第2章 ルーズサイト
1
スーパーの入り口のガラスドアの横に貼られている迷い猫の張り紙が目に留まった。
以前だったら立ち止まることなく通り過ぎていただろう。
哀しみとは、繭を作るような作業なのかもしれないと、ふと思った。
ドラが亡くなったのが金曜の夜じゃなく、翌日が出勤日だったら、僕は会社を休んでいただろうか。人間だったら、家族が死んだら忌引きというものがある。猫だって家族以外の何ものでもないのに。
仕事などできる状態じゃないのに出勤し、周囲に迷惑をかけることになっていたのは目にみえていた。
深夜、膝の上で硬直して冷たくなるまでドラを撫で続けた。朝になるのを待ってドラをペットの火葬場に連れて行った。
一時間半ほどして小さな骨壺に納まったドラとともにそこを後にした。いったん部屋に戻って遺骨をサイドテーブルに安置し、それから買い物に出かけて酒をしこたま買い込んでまた戻った。その途中、車の中で絶叫し、慟哭した。
家に帰るとすぐ飲み始め、酔いつぶれて気がつけば日曜の夜になっていた。記憶がなくなるまで酒を飲んだのは初めてのことだった。
部屋の中には、ウォッカの空き瓶が転がり、そしてビールの空き缶が散乱していた。ドラがもういないことを認識し、胸がつぶれそうになり、そしてまた嗚咽した。
思い切り泣くだけ泣いてしまったほうが心が軽くなると、どこかで見たか聞いたかした記憶があった。でも涙が枯れるということは、心が死んでしまったということじゃないのか。そう思えるほどに、どれだけでも泣けた。
月曜日、出社すると、世界が変わっていた。仕事に意味を感じなくなっていた。自分が置かれている状況のすべてに価値を見出せなくなっていた。
生きることの意味を考えようとして、考えるまでもなく腑抜けた。それほどまでに自分にとってドラの存在は大きかったのかと驚きこそすれ、大げさだとか、自分を情けないだとかは思わなかった。実際、飼っているペットが死んでも、たかがペットと割り切れる人もいれば、人間の家族が死んだ以上の哀しみに暮れるひともいる。相手が人間だろうとペットだろうと家族に対する距離感は人それぞれ違いがある。
身近すぎる死。それは圧倒的威力でもってそれまでの僕の価値観を粉々に破壊した。人も動物も関係ない。愛する者の死は、世界を一変させてしまう。
これまで僕にとって、死は遠いものだった。せいぜい父方の祖父の葬式に出たことくらいしかなかった。外孫というやつだったから、可愛がってもらった記憶もない。当然、涙も流さなかった。
僕がこれまでやってきた仕事に一体どんな意味があるのだろう。僕が作ってきた商業デザインは、ロゴマーク、商品のパッケージ、ポスターやフライヤー、ウェブサイトなど、多くの人の目に触れる。たとえそれらが何かの賞を受賞しても、実際、人々の反応を実感するまでには至らない。
ロゴマークにしても、その重要性かつもたらす効果というものをこれまでさんざクライアントに説いてきた。そうした使い古されたビジネストークにしても金輪際もうできなくなるのだという自覚があった。
世界は何で成り立っているのか。欲望か、はたまた愛なのか、何にせよ僕はその世界の異邦人以外の何者でもないのだった。
ドラの死を境に、ドラがいる世界といない世界、僕にとっての世界はそんなふうに二分されたのだ。
それでいて、哀しみや喪失感というものが、自分の心で作り出されたものじゃなく、天から降ってきたもののようにも感じられたりしていた。たとえば絵本の世界のように、哀しみが傘となって天からふわふわと降ってきて、その一本をつかみ取る。傘の中はずっと雨が降っている。中には哀しみを凌げる傘もあるのに、それをつかみ取ろうとはしない。そんな奇妙な感覚だった。
すっかり色が抜け落ちてしまったような景色の中で、迷い猫の張り紙だけがどこか異彩を放っていた。でも最初はその前に立って眺めていることしかできなかった。そのスーパーを後にしてから。張り紙のことがどうしても頭から離れなくて引き返した。それから、張り紙に記されていた携帯電話の番号をとりあえず自分のスマホに入力した。
