 羽生はチェスでも日本のトッププレイヤーであり、決して和気あいあいとした対局にはならないと予想された。もちろん、カスパロフとの力の差ははっきりしており、2局中1局でも引き分けに持ち込めれば、という風に見ていた人も多いかもしれない。


 結果はカスパロフの二連勝。残念ながら妥当な結果になってしまった。しかし二局目は途中まで羽生が少し面白いのではないかと言われており、途中引き分けになりかけた。しかしカスパロフは途中で引き分けを拒否し、絶妙な指し手で終盤を展開させた。彼はどこまでも本気だった。


 対局後、英語で二人は話していた。そして通訳の入ったインタビューにいたるまで印象的だったのは、羽生がとてもいい笑顔をしていたことである。それは少年がかけっこをした後のような、屈託のない笑顔だった。単に羽生にとってはプレッシャーのない対局だったから、趣味のチェスでトッププレイヤーと戦えたから、という理由だけには思えない。


 カスパロフはかつて、ディープブルーというチェスソフトと戦った。そしてその歴史こそが、棋士と将棋ソフトの対戦が望まれる土台ともなっている。チェスで行われたようにいつかはトップ同士の決着を観たい、もしくは将棋「こそ」圧倒的な結果が出るところを観たい、という人々の願望は、当然のものだろう。


 しかし、その裏には当時の国同士の事情などがあったことも忘れてはならない。「強い奴と戦いてー」と言っていた悟空が地球を守る戦いに巻き込まれていったように、「最強は誰か」以外のことに当事者たちは巻き込まれていく。そして最も人々が登板を熱望するであろう羽生が、「チェスで」「人間と」対戦して笑顔であったということは、とても示唆的な出来事である。


 電王戦は、次回で団体戦を終えるという。人間とソフトのタッグマッチ棋戦がアナウンスされているが、賞金などの規模の割には期待されていないようにも感じる。人々は残酷なもので、「本気の殺し合い」を外野から眺めてみたいと望む。もし羽生がソフトと対戦することになれば、相手を徹底的に研究するだろう。そしてソフトの深い闇に魅入られて、戻ってこれなくなるかもしれない。もし羽生が勝てば、さらに強くなったソフトとの対戦が望まれるだろう。しかしそれにより、羽生が人間と指す機会が減ったり、人間相手の研究がおろそかになるようなことが生じたとしたら? それこそ私たちは大いなるものを損失したことにはならないか。


 私が羽生の笑顔に感じたのは、「羽生さんはチェスには本気じゃないんだろうな」ということだった。当たり前だが、しかし羽生はどこか求道者のようなところがあり、「チェスこそ極めたい」と思えばチェスに没頭してしまうのではないかと恐れることがある。そして将棋ソフトはより「没頭の危険性」が高い。最初は、人間と機械の本気のぶつかり合いを私たちは楽しむだろう。しかし、羽生が別の世界に旅立ってしまったとしたら。成長を続ける将棋ソフトとの、深い深い世界へ。笑顔が消えてしまったら。


 人間に勝ったチェスソフトがチェス界を支配し、今や私たちは人間のチェスに興味を抱かなくなってしまった……という未来は訪れなかった。まさにカスパロフ本人が、将棋の名人を前にそれを体現して見せた。電王戦を主宰するドワンゴがこの機会を設けたことには、複雑な思いが込められているように感じる。人間と機械の未来、そして私たちが棋士に求めるもの。たんなる「強い奴と戦いてー」では終わらない戦いを、今後どう展開させていくか。それは、見る側の見方にも当然影響される。「今後羽生さんにどんな顔をしてほしいんですか」今日は、そんな問いを投げかけられた気がする。


初出 note https://note.com/rakuha/n/ncc285d61bc93



2020年7月26日 追記


 2017年、第2期電王戦二番勝負において佐藤天彦名人とPONANZAが戦うことになり、PONANZAが二連勝した。


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