存在論的、将棋的
「もし将棋の神様がいたら」とは、将棋界においてよく聞く問いである。そして暗黙の了解として、将棋の神様は最も将棋が強い存在と想定されている。ここでは神様は「超越」と同義のように感じられる。将棋の強さを探求するうえでの極限的な存在、それが将棋の神様なのだ。
しかし私は、このイメージに違和感を覚える。確かにある人は強さを求めるために、その先に将棋の神様を見るだろう。しかし将棋の本質は強さだけで表わされるようなものではない。将棋はゲームであり、いかに楽しむかということが重要である。超越的な強さを持った神様は、挑むべき相手もおらずさびしがっていることだろう。結果として、強すぎるがために将棋を嫌いになるかもしれない。
さらに言えば強さに限ってみても、「将棋の強さとは何か」という問題がある。ある人が強いと言われるとき、その人が「誰に勝っているか」が重要である。そして勝った相手の評価もまた「誰に勝ったか」によって計られている。つまり強さとは常に相対的な評価に基づいてされるのであり、絶対的な強さを判断することは非常に難しいと想定される。例えば名人には全勝していても全体ではそれほど勝っていない人、勝率がすこぶる良くても、全くタイトルに届かない人は、どれほど強いと言えるのか。どのような結果をどのように評価するのか、という主観が「将棋の強さ」の判断に大きく影響するのである。
極論を言えば、絶対的な強さを誇る将棋の神様というものが実在するとしても、われわれがその強さを判断するだけの絶対的な方法を持たないならば、絶対的な強さそのものが存在しないも同然なのである。
私はここに、一つの仮定をして考察をしてみようと思う。将棋の神様が存在するとして、彼が将棋の神様であるためには将棋の本質を理解しているのではないか、と。その神が理解している将棋の本質とは何か、その一片でも私は覗いてみたいのである。
まずは、道具から考えてみたい。将棋とはまず、遊ぶためのツールであると考えられる。その意味では道具的特性を備えている。単に盤や駒という実際の道具のみならず、そのルールや慣習も遊ぶための道具として利用される。ハイデガーは"Sein und Zeit"(『存在と時間』)において、道具の例としてハンマーを挙げ以下のように語っている。
ハンマーで打つことは、単にハンマーの道具性格について一つの知識を持っているということのみでなく、この道具には打つことよりもっと適切なことはおよそ可能ではない、という性格が帰せられている。このような使用的交渉においては、配慮の働きはその時に応じて道具を構成している「のために」の下に属している。(S.69)
将棋を行うために用いられる盤や駒、駒台といった道具は、適切な使われ方をすることによって初めて目的を果たすことになる。どのように使えるのかを知っているかどうかではなく、実際にどのように使われるのか、が重要なのである。しかしここで言う「適切」とは何であろうか。将棋に関する道具は、将棋をするために作られていることは明白である。しかし「将棋をする」とは何か、どこまで具体的に考えられているだろうか。プロのタイトル戦に使われるのと、初めての人がルールから覚えるのに使うのとでは同じ将棋でも全く内容が違う。またこれらの道具を使ってはさみ将棋や将棋崩しをするのも「誤った使用方法」とは言えない。製作者が想定していない使われ方をしても、将棋の道具は「本来的には将棋をするために作られている」という共通理解のもとに、将棋の道具として存在し続ける。これらの道具が将棋からかけ離れた使われ方をした時――例えば盤が踏み台として使用されるようなとき――道具に帰せられた性格と道具とは乖離し、将棋の道具は将棋の道具としての存在性を失うと言える。
ただ将棋に関するツールが用意されるのみならず、それを用いる人間がいて将棋は実在することになる。そして将棋は二人で行うゲームであり、常に二人の関係性が問題となる。それは二人の過去の関係性だけでなく、対局を続ける中での関わり方、そして道具を介した関係、道具そのものに対する関係も将棋を形成する要素である。
また当然のことながら、将棋のルールも重要な関係性の一つである。将棋のルールは、ゲームに関する基本的なルールと、ゲームが行われる上での環境設定という二つのルールが存在する。一つ目のルールは駒の動かし方や勝負の決着の仕方、いくつかの反則といったものである。これらは基本的に不変だが、絶対不変というわけではない。例えば千日手の規定はプロにおいても何度か変わっている。また持将棋に関しては複数の決まりがあり、次に挙げる環境設定の方に含まれるとも考えられる。
二つ目の環境設定とは、その対局が行われる上での条件付けである。将棋の基本的なルールには、持ち時間や対局場所などの決まりはない。それらは対局によって変化する条件、いわば対局の環境である。例えばプロの対局であれば「持ち時間四時間、使い切ったら一手60秒未満。先手後手は記録係の振り駒によって決める。10時対局開始、12時から昼食休憩、18時から各一時間の夕食休憩。遅刻の場合持ち時間から遅刻した三倍の時間が引かれる」などである。友達同士でする場合はほとんどこれらの設定が無かったり、逆に「王手と言わなければいけない」などのプロではありえないローカルルールが存在することもあるだろう。これらのルールは、将棋の本質にかかわるわけではないが、将棋が行われている場では非常に重要な条件設定である。将棋そのものを考えれば、こちらのルールは可変的であり本質に影響しないと考えることもできるだろう。しかし実際に将棋が指される場では、一つ目のルールと同様にとても重要なものである。この環境設定があることにより、将棋はプロ競技として成り立ち、アマチュアも多くの人が楽しめ、またきちんと決着するゲームとして成立している、と言える。これらの環境設定が足りないために、なかなか次の手が指されずに対局が終わらない、待ったをされたがなし崩し的に許してしまう、持将棋模様だがどうしていいかわからないのでとりあえず引き分けにした、などの事態を経験した人も多いのではないか。