スーパーは、猫が行方不明になったとされる場所からは五キロ以上離れていた。犬と違って猫の行動範囲は狭い。せいぜい一、二キロ程度だろう。飼い主の必死の思いと共に猫に対する不識が伝わってきた。
張り紙の画像を頼りに捜し回るのは賢明ではない。猫はそう簡単に人前に姿を現さないから、余程の外見的特徴がない限り、個体の特定は困難だ。
行方不明になった何かきっかけはあったのか。猫の性格、自宅の詳細、好物など聞きたいことは色々あった。
しかしなかなか決心がつかず、電話をかけたのは、翌日の午前中のことだった。
電話に出たのは、年配の女性だった。声の感じからすると六十くらいだろうか。捜索の協力を申し出ると、女性は声を詰まらせた。
警戒されるのも当然かと思っていると、一昨日、死んでいる猫を自宅から少し離れた道路で発見したのだという。車に轢かれたとのことだった。
それが呼び水となって心に哀しみが溢れ返った。麻痺しかけていた心が、強烈な痛みを伴って覚醒した。
「すみません、もっと早く気づいていればお力になれたかも……。ご冥福をお祈りします」
「ありがとうございます。そんなふうにおっしゃっていただいて。さいごにあなたのような方に見送っていただけるなんて幸せな猫ですね」
電話を切った後で思った。哀しみの最中、見ず知らずの自分が電話をして余計な気を使わせてしまった。心苦しさが鉛となって胸に沈んでいた。
猫を飼っていても、意外と猫の生態までは把握していない人が多い。知ってさえいれば、悲しい別れが訪れることもなかったのかもしれないのにと考えると、鉛が胸の底を突き破りそうになった。
いったいどれくらいの猫が行方不明になり、その帰りを待っている飼い主がいるのだろう。ふとそんな疑問が湧き、ネットを見て回った。
SNSを筆頭に、犬猫の迷子専門のサイト、動物愛護センター保護情報など多岐にわたって情報が求められ、また提供されていた。
センターの保護情報提供のほとんどは犬だったが、SNSや専門のサイトには、たずね猫や一時保護の掲載がなりの数、上っていた。
行方不明になった場所と猫の特徴、それに写真の掲載だけでは、猫の捜索は絶望的だ。
特に逃げ出して迷子になっている場合、警戒心は普段にも増して強まり、人前に姿を現すことなどまずもってないといえるだろう。
犬と違い、猫は目立たない術を心得ている。人の目に留まるとしても一瞬で、手配画像をもとに捜し当てるなど至難の業だ。猫が潜んでいそうな物陰へと近づいて行こうにも、猫は先手を打って素早く別の物陰へ身を隠してしまう。
塀の上でのんびりとひなたぼっこしている姿を見かけるのは、人懐こい外飼いの猫か、かわいがられている地域猫のどちらかだ。
閲覧していくにつけ、身につまされていく一方だった。突然、愛猫が自分の前からいなくなるという現実。それは、悪夢と絶望の競演だ。
力になりたい。
実際なれるという気がした。やろうとしていることは、デザイナー同様、資格は必要ない。そう名乗るだけの経験も実績もありはしないが、思いと覚悟があれば。猫のコーディネーターとしてやっていけるのではないかという、確信めいたものがこのとき生まれた。
たとえ迷い猫の捜索に全精力を傾け、多くの時間を費やしたとしても、見つけ出して連れ帰ることができるかどうかは甚だ疑問だ。それほどに猫の捕獲は現実的に困難だ。しかしここで行動に移さなければ、自分はこの先ずっと言い訳と弱音を吐きながら生きていきそうに思えた。
単なるの自己満足なのかもしれない。何かに夢中になっていると、ドラのことを考えずに済むというのもあった。心の中に避難場所を作りたかったのかもしれない。
愛猫と離ればなれになった飼い主の叫び。そして飼い主を見失い、不安なときを過ごしている猫の叫び。そういったものを聞く思いで閲覧を続けていると、都内でマンションの一室から飼い猫が逃げ出してしまったというSNSの投稿に出くわした。
油断した隙に玄関のペットゲートの隙間から逃げ出してしまったそうだ。さんざ近所を捜索して回ったものの手掛かりすら得られず、かれこれもう三日目になるということで、飼い主もだいぶ参っている様子がその投稿からひしひしと伝わってきていた。
