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 準備が一段落つくと、遠峯と二人、待ち合わせに指定した場所まで移動した。

 相談の結果、電話をするよりも、LINEでこちらの意志だけを伝えたほうがいいだろうということになった。

 会って話がしたい旨、それに待っている場所と時間。相手の負担にならないよう、十九時から二十時の一時間だけ待つというふうに伝えてある。場所は、彼女が暮らす実家近くの公園だった。

 遠峯が送ったメッセージは既読となったが、彼女からの返信はいまのところまだない。都合がつかないのであれば何かしら断りの返事が入るはずだ。待つほうに賭けてみることにした。

 昼間は半袖でもいいくらいだったが、日が落ちると急に冷え込んできた。

「食べてくれていますかねえ」

 パーカーにベージュのジャケットを重ねた肩をすぼませながら、遠峯が訊いてきた。

 ここへ来る前、二人でホームセンターに行き、必要なものを買い揃えた。とりあえずということで、仔猫用のキャットフードとミルク、食器、猫砂とトイレ、おもちゃを数種類購入してもらった。

 トイレをセットし、ダンボールの中の濡れた新聞紙をちぎってその中に置き、仔猫にトイレの中に入ってもらうと、仔猫はスローモーションのような動作でくんくんと臭いを嗅ぎながら、トイレの中を歩いていた。

 続いて床の上に出された仔猫は、そそくさと壁と冷蔵庫の隙間へともぐりこんでいった。

 心配顔の遠峯に、「いまはそっとしときましょう」と言い、食事の準備にかかった。

 フードは、ドライタイプとウェットタイプの二種類購入してあったので、とりあえず両方を適量ずつ食器に入れ、水とミルクとを入れた皿とともに冷蔵庫の近くの床に置いた。念の為、玄関やキッチンのマットは片づけておいたので、粗相をすることもないだろう。

「だいじょうぶかなあ」

 気がかりな様子の彼が、龍也は内心、愉快でたまらなかった。

 

 時刻が十九時になった。

 公園のグラウンドの真ん中付近で、外灯のいくつかが投げかける明かりに照らされた遠峯は、埃でも払うように、しきりにジャケットの腕を撫でていた。

「まだ返事はありませんかっ」

 公園の隅の東屋から龍也が声を投げると、遠峯は慌ててジャケットのポケットからスマホを取り出し、画面を確認した。

 少しの間を置いて、画面に目を落としたまま彼は首を横に振った。

 南の空に出ている上弦の月を龍也は仰いだ。

 祈りを捧げたい気分だ。でも二人にとって本当にそれが望ましい未来なのかどうかわからない。やめておくべきだろうと思った。

 二十時までに連絡もないまま彼女が来なかったら潔く帰る。そして二度と連絡は取らない。事前に二人でそう話し合って決めていた。

 目にみえてそわそわしだした遠峯を見ていられず、龍也はまた月を仰いだ。

 月の動きがとても速く感じられる。先ほどからすでに一個ぶんくらい西に移動したように思える。

 不意にアプローチに気配を感じ、自ずと身が引き締まった。

 東屋の四角い柱にもたれていた龍也は、弾かれるようにして体を起こした。

 彼女で間違いない。一瞬、目が合い、驚いたように、小走りだった彼女が足を止めた。どちらからともなくぎこちない会釈を交わした。それから彼女は、気を持ち直した様子でゆっくりと公園内へと進んで行った。

 不安げな彼女だったが、植え込みを抜けたところで遠峯の姿を確認すると、安堵した様子で足を止め、大きめの息を吐いた。

 彼女は写真で見るよりも大人びていて温和な印象だった。彼との話で構築されていた嫌な女のイメージはすでに払拭されていた。

 彼女の登場にぴたりと動きを止めた遠峯はまるでマネキンかと見紛うばかりだった。彼女もその静に呼応したかのようにいま動きを止めている。

 ドラマのワンシーンであれぱ、カメラワークやBGMで感興をそそられるところだろうが、公園でただ向き合って立つ物憂げな男女の姿には不吉な予感しかなかった。

 どこからか猫でもやってきて、彼女を彼のもとにエスコートしてくれないものか。ついそんな都合のいい展開を想像してしまう。仕込めるものなら仕込んでおきたかった。しかしタレント猫でもなければそんなことは無理だろう。

