一般棋士2.1

「一般棋士2.0」を書いてから二年が過ぎた。その当時予想していた「五年ぐらいで起こるだろうこと」が、この二年の間にいくつか実現した。変化は想像以上に早く、更なる予想をしないといけない時期ではないかと考える。そのため新たなバージョンの棋士を「一般棋士2.1」として、今後のことについて再検討してみたいと思う。




 新たな変化を呼び起こした大きな原因は、電王戦である。第2回・3回は人間対ソフトの団体戦という形で行われ、世間から大きな注目を集めた。この新しい電王戦には、いくつかの特徴があった。まず、毎週土曜日にニコニコ生放送で観ることができた、という点である。将棋の対局は主に平日に行われるうえに、タイトル戦といえども完全に定期的に行われるということはまれである。そしてさらに、対局開始から終了まで完全中継であり、解説人も豪華、名のあるゲストも訪れた。一度限りのお祭りでなく、「毎週」大きなイベントがあるということで、観戦側の体内リズムとして将棋を楽しむ習慣が刻み込まれていったことだろう。


 次に特徴的なのが、参加者に対してPVを作り、徹底的にあおったことである。基本的に将棋の諸々は文字情報でしか知ることができず、対局者のことについて熱心に知るためには観戦者が努力するしかなかった。しかし電王戦は積極的に、対局者やその周囲の人々についての情報を宣伝した。棋士や開発者がどのような立場にあり、どんな人間で、どんな個性があるのかを知ることができ、私たちは対局の中身以外についても楽しみにすることができた。電王戦は将棋の新しい「見せ方」を作り出したと言える。


 さらに電王戦は、将棋の新しい環境そのものも提示し始めた。第三回電王戦はこれまで考えられなかった有明コロシアムや両国国技館といった場所で行われた。また、ソフト側の指し手を再現するのに「電王手くん」というロボットが使用され、人間以外の対局者が将棋を指す姿が長い時間中継されることとなった。将棋を指す場所のみならず将棋を指す主体までもが従来の枠を飛び出たということは、今後も新しい対局の形があるかもしれないことを予感させる。


 そして多くの人が実感するところであるのが、人間より将棋が強い存在が現れた、ということだろう。将棋ソフトはプロ棋士に対して通算8勝2敗1引き分けであり、「一般棋士よりは強くなった」というのが人々の普通の認識ではないだろうか。そしてそのことは、プロ棋士の存在意義自体を問うことにもつながる。私自身はソフトが強いから人間がどうこうとは思わないが、思う人がいることも納得できる。プロ棋士が「強さ」を売りにしている以上、他に強い者がいれば市場の独占は崩れるのである。


 電王戦によって新たに将棋ファンになった人も多いだろう。将棋そのものに対しては、電王戦は多くの恩恵をもたらしてくれたと考える。しかし一般棋士2.1にとって話はそう簡単ではない。将棋ソフトは一般棋士2.1を負かすことができて、ひょっとしたら一般棋士2.1よりいい棋譜を残せるかもしれないのである。そして、電王戦で勝った棋士がいるという事実すらも一般棋士2.1には重くのしかかるかもしれない。ソフトにも勝てる棋士がいるにもかかわらず、多くの棋士が勝てないとすれば、棋士内の実力差が浮き彫りになってしまう。また勝った二人の棋士がソフト対策に多くの時間をかけたことを明らかにしているため、「努力できる人とできない人」という区分をされてしまうことすらあるかもしれない。ソフトに勝てる側になるかならないかで、その棋士の評価は大きく変わってしまうかもしれず、「ソフトに勝てる一部の棋士こそ本物のプロ」という評価につながることもありうる。