ただその内容は、閲覧者に捜索の協力を申し出るものではなかった。では閲覧者の知恵を拝借したいのかというと、それとも違う。不安や愚痴を文字にして吐き出すことで少しでも心を軽くしたいのか、捜索の事後報告とどうにもならない感情の捌け口となっていた。
猫が見つかることを祈ってますといった類の返信はいくつか見受けられたが、そうした慰めや祈りが、どれほど彼女の気休めになっているのか、龍也としては甚だ疑問だった。自分が同じ立場だったら、そうした言葉を求めたりはしないだろう。
〝彼女〟 というのは、投稿内容から判断したものだが、そうなると少々厄介だ。女性となれば、SNS経由で協力を申し出ても警戒されるのは目に見えている。
それはさておき、彼女は知らないようだった。
たとえば長期間、完全室内飼いで人見知りの猫が逃げ出した場合、外で飼い主と出合っても、猫は極度の緊張から飼い主を飼い主として識別することができない。目が合ったと思って猫の名を呼んで近づこうものなら、猫はまさしく脱兎のごとく逃げ出してしまうだろう。好物の餌に釣られて寄ってきたところを無事捕獲なんていうケースはむしろ稀なのだ。
猫との再会を果たす為に彼女に伝えなくてはならない秘訣、それを抱えているだけで、悶々としてもうたまらなくなった。
詳細は伏せられていたが、住んでいるマンションが大田区にあるということは投稿内容からわかっていた。
事態の進展を彼女の投稿は刻々と告げていた。ペット探偵への依頼を考えているという投稿から始まって、いくつか業者を当たって、実際に説明を受けてみてどうやら納得のいく業者が見つかり、現在、依頼するかどうか検討段階に入っているようだった。
ペット探偵がやることといえば相場は決まっている。猫が通りそうな場所に、粘着テープを利用した体毛の採取器を仕掛けて捜索対象の猫が周辺にいるかどうかを確認し、その場所に捕獲機を仕掛けるといったようなことだ。
これはまだ良心的なほうで、中にはろくろく捜索もせず、ポスターを貼ったり、ビラを配りながら気休め程度に聞き込みをしたりするだけで、まったく効果が期待できない手法で稼いだ時間報酬を請求するやらずぼったくりの業者もいる。
犬猫の捜索の場合、ビラやポスターを見た人からの目撃情報ほど当てにならないものはない。大抵の場合、通報者の頭には、ポスター等で見た迷子の二文字だけが強く刻まれ、たまたま見かけた似ても似つかぬ犬猫をその対象だと思い込んでしまうのだ。
仮にそれが正確な情報だったにしろ、飼い主が駆けつけたときには時すでに遅し、その場所からいなくなっているというケースがほとんどだ。
見過ごすことはできなかった。迷子専門のサイトにも掲載されていたので、そちらに記されていたアドレスにメールを送った。SNSだとやりとりが公になるので、相手方の見栄や世間体といったものに邪魔されないようメールを選んだ。送った内容は、ペット探偵の提案に対する評価と経験に基づいた独自の方策だった。
最初、ありきたりの謝意を伝える返事が届いた。警戒されるのは当然だ。親切心と下心は紙一重。相手の顔がが見えないネットの世界では用心するに越したことはない。
仕方のないことだと諦めようと思うのだけれど、どうしても気持ちにおさまりをつけることができなかった。
これまでに彼女も、ペット探偵がやるような大掛かりなものではないにしろ、手製のビラを配るなど、彼女なりに付近の捜索は行ってきている。
ただ時間帯にしても、人の行き来がある時間帯だと猫は物陰で身を潜めているので、効果を上げたければ自ずと捜索は猫が活動する深夜になってしまう。そんな時間に住宅街をうろつけば不審者扱いされてしまうし、猫の影を追って敷地に足を踏み入れたりしたら不法侵入で警察に通報されかねない。
飼い主自身の問題もある。生活に差し支えるし、仕事を持っていればなおさらで、捜索するにも限界がある。ほとんど運頼みにならざるを得ない。かといって夜間の捜索をペット探偵に頼むとなると、高額な割り増し料金が発生してしまう。