 何か、何かできないか……

 グラウンドで向かい合う二人を見ていて、ハッとなった。口に手を添え、龍也は叫んだ。

「ロスタイム!」

 二人が同時に東屋のほうを向いた。

 公園に来るまでの間、彼女との共通の趣味は何かと遠峯に訊ねると、サッカー観戦だという答えが返ってきた。

 そもそも出会ったきっかけが、サルコンと呼ばれる、男女それぞれが会費を払って参加するフットサルの合コンだったのだという。自己紹介の後、練習タイムを経て男女混合の試合となる。もちろん女性の経験者はほとんどいないから、女性を接待するような試合運びとなるらしい。

 遠峯は中学時代、サッカー経験があり、試合中、彼女をうまくリードすることができた。PRタイムで彼女にアプローチし、めでたくカップル成立となったのだった。

 三年もの期間、彼女は決して男らしいとは言えない彼とつきあってきた。そこには、龍也の知り得ない、彼の魅力というものが存在していたのだろう。彼女はそれを見つけ出し、見守るだけの心の奥行きを持っていたということだ。

 世の中には大変な数のカップルがいる。仕事ができて、強くやさしく誠実で包容力があって……そんな理想の男性像みたいな相手が果たしてどれだけいるのか。他人の目にどう映ろうと、彼女はきっと彼のいいところを知っている。男と女はそういうもの、なるようにしかならない。

 二人とも呆けたようにじっとこちらを見つめたまま突っ立っているのでもう一度叫んだ。

「ロスタイム!」

 彼女は、龍也から遠峯へ、あなたの知り合いかと問うように視線を持っていった。

 遠峯は、どう対処していいかわからない様子で視線に落ち着きを失くしている。その視線が一瞬、龍也に向けられ、それから彼は首を横に振った。

 ロスタイムの意味を理解してもらえなかったのだろうか。そんなものと一緒にしないでくれということなのか。なるほど、恋のゲームを延長して勝負の決着を着けようなどといった軽々しさはこの場にふさわしくないのは確かだ。ゲーム自体もワンサイドゲームの趣きで、彼が馬鹿にされていると感じたとしても無理はない。

 突然、何を思ったのか遠峯が彼女に向って駆け出した。ボールに向かって突進するように。

 その勢いに、彼女は一瞬だけ逃げ出そうとするかのような素振りを見せたが。何とか踏み止まってくれていた。

 彼女まであと数歩の距離で遠峯が足を止めた。二人の間に転がるボールが目に見えるようだった。幻のボールは、まるでうずくまっている猫のようにも思えた。

 それは、これまで二人の間を行き来し、迷子になっていた気持ちなのかもしれない。

 そのうち、二人はどちらからともなく歩き出し、並んで丘のほうへと歩きだした。波打つ竜のような滑り台が、丘の斜面を展望台まで這っている。

 時間を巻き戻すことはできるのだろうか。砂で画かれた絵のように頼りない二人の後姿からは、答えらしきものは何ら感じ取ることができない。

 時折、頷く仕草をする彼女の様子にますます不安だけが広がっていく。

 展望台へと続く階段を二人が上ることはなかった。滑り台の終点となっている砂場のステンレスの柵に並んで腰かけて話す二人を、龍也は、東屋からそっと見守り続けた。

 月はあれからまた何個分も西へと移動した。痩せた月明りを受けて鈍く輝くステンレスの柵からやがて二人は立ち上がり、龍也のいるほうへ向かってきた。

 龍也も東屋から出て、近づいて来る二人を迎えた。

「あの……ありがとうございました。今日は自分の気持ちを正直に伝えることができました」

 彼は、一試合終えたようにさっぱりした顔でぺこりと一礼した。

 嬉しい反面、余計なことをしてしまったかもしれりないという手前、まともに彼女の顔を見ることができなかった。彼女の新しい恋愛を邪魔するようなことになっていなければいいのだが。