 祭りはいつか終わる。一般棋士2.1は、新たな課題に取り組む必要が生じている。強さはもはやプロ棋士の専売特許ではなく、指し手の再現も人間以外が執り行える。そんな時代に「人間だからこそ」できることとは何かは、真剣に考えなければならないだろう。 しかし、一般棋士2.1はすでに何回かこのような経験を潜り抜けてきている。「人類」という枠組みで観るために忘れがちであるが、「プロ棋士はプロ棋士以外に負けてきた」歴史がある。アマチュアに負け、女流棋士に負け、ついには三段が新人王になるまでのことが起きた。そこに新たに「将棋ソフト」が加わっただけという見方もできる。しかしそんな時代でも、深浦九段が甲斐女流二冠に負けたときは大きなニュースになった。つまり私たちはどこかで、「プロ棋士以外にはまず負けないだろうという格」を想定しているのである。電王戦においては、そのような「格」を一気に無視してトップ棋士をも将棋ソフトが負かしてしまった。残されたのはタイトル保持者たち「超一流棋士」がどうなるか、という点である。つまり電王戦は、一般棋士のみならず一流棋士をも問題の渦中に引きずりこんだ、と言える。


 次に、棋士がメディアに登場する機会が増えたという変化があげられるだろう。桐谷七段に始まり、加藤九段、そして先日はついに豊川七段までもが人気テレビ番組に登場した。特徴としては、棋士としてだけに留まらず、一人の「面白い人」としてメディアに取り上げられるようになったという点があげられるだろう。今後も棋士がテレビなどのメディアに呼ばれることは増えるだろうし、棋士側から発信していくメディアも作られるかもしれない。しかしそれは、新たな注意点が生まれるということでもある。


 棋士が取り上げられるようになった背景には、棋士に魅力があるからという点もあるが、業界側の事情もあるだろう。予算が減っていく中で一番効率的に番組を面白くできるのは、「面白い人を出すこと」である。そしてその面白い人が業界内で大きな存在でなければなおさら良い。ギャラが安いからである。一時期若手芸人のネタ番組が多かったこと、今旅番組や身近な素人にスポットを当てた番組が多いことは、やはり予算の関係だと考えられる。将棋棋士には面白い人が多いし、ファンはすでにそのことを知っている。テレビを盛り上げられる人を探すにはもってこいの畑であったのだろう。


 しかしこのことは、メディア側には「将棋に還元しよう」というつもりがないことをも示している。桐谷七段に特に顕著だが、もはや一人の面白い人として独立しており、プロ棋士であることは全く関係なくなっている。メディアで有名になったプロ棋士によって将棋を盛り上げるのは、完全に「将棋側の」仕事なのである。せっかく一般棋士2.1が有名人になっても、先天的にその人が面白かったという理由では、単に「お手頃なタレントが将棋界の中にいた」ということにほかならず、今後の棋士の指針とはならないだろう。


 メディアに出るうえで、「将棋棋士として何ができるか」が問われるようになっていくだろうし、連盟としてもしっかりマネージメントしていくような体制が必要となってくるだろう。もしくは芸能事務所と契約して、有望な棋士を売り込んでいくような方法がいいかもしれない。とにかく、「たまたま呼ばれた人が活躍して嬉しいなあ」ではあまりにも呑気というものである。


 さらに、「一般棋士2.0」でも述べたが、将棋がいくら盛り上がっても、その恩恵がプロ棋士にもたらされるとは限らないのである。将棋そのものが知られる機会が増え、将棋を題材にした小説や漫画なども続々と誕生している。様々なインターネットで対局できる場所もできている。プロ棋士にたどり着かなくても、将棋ファンは将棋を楽しむことができる。将棋が儲かるとなれば、プロ棋士不在の将棋番組もできるかもしれない。そうなれば一般棋士2.1は、「遠い世界で将棋で何かしている人」のままである。


 一般棋士2.1が何もしていないわけでないのも知っている。ニコニコ生放送で新しい種類の番組が行われ、それまであまり注目されることのなかった棋士が主役となる機会が増えてきた。このような「売り方」は今後どんどんするのが良いだろう。しかし、それゆえに気を付けた方がいいと思う点もある。それはプロ棋士が将棋ファンに対してどんな立ち位置なのかをはっきりとさせることである。ある放送ではプロ棋士がアマチュアの指し手や風貌などに対して失礼とも取れる発言をして、一部の人が疑問を呈していた。ファンは棋士に教わる立場であり、棋士を尊敬もするだろう。しかし棋士はファンのことを何だと思っているのかはっきりしないことがある。お客さんなのか、指導の対象なのか、ともに将棋を愛する同志なのか。多くの一般棋士2.1が主役となりファンと関係していくということは、あらが見えてしまう機会が増えてしまうということでもある。プロとファンとの間における関係はどのような形が望ましいかについて、棋士全体のコンセンサスが必要となるだろう。