仮にそこまでやったとしても、手がかりのひとつも得られればいいほうで、腕利きのペット探偵でもなければ、何ら収穫もないまま、二日、三日、四日といたずらに報酬だけが発生し続けていくなんてこともザラだ。
悶々としていたところ、翌日、協力をお願いしたいという旨のメールが届いていた。どういう心境の変化があったのかはわからないが、願ってもないことに、龍也の気持ちは高揚した。
住所と電話番号をメールで送ってもらった後、電話で彼女と打ち合わせを済ませ、すぐ龍也は現地へと向かった。
あたりにはすっかり夜の粒子が降り積もっていた。車で小一時間ほどかかった。武蔵野市の郊外にある七階建てのマンション。築年数は古めで、オートロック式ではない。ファミリータイプよりも狭い、DINKS向けといったところだろうか。
エレベーターじゃなく階段を使った。踊り場の蛍光灯が、カン、カン、と音を発しながら明滅していた。脱走した際、猫は、音に驚いて一瞬足を止めたりしただろうか。そんなことを考えながら、二階まで上った。
奥から三つ目、真ん中付近の部屋だった。チャイムを鳴らして少し待つと、ドアスコープから漏れる室内の明りを影が遮った。ためらっているのか、もどかしい時間が流れた。一人暮らしということか。いざ相手を前にして気が変わったとしても仕方がないと思った。
ドア越しに声をかけようかどうしようか迷っていたところに、掛け金が外れる音がしてゆっくりとドアが開き始め、慌てて脇へと立ち位置をずらした。
声の感じよりも落ち着いた雰囲気で物腰が柔らかそうな印象の女性と目が合った。会釈をすると、向こうはほとんど目配せのような会釈を返してきた。
第一段階はクリアできたようだが、働きかけたのはこっちのほうだし、ちょっとした齟齬でも生じたら依頼はふいになりかねない。自ずと緊張してしまう。
相手が異性というのも不安材料でしかない。出会いなんて意識していない……はずだった。でもいざ会ってしまうとやはり意識せずにはいられない。そんな自分が嫌になったが、こればっかりは自分ではどうしようもない。はっきり言ってタイプだった。どちらかというと惚れっぽい性格だ。それは自覚している。今後、猫ディネーターとしての活動を続けていくうえでそれは障害となりはしないか、我がことながら不安が過ぎってしまう。
電話の声には胸をくすぐられるような心地よさがあったから、期待とそれを否定したい気持ちとがせめぎ合って複雑な心境だったが、ツイッターの投稿を見る限りにおいては小難しいタイプで、それがブレーキとなり、まだ救われていた。
しかし、すっぴんのメガネ女子には妙に弱いところがある。メガネに隠された目鼻立ちが興味をそそればなおさらである。昨今人気が高まっている癒され系タイプ。カットソーにチノパンという格好も好みで、欲望と理性の戦いはますます熾烈を極めていきそうな趣きだった。
自分の愚かしさについ苦笑してしまいそうになり、慌てて真顔をを作った。あぶなかった。にやついたりしたら、本当に依頼がふいになっていたかもしれない。
そんなことを想ってまた苦笑しかける。セルフマゾの気があるのだろうか。
「野原龍也です。初めまして」
しかつめらしい顔つきで先ほどより深めの会釈をした。ドアの端に手をかけて支えると、彼女は、ドアノブから手を放し、土間から玄関へと引っ込んだ。
「何か進展はありましたか」
悄然とうつむいた彼女の背後で、ペットゲートの扉が物悲しげに開いている。
「あの、メールで教えていただいた、その秘訣なんですけど、まだ……」
「ええ、当然です。女性の一人暮らしですよね? ドアや窓を開けっ放しにしておくというのはやはり不用心です」
一人暮らしかどうか、これまでのやりとりでは定かではなかったが、投稿内容から目星はついていた。確認したことを警戒されるかと思ったが、特に問題はなかったようだ。
「あ、どうぞ」
言われるまま、土間に進み入り、後ろ手にドアを閉めた。