ここまで見てきただけでも、将棋の本質に関わりそうな事柄はいくつもあった。さらには近年コンピューター将棋の活躍により、将棋を指す主体の存在論的な在り方というのも考察の対象に入れざるを得なくなった。コンピューターは人間と同じようにルールを守るが、対局に関する意志というものがない。勝ちたいから指すのではなく、勝つことが目的であると設定されているから勝つための手を指すのである。その意味では将棋を指す主体そのものが道具になっている、とも言える。またコンピューターには人間に存在するいくつかの場における関係性が存在しない。昼食休憩の後に眠気が来ることもなければ、扇子の音に文句を言うこともない。部屋の照明にも、頭頂部に冷却材も、全く関係ない。ただ局面のみが、コンピューターを将棋へと駆り立てる。また対局するコンピューターとはいったい誰なのか、という存在論的問題もある。コンピューター将棋大会において、いくつものコンピューターをつなぐクラスタ構成のチームが登場している。また、合議制を使用したソフトもある。果たしてこれらは「一人の対局者」なのだろうか。それとも対局が一対一という人間的な見方が古いのであって、「一つのソフトから導かれる一つの手」というコンピューター独自の発想が誕生しただけなのだろうか。
もはや旧来の枠組みだけでは将棋をとらえることができないのかもしれない。そしてここまでの考察から浮かび上がってくるまっとうな一つの疑問がある。それは「そもそも将棋の本質などというものがあるのか」というものである。問いの中には、問い自体が間違っていることが多々ある。この場合、在ると前提して内容を検討しているものの、そもそもそれが無い、という可能性についても考えなければならないのである。
この世界に将棋が存在することは確かである。われわれはそれを知っているし、そのルールを説明することもできる。しかし将棋が何であるか、それは人によってとらえ方が大きく違うだろう。プロかアマチュアか、といった単純な違いもあるし、プロの中にも職業としてとらえている人、趣味だけど仕事だと考えている人、好きだったけれども嫌いになって、それでも仕事だからやるもの、などと認識に大きな違いがあるだろう。アマチュアにとってはもっと多種多様なとらえ方がありそうである。そのうちの誰かが本質に近く、誰かが遠い認識を持っている、などということが言えるだろうか。
むしろ逆ではないか。それらの人のとらえ方が、将棋の存在性を規定しているのではないか。それぞれの人にとっての将棋の在り方は、どれも嘘ではない。私とあなたの認識が異なるからと言って、どちらかが将棋でないものを行うわけではない。そしてそれぞれの認識と認識が影響し合い、将棋に関するいくつかの核となる認識を作り上げていく。将棋とは楽しいものである、美しいものである、恐ろしいものである。それらの認識は、楽しいものとしての将棋、美しいものとしての将棋、恐ろしいものとしての将棋を準備する。準備された認識をわれわれは再認識し、複数の認識から新たな認識を作り出す。
これらの認識は、将棋の本質に近付いたり離れたりするものではない。将棋とは様々な認識を生み出す根であり、それらを繋ぎ止める手である。将棋によって目覚めた感情が、その人を将棋へと向かわせる。その感情は時にその人を将棋から離れた場所へ向かわすかもしれない。将棋の手は長く伸び、時にはその感情を手放すこともあるだろう。しかしその手がつかむまた別の感情が、その人を将棋へと呼び戻すこともあろう。そこでその人は最初の感情を思い出し、新たに複合的な感情を創出することだろう。感情を中心に見れば、将棋はそれらを生み出すきっかけに過ぎない。しかしこれまで述べてきたように将棋には様々な事柄が関わっており、それらが栄養となって太い幹が育まれている。将棋の木は人によって見え方が違うだろうが、多くの人がその木を必要としていることにより「将棋の木である」という一点の認識は守られている。
私の当初の推論は、将棋とは要素の一つである、というものだった。将棋の本質がわれわれに触れるのではなく、将棋というレンズを通して世界の本質が見えてくるのではないか、と考えたのである。しかし考察していくうちに、もっと別のものであることが分かった。将棋はレンズの役割も果たすが、それ自体が変化するものである。多くの人を将棋へと導くと同時に、多くの人の影響でそれ自体が別のものへと変化する。使い方によっても触れ方によって全く違う影響を受けるし、見える姿も全く違う。