 この二年間で変わらなかったものもある。端的に言ってしまえば、連盟のホームページである。マイナーチェンジはあったものの、今も情報は探しにくい。表看板がこの状況では、今後のことが心配されても仕方ないだろう。また、ネット中継に関してもほぼ変わっていない。いや、むしろ会員登録しなければ見られないページが増えたうえに、ネット棋戦が休止状態になり、状況は後退したとすら考えられる。将棋に興味を持った人が「いかに手軽にプロのお仕事を知られるか」は最重要課題だろうと思うが、いまだに敷居は高いままである。


 メディアに関する事とも重なるが、インターネットに関わることも専門家に頼むというのが良い方法ではないだろうか。それは経営や広報、全ての事に通じるかもしれない。すでにいる人材が適材適所に配置されるのも重要だが、専門外のことは専門家に任せるということも考えていかねばならないだろう。業務を多く任された棋士の成績が落ちるなどすると、ファンは不公平感すら感じる。将棋以外のことをやりたい人はやればいい、という考え方では確実に今後リソース不足になる。また、将棋以外のことを任される人がいる以上、将棋に専念する棋士はそれなりの成績が求められるだろう。しっかりと仕事分担をしたうえで、餅は餅屋に任せる、という方針がどこかで決定されるべきと考える。


 さらに「一般棋士2.0」で書いたことだが、プロ棋士になる方法もこの二年間ではほとんど見直されなかった。編入試験などのマイナーチェンジはあったが、基本的には子供のうちから東京か大阪に通わないと、プロ棋士になることはできない。このままだと、ひたすらインターネットなどで勉強して強くなったプロ棋士並の強さのアマがどんどん誕生するかもしれない。将棋ソフトだけではなく、アマチュアにもプロ棋士の特権である「強さ」が急速に脅かされていくのは、それほど低い確率の出来事だとは思わない。 強いのがプロなのか、それともアマに指導するのがプロなのか、はたまたプロの団体に所属するのがプロなのか。プロ棋士の定義自体が問われるようになるだろう。そのときはやはり一般の棋士こそが、プロ棋士とは何であるかを堂々と言えるべきである。


 今はおそらく、将棋界に最も大きな波が訪れている時だと思う。この波をいかに一般棋士2.1が乗りこなすかで、将棋界の今後、そして世間に置ける将棋の位置づけも変わってくるだろう。ブームは驚くほど速く去ることがあるし、気付いたときには外側の人たちばかりが儲けていた、ということもしばしばである。棋士が何を売るかが変わってしまったということは「一般棋士2.0」で述べたが、時代はさらに、世間における将棋のあり方を変えてしまった。一般棋士2.1にとって「何ができないか」「何をしないか」ということも今後は重要になっていく。また、「誰と関わらないか」も考える時が来るだろう。将棋がお金につながると思えば、さまざまな人が将棋界に関わろうとする。結果的に将棋界の評判を落とすような関係もあることだろう。


 ここまで書いてきて切実に思うのは、一般棋士2.1がどのようにあるべきかを考えるプロが必要ということである。その人が棋士内部から出るべきなのか、外部の有識者であるべきなのかはわからない。しかし今後予想される、またすでに起こっている激流を乗り切るためには、新しいタイプの問題に適応できる新しいタイプの専門家が必要ではないだろうか。


 一般棋士2.2や一般棋士3.0を書くことになるかはわからないが、変化は確実に訪れると考えている。プロ棋士の皆様の生み出す棋譜にはいつも感動を貰っているし、いつまでも団体が存続してほしいと私は願っている。



初出 2014年4月 note https://note.com/rakuha/n/n001bd54fa606

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