ともかく猫が自ら戻って来るのを待つのが得策だ。とはいえ、言うほどそれは簡単なことじゃない。昼夜を問わずドアを開けっ放しになどできないし、猫が戻って来ている途中で隣人が玄関のドアを開けたりしたら、また逃げ出して身を隠してしまう。最初にメールで伝えたのは、脱走猫が自力で帰ってくる可能性は意外と高く、その為の対応をして欲しいということだった。
「あの方法を試してみようと思うんですけど、実際にやるとなったら……」
抱えている事情や気持ちの部分で独力ではできないこともある。その手伝いをするのも猫ディネーターとしての活動の一環だ。
「はい、その為にやってまいりましたので。こうして玄関先で立話をしている場合でもありません。すでに何度かドアの前まで戻って来ている可能性もあります。たとえばあなたが夜、捜索に出かけている間とかにも。でもドアが閉まっていたら、ひとつ所に留まっていられないのが猫です。ドアの前でじっと開くのを待っていたり、鳴いて帰宅を知らせたりというのは、外飼いの猫でなければまずないでしょう」
「ペット探偵の人からそんなことは言われませんでした」
「そうですか。それだと商売にならないですからね。ああ、いや、決して、業者を批判しているわけではありません。ペット探偵が見つけてくれるケースも実際にありますし」
「でも実際にやるとなると……ずっとドアを開けて帰ってくるのを待っているわけにもいかなくて……」
とりわけ受動的な方法は、結果に結びつきにくいと考えるのが普通だろう。
言葉はときに思いもよらない悪い結果を招いてしまうことがある。不用意かどうかは抜きにして、何が相手の感情を害するかなんてわからない。それだけじゃなしに、自分自身をも拘束し、裏切り、失望させてしまうことだってある。
初対面の猫同士が鼻先でキャットスキャンをするようにはいかない。まず人間にはパーソナルスペースと呼ばれるものがある。なかでも社会距離といわれるゾーンは百二十センチほどだとされている。玄関での立ち話しだと落ち着かない距離感になってしまう。
所在無げに身動ぎし、部屋の奥に無造作に視線を投げかけると、彼女が、あっ、と、何かに気づいた様子で居住まいを正した。
「すみません。ちゃんと挨拶もしないで。遠いところからわざわざ来ていただいたのに。あの、お茶を淹れますのでどうぞ」
言うが早いか、彼女は、開いたままのペットゲートを抜けて奥へと引っ込んでいった。
独り暮らしの女性の部屋に上がることにはやはり抵抗を感じてしまう。曲がりなりにも依頼者相手にそうした意識を持つこと自体が間違っている。そう自分を戒める間もあればこそ、気分を一新というわけにもなかなかいかなかった。
人間として、男としての愚かしさを実感させられるのはこんなときだ。欲望に関しては、一年中発情している人間より、発情期のある動物のほうがよほど道義的に思える。
一人暮らしの女性が安心して暮らせる社会こそが、真に人間らしい社会、ヒトが人として進化を果たした社会と言えるのかもしれない。
「ご遠慮なく。どうぞ」
キッチンに立った彼女が、上体をのけ反らせ、玄関に立ったままの龍也を見た。
「ああ、はい、おじゃまします」
二つ返事で靴を脱いで玄関に上がりはしたものの、その場から動けず、扉の開いたペットサークルに視線を落としていた。
ふと、隅のほうに黒いゴムのドアストッパーがあるのに気づいた。
「えっと、あの、さっそくですけど、ドアを開けた状態にさせていただきますね」
返事も待たずに、また土間に下り、猫が充分に通り抜けられるだけの隙間を開けてドアストッパーをかませた。
振り返ると、キッチンからフロアの中央に出てきていた彼女が、開いたままのドアの隙間に視線を注いでいだ。
何かを言いかけたようだった。溜息を吐こうとしたのかもしれない。顔をうつむけると、彼女はシステムキッチンへと戻っていった。
猫さながらに足音を立てないよう忍び足でペットゲートをくぐり、フロアに進み入ると、小さく床が鳴った。
振り返った彼女と目が合い、一瞬びっくりしたように彼女が動きを止めた。
「どうぞ、おかけください」
引き気味に彼女が言う。こういう場合は音を出した方がいいのだと反省した。