将棋とは何か。この答えに一番しっくりと来るのは「世界」である。ハイデガーの言うような本来的な世界とまではいかないが、私たちの世界とは別の在り方をする、一つの存在様式と考えるとわかりやすい。われわれは将棋という世界を様々な角度から覗くことができるし、その一部に触れることもできる。駒の動き方や勝負の付き方など、その世界の一部はすでに解析されている。しかしその世界がこちらの認識自体によって変化するため、全体像をとらえることは困難である。ある人はそれをとらえたいと目を凝らし、ある人は必要な部分だけを知りたいと耳を澄ます。またある人はその世界の歴史に興味を持ち、解析できる定点を探す。新たにコンピューターはこれまで触れられなかった将棋の世界に接触し、世界自体に大きなうねりを発生させている。
ここで、冒頭の言葉に立ち返ろう。「もし将棋の神様がいたら」私の用意した答えは、「それは別の世界そのものである」そこには極限的な強さを見ることもできるだろうが、それはこちら側の世界の住人がそのように見たいから、向こうの世界でもそれを準備しているように見せるのである。本質があるかないか、という問い自体がこちらの世界のルールに基づくものであり、あちらの世界ではその問い方自体が成立しないような世界かもしれない。ある人が追い求める神様の強さは、神様によって受け止められると同時に、神様によって遠くへと引き離される。その人が将棋を楽しもうとすればするほど、神様は答えを届かない距離に見せてくれる。ある人は将棋を指しさえしないが将棋に関わるもろもろを楽しんでいるとする。すると神様はもっと楽しめる可能性を示唆する。将棋の世界はそうして、人々を未知なる領域へと誘う。そしてこの不定形な世界の特徴は、確固とした軸があることによる安定感と、様々なとらえ方や接し方の可能性を許容することによる安心感が存在することである。この世界は遠くにある神聖なものではなく、その入り口は非常に身近にあり、身近なままでもその広大さを味わうことができる。
便宜的にこの世界を、将棋的世界と呼ぶことにしたい。この世界はわれわれの世界と別の在り方をしており、実在を前提としない、将棋的な法則によって成り立っている。この世界は我々の世界の至る所に入り口を持って触れ合っているが、多くの人にとっては感知することはまれなものである。将棋的世界は足を踏み入れた者には様々な姿を見せ、そうでないものには時折その表層を晒す。
この世界は深く広いため、全てを知り尽くすのは難しい。それでも深く関わろうとする人は、一つの要素について探求しようとする。その一つが「強さ」なのであろう。将棋的世界における「強さ」は、重要な要素であり、また普段はその姿をとらえやすい。勝負に勝った者は強く、負けた者は弱い。勝った者がなぜ勝ったのかを探れば、強さは見えてくる。しかしまだ表れていない、誰よりももっと強くあるための絶対的な「強さ」は、その存在すら疑わしいものであるため、探求は困難を極める。それは実在自体が怪しいだけでなく、不変であるかどうかも疑わしい。将棋的世界はわれわれの世界と密接にかかわっているため、相互に影響し合っている。われわれが将棋的世界の事実を知ったとしても、われわれの世界からの影響で将棋的世界そのものが変化して、その事実は過去のものとなる。われわれが探究すればするほど、される対象が失われるという事態が想定されるのである。
一つの例を挙げておこう。前述したように、千日手の規定は変化してきた。千日手は勝負を決めるうえで重要な要素であり、千日手の規定が変わることにより勝負の質そのものが変化すると考えられる。絶対的な強さがもし存在するとしても、規定が変わってしまえば絶対的な強さとは言えなくなる。もし必勝手順が理屈として存在するとしても、ルールが可変的であれば絶対的ではない。現状のルールにおける必勝手順が見つかってもルールが可変的であるという事実がある限り、将棋の必勝手順は原理的に存在しないのである。われわれの世界と将棋的世界が独立していないために、影響の連鎖は断ち切ることができない。実際には環境設定もルールとして存在するため、対局ごとに最も勝てる条件は異なる。「もし正しい手順を全て記憶できて、体力も無尽蔵で、何事にも影響を受けない強靭な精神力があれば」という条件は、実現不可能であるため想定しても仕方がない。それらは将棋を成立させる世界構造の外側にある、空虚な条件である。
強さを求める人は空虚な条件にいかに近付くかを考えているように見える。必勝手順などではなく、環境設定にも負けない記憶力、体力、精神力を欲しているはずである。絶対的なものを想定してでもできるだけの相対的な強さを追い求める、それもまた将棋における楽しみの一つとなるのである。
あくまで世界とは比喩であり、将棋が何たるかをこの言葉によって正確に把捉したとは考えられない。しかしわれわれの将棋に対する接し方から導き出せば、この表現が最も適切ではなかろうか。本稿を読んでいる方は、この世界の魅力に多少なりとも触れた人であると思う。将棋的世界に触れながら、将棋的世界を育んでいく、そのことをこれからもっと多くの人が楽しんでいければ、この言葉を本稿の締めとしたい。
参照文献
Heidegger, M. (1926), Sein und Zeit. Achtzehnte Auflage.
初出 2011年11月 『駒.zone vol.3』
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