「ありがとうございました」

 重ねて礼を述べる彼にそういうことかと納得した。少し寂しい気がしたが、これ以上邪魔者扱いされてはたまらない。

「彼女を家まで送ってから僕は帰ります。ところで僕は合格なのでしょうか?」

 一瞬、何のことかわからなかったが、すぐに思い至った。

「……ええ」

 笑顔を誘われるとともに頷いて見せた。

「では」

 踵を返しかけた龍也だったが、二人のほうに向き直ると、遠峯と見交わした。

「ふさわしいかどうか、本当に問われるのはこれからです。飼い主としての責任を全うしてください。何か困ったことがあったらいつでも名刺の番号に連絡してください」

 その言葉を受けて、彼女の視線が遠峯の横顔に注がれた。少なくともその眼差しに彼を疎んじているようなところはなかった。それどころか愛おしさすら感じたのは、ひいき目なのだろうか。

 はっきりと強く頷きを返してきた遠峯に龍也もまたしっかりと頷き返した。それから彼女に一礼すると、二人に背を向けて歩き出した。

 

 勤めていた広告代理店から離職票が届いた。

 ダイニングの小さなテーブルの上に、開封して中身を確認したばかりの封筒をぱさりと置いた。

 新たなクラウドソーシングサイトへの登録は随時やっているが、フリーランスのデザイナーたちの数もひっきりなしに増えていく。どのサイトも受注が入るようになるまでは相応の実績作りと営業活動が必要となる。リアルの世界と変わりないどころか、登録しているのは副業程度と割り切っている人の数もばかにならず、とにかく登録数が多いのでリアルよりもパイの奪い合いは熾烈になる。

 そもそも兼業、副業を含めたフリーランスの数は、一千万人以上と飽和状態で、もはやネットのメリットうんぬんの話ではなくなっている。会社員の年収程度をフリーランスで稼いでいる人なんてほんの一握りに過ぎないはずだ。

 退職後の手続きという現実に晒され、言い知れぬ不安がのしかかってきていた。

 現実から目を背けているつもりはないが、このままではいずれ蓄えもなくなってしまう。ハローワークで求職活動をするつもりはないから、失業給付の受給もできない。働く意思がないにもかかわらず、職業相談や求職活動実績をごまかし、所定の期間、ちゃっかり給付金をせしめる連中がいるらしいが、そういうことはドラの手前、できない。会社を辞めたことにしても、ドラのせいにしたくはなかった。

 ドラがいなくなり、サラリーマン生活を送るのが困難になったのは確かだ。でもそれは抑うつとかそんな理由からではないのだ。ドラと過ごした八年という月日は紛れもない僕の宝物だ。そのことで、人生にとって本当に大事なものが何なのか、僕はわかった気がする。

 人生で初めての強烈な喪失経験によって、僕の中で確かに何かが変わった。これから先、それを凌駕するような体験に遭遇することもそうそうないだろう。何故ならそのように僕はたぶん生きていくだろうから。

 細胞が少しずつ入れ替わっていくように、感情が生まれ変わって、固い殻のような被膜が取り払われたそのとき、僕は初めて自分の心の中に広がる景色を眺め、その正体を見極めることができるのだろう。その実現の為にも僕は、自分に対して正直でいる必要があると思った。

 窓辺に立ち、雲が散らばる空を見上げた。

 ドラの顔が、一瞬、空に滲み、たまらず視線を外した。

 ふと、遠峯とキジトラの仔猫のことが頭をかすめた。

 テーブルに戻ってスマホを手に取り、遠峯のSNSにアクセスしてみる。

 〝猫を飼うことに決めました。今度、元カノが猫を見に来きてくれるそうです。〟

 眠っている仔猫の水彩画がそこには添えられていた。やわらかで暖かな、いまにも起きて鳴き声を上げそうな画だった。

 投稿された文字の間からも、仔猫の喉鳴りが聞こえてくるようで、自然と笑みが浮かんできた。

 続いてもうひとつ、投稿があるのに気づいた。

 〝お世話になった猫ディネーターさんを紹介させてください。〟

 そのツイートとともに龍也のサイトへのリンクが貼ってあった。

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