北欧スタイルの横長のダイニングテーブルには椅子が二脚、はす向かいにセッティングされている。
システムキッチンから遠いほうの席へとと龍也は着いた。
それとなく奥へと続く閉じられた室内ドアに目を向けた。もう二部屋ほどありそうだ。一人暮らしにしては広すぎる。
あらためて部屋の中を眺めると、ダイニングの雰囲気にはカフェっぽいところがあり、インテリアやグッズにもこだわりが感じられた。
「紅茶でよろしかったですか」
「はい」
ガラスのティーポットと一人分のカップが載せられたトレイがテーブルに置かれた。りんごみたいな香りはカモミールだろう。
カップに紅茶が注がれ、龍也に差し出された。彼女が席に着く様子はなく、左手で右肘を支え、その右手の甲に顎を載せ、立ったまま玄関のドアの隙間に目を凝らしている。
「チィちゃん……」
見も世もないほど動揺していた彼女の様子はSNSから伝わってきていた。写真で見る限り、ラグドールにしては小柄な猫は、ふわふわと空中浮遊できそうなほど軽やかだった。その華奢な感じに、彼女が心配するのも無理はないと思った。
こうしている間にも感染症に罹患する危険はある。最も怖いのは交通事故だ。何かに驚いたり、敵から逃げたりして道路に飛び出すだけじゃなく、外灯の下で道路に落ちた虫に夢中になっていて轢かれるケースもあって、夜間は特に危険だ。
龍也自身、運転中、何度もライトの中を横切る猫の姿を目にしたことがある。猫がいそうな夜道ではスピードを出さないように気をつけて走っているが、注意散漫だったり、無謀運転のドライバー相手だったらと思ってぞっとするのも度々だった。
わかっているから言葉を選ばざるを得ない。反故にした言葉たちが胸の中で刺立ち、龍也を苦しめた。
その程度のことで打ち負かされてなるものか。自らを奮い立たせる。だができるのは、ことさら昂然と顎を持ち上げることくらいだった。
ドアの隙間を見つめている彼女の横顔に胸が痛む。ぴんと張りつめた自分の神経の上を綱渡りをしているかのような彼女に、かける言葉は見つからない。不用意な言葉をかければ、そこから落ちてしまいそうでこわかった。
いま一度自分に与えられた役目について考えてみる。
そうこれは義務とは違う。正式な請負契約は発生していない。メールで彼女から料金を訊ねられ、営業目的ではないし、仮にうまくいったら成功報酬ということで構わないということだけを伝え、具体的な金額についても提示していない。
そもそもが金の為に始めたわけじゃない。これは使命だ。いや、そう信じたいだけなのか。信じることで救われたいのか……。
「今頃はまだどこかの物陰に身を潜めている可能性が高いです。気を落とさないでください。空腹になればなるほど戻って来る可能性は高くなります。本番はこれからです」
「でもほんとにこんな……待っているだけで、その……」
「闇雲に捜して回っても効果は上がりませんし、疲れるだけです。外で飼い主と遭遇したとしても、猫は飼い主だと認識できません。見つけても、不用意に近づけば猫は驚いて逃げ出し、余計に遠ざけてしまうことにもなりかねません」
「でも、ちょっと信じられません。外で私を見てもわからないなんて……」
訝し気に目を細める彼女をよそに、龍也は、ハーブティーを一口飲んだ。
ひとつ気になっていることがあった。
とりあえずはペット探偵じゃなく、自分を選んでくれた訳だが、信頼されてのことではどうもないらしい。それは構わないのだが、そのことがちょっとひっかかっている。
SNSでは、業者の批評と選別をし、依頼すべきかどうか、彼女なりの見解が示されていて、少々手厳しいなと感じつつ、龍也はダメ元でコンタクトを取ったのだった。それというのも、ドラの喪失体験があればこそのことだ。
これまでの彼女の言動を推測すると、どうやら彼女の根底には人間不信があるのではないかという気がしていた。
おせっかいの虫が、胸の隅でむずむずと動き出していた。
