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 カンカンカン……。金属音がストーブで鳴っている。赤黒い炎を眺めていると、遠い記憶が甦ってきた。

 あのときは引き戸だったが、ドアは隙間が開いたままになっていた。

 小学三年生の二学期も半ばを過ぎた頃のことだった。登校中、雑草も枯れ始めた空き地のちょっと入ったあたりに置かれたダンボールから仔猫の鳴き声がしていた。いそいそと近づいていき、そっとフラップに手をかけて持ち上げて中を覗いてみると、生まれてひと月も経っていないようなサビ柄の仔猫が一匹だけ、ちょこんと座ってこちらを見上げ、一心不乱に鳴いていた。

 初めて見る赤ちゃん猫に僕は大興奮した。歓喜の声は上げなかったはずだ。たぶん一人だったのと、どこかしらやましさのようなものを感じていたのだろう。それが何に対してだったのか、今となっては思い出せないが、おそらくは家族に対する遠慮だったのだろう。当時の僕に宝物があったのかどうかも思い出せないが、仮にあったとしても間違いなくどんな物よりも貴重だったはずだ。

 仔猫を抱き上げると、嬉しさが溢れてきて、その場にじっとしていられないほどに体中がむずむずした。乳臭いような香ばしいような匂いに鼻をくすぐられたのを覚えている。

 すでに家に連れて帰って飼うという選択肢以外そのときの僕には存在していなかった。だけどもう家に戻っている時間はない。しょうがないのでいったん学校に連れて行くことにした。ずるをして教科書は教室の机の中に置きっぱなしにしていて、ランドセルの中がほとんど空だったたことが幸いした。

 背中で、ミャア、ミャアと声の続く限り鳴くであろうと思われる仔猫に次第、不安に駆られていった。下校するまでばれないようにするにはどうしたらいいか、いっそクラスのみんなに協力してもらったらどうだろうか、でも絶対に知られたくない嫌な奴がクラスにはいた。

 途中あれこれ考えながら歩いていたら頭がこんがらがり、校門をくぐる頃には、何の根拠もなかったが、何もかもすべてうまくいくだろうという気になっていた。ようやく鳴き疲れたのか、仔猫は静かになっていた。給食の牛乳をあげることを考えるとそれだけでわくわくした。

 下駄箱まで行ったところで、不意にまた仔猫が鳴き始めた。うまくいくはずなどなかった。いまにも鳴き声を聞きつけた誰か奥から駆けて来そうでこわくなり、僕は玄関を飛び出していた。

 仔猫を隠しておける場所はないかと校舎の裏手に向かっていると、大人のひとから声をかけられた。

 面識はなかったはずだが、用務員のおじさんだとすぐにわかった。痩せた浅黒い顔にはどこかいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。

 おじさんは、僕に手招きをして用務員室の引き戸を開けて中に入っていった。校舎と続きになっている建物の一つ目の部屋がそうだった。期待と不安がごっちゃになりながら、おじさんの後に続いた。ランドセルを背中から胸に抱え直したのは、仔猫を守りたい一心からだったように思う。

 入ってすぐの土間のところに冷蔵庫や流し台があり、奥は小上がりの和室になっていた。

 入り口の引き戸は開けたままにされていた。今にして思えばあれは小児性犯罪を疑われない為の配慮だったのかもしれない。

「ここだったらあったかいし、だいじょうぶだ」

 土間ではストーブが焚かれていて、朝の冷たい空気と入り混じり、まだ布団の中にいるような心地よさが甦ってきた。

 大人にしては小柄だった用務員のおじさんが、ランプの魔人か何かのようにたくましく思えた。

 しかしひとつ気がかりだったのは、おじさんに仔猫を取られてしまいやしないかということだった。授業にも集中できず、放課後になったら来なさいというおじさんとの約束を守り、昼休み、用務員室に行きたいのを我慢して普段通り過ごしたが、頭の中から仔猫のことが離れることはなかった。

 ようやく放課後になり、いつもは真っ先に教室を出るのに、その日は初めて最後に教室を出た。案外教室にぐすぐすと残っている児童がいるものだとこのとき思った。その間、ランドセルに教科書や文房具を意味もなく何度も出し入れしたり、ホームルームで配られたプリントを読むふりをして時間を稼いだ。

 ようやくみんながいなくなってから用務員室に行くと、おじさんは待ってましたとばかりにくしゃくしゃの笑顔で迎えてくれた。

 目顔で教えられたみかんのダンボール箱の中を覗くと、眠っていた仔猫が、きょとんとした顔で僕を見上げてきた。それからすぐ不安げな顔になり、ミャア、ミャア、と全身全霊で鳴き始めた。

 困惑もあって思わずおじさんのほうを振り仰ぐと、「大事に飼ってやりなよ」と、少しどきっとする笑顔で言われた。

 それから三年ほどそのコと一緒に暮らした。最初の頃、家族は飼うことに否定的だったが、数ヶ月が経つとそのコはすっかり家族の一員になっていた。心残りといえば、おじさんとの約束をしっかり果たせなかったことだ。

 可愛がることと、大事に飼うということは性質を異にする。外飼いで日々パトロールに勤しんでいた彼は彼なりの人生を謳歌してくれたと思いはするのだが。

 感染症を患い、最終的に腹膜炎を発症して亡くなったそのミロという雄猫が、僕が最初に飼った猫だ。

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