飼い猫がいなくなった動揺のあまり、藁をも縋る思いでペット探偵に飛びつくというのはありがちなことだ。当然、予算の問題もあって望ましい形での捜索依頼はできず、結果も出せないということになる。頼んでしまってから後悔するというケースも多い。その点、彼女は冷静だったと言えるだろう。睡眠不足で体調を崩すほど捜索を行っていたというのも、緊急事態の中にあっても冷静さを保っていたからだ。
こちらとしては、コーディネーターとしての実績作りになるのであれば手弁当でも構わないという気持ちもある。ただ、ナンパ目的と誤解されないよう、成功報酬はしっかりと頂戴させて頂きたい。
「奥は二部屋ですか?」
「ええ、そうですけど」と、うさんくさ気に彼女が身を固くする。
「チィちゃんも自由に出入りできますか?」
「……寝室はそうですけど」
「でしたら、室内ドアも開けておきましょうか。戻ってきたとき、逃げ込む場所があったほうがいいですから。猫を驚かすような真似はしないつもりですけど、なにぶん僕はチィちゃんとは初対面ですからね。せっかく戻って来てまた逃げ出すといったことがないように」
「ほんとにだいじょうぶなんでしょうか……」
はす向かいの席に彼女が腰を落ち着けた。
「何を優先し、何を妥協するか、やむを得ない部分もあります。とにかく戻って来たときは慌てずに慎重な対応を心がけてください」
うつろに彼女は頷いた。
「長期戦になるかもしれません。あなたは眠たくなったらお休みになってもかまいません」
「え……」
少し驚いた様子で彼女が言葉を漏らした。
「あっ、そうですよね。初対面の男が一緒にいたら眠るどころじゃありませんね」
「いえ……」
そう応えた彼女だったが、冷たい目元をしていた。
「あの、なんでしたら、外を捜索してきていただいても結構ですよ。その間、僕がここで番をしていますから」
意地悪な気持ちがあった。彼女の反応を見極めたいという。
彼女がすうっとは胸を膨らませた。どんな言葉が飛び出してくるかと期待したが、結局、彼女が吐き出したのは息だけだった。
「やめておきますか?」
「少し考えさせてください」
彼女の視線は室内ドアのほうに向けられていた。
いまチィちゃんが戻ってきたら、不穏なムードに戸惑いを覚えるかもしれない。
玄関ドアの隙間に視線を注いでいると、瞬きだけじゃなく、息をするのも忘れてしまう。喘ぎ、そっと深呼吸をし、深く瞼を閉じる。
ちらと彼女に視線をやると、彼女も思い出したように息を継いでいた。
カツ、カツ、カツ、カツ……
コンクリートの廊下を打つ靴音が近づいて来る。
隣の部屋で止まったようだ。少しして、ドアの錠が回る金属音が聞こえてきた。微妙な間には、開いたままになっている隣の部屋のドアを気にしている様子が窺える。
「ドアに張り紙を貼っておきますか。猫待ち中とでも書いて」
弾みをつけて立ち上がった彼女は、室内ドアを抜けて奥へと消えていった。すぐに、A4用紙、黒マジック、セロテープを持って戻ってくる。
きゅっ、きゅっ、という小気味のいい音と共に、用紙の中央に少し右下がりの角ばった文字が並んでいく。全体的なバランスでいうと文字は小さめで、繊細で神経質な印象を受けた。
セロテープをひと千切りした彼女は、それを紙の上部、中央につけた。
「四隅にしっかり貼りましょう。風が吹いて紙が暴れてチィちゃんがびっくりして逃げたら困りますので」
一瞬、動きを止めた彼女だったが、うんうんと頷くと言われた通りのことをやった。
勘違いかもしれないが、勇んで玄関に向かっていく彼女の瞳の奥に宿っていたのは信頼の芽だったような気がした。
貼り終えて戻ってきた彼女が、くしゅっとかわいらしいくしゃみをした。
暦は五月でも、肌寒いのを通り越し、冷え込みがきつかった。
仕舞おうとしていたところだったのだろうか、ダイニングの隅に追いやられている石油ストーブの前に立ち、ぽつり、「つけましょうか」と彼女が言った。
「はい」
彼女の後姿に向けて言うと、椅子の下で冷え切っていた脛とふくらはぎを龍也は重ね合わせた。
ドアの隙間から流れ出る暖まった部屋の空気の匂いがチィちゃんに届くことを祈ろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます