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 五年間付き合ってきた彼女からふられたのが先週のことだという。理由は、彼女の浮気。具体的な内容を訊ねてみると、「どうって、理由を言わないから、そうなんだろって訊いたら否定しなかったから……」という言葉が返ってきた。

 しかし浮気だったり、他の誰かに乗り換えるというのだったら、普通はそれを隠し、全力で否定するものじゃないだろうか。

「あなたとは終わりにしたい。そうとだけ言われたんですよね。あなたはそれで、はいそうですかと納得したわけですか?」

「だってしょうがないじゃないですか。彼女がそう言うんだから」

「彼女への思いはその程度だったということなのでしょうか」

 きっと彼は罵倒したかったに違いない。彼が胸の裡でたぎらせているはずの感情。それが、彼の顔を確かに彩っている。

 彼はやるべきことをやっていない。だから気持ちが行き場を失くしているのだ。そう思った。

「はっきりさせたらどうでしょう」

 圧を感じるほどに彼の眼差しが強くなる。

「あなたに言われなくったってそんなこと……僕だってできるものならそうしたいですよ。僕に彼女を嫌いになる理由なんてなかったし、ほんとは納得なんてしていないんだ」

「それでまだこんなものが?」

 龍也は、伏せられていた写真立てを手に取ってひっくり返した。

「ちょ、ちょっと」

 写真は、どこかのビーチの波打ち際を背景に、二人並んで自撮りした胸から上のショットが収められていた。

「いい感じですね。いつ頃のものですか」

「いいじゃないですか。いつだって……」

 龍也の手から奪い取られた写真立ては、行き場を失くしてそこへ逃げ込んだみたいに、彼の手の中でわなないていた。そこへ彼の目線が降り注いでいる。不意にその瞳の容積が大きくなった。

 気まずさに顔を背けた。視界の端にどうにか彼の顔がとどまっている状態だ。

 失恋で泣くかぁ。情けない、と、突き放しそうになる自分がいる。だが将来自分がそうならないとは限らない。小馬鹿にしたりするのは慎むべきだ。

 喪失の哀しみだったら充分すぎるほど僕にもわかる。あのときのことは俯瞰的な記憶となって残っている。慟哭している自分をもう一人の自分が見ている感じだ。

「二年前の秋」

「はい?……ああ」

 顔を向けると、ガラス面に落ちた涙のしずくを彼が手のひらで拭った。肩くらいまである髪を軽くかき上げる仕草の彼女がそこで笑っている。耳ではシルバーのイヤリングが光っていた。

「イヤリングはあなたがプレゼントしたものですか」

「ああ、ええ……この日、プレゼントしました」

 ふうぅ、と、息を吐き出し、今度は貪るように空気を吸っておいてから彼は続けた。

「新しい会社に入って間もないときでした。でも心ばかりのボーナスが出て、それで買いました。前の会社を、その、辞めたとき、彼女に心配をかけたんで……。それと、ちょうど記念日というのもあって」

「記念日というのは、交際記念日?」

「……ええ」

「それですよね」

 龍也は、豆皿の中のイヤリングを視線で指した。

 否定も肯定もせず、虚ろな視線を彼はそこに重ねた。

「片方だけなんですね」

 ぎゅっと目を閉じ、何かに耐えている様子の彼の姿に、確かに胸が塞がれはするのだが、素直に同情を寄せることはできずにいた。

 不意にダンボールが擦れる音がした。目を向けると、綿毛のようにふわふわとした頭が見え隠れしていた。這い出してくる気配は仔猫にない。彼と二人、しばらく見守っていると、仔猫はどうやら眠りについたらしく、静かになった。

「……片方は失くしたって、それで、返しておくって……」

「へんですね」

「えっ」

「普通はわざわざ返さないんじゃないでしょうか」

「はい?」

「たとえばですよ。まだ正式にお付き合いしていない段階で、貰ったほうにその気がなかった場合、プレゼントされても返すと思いますけど」

「それって……」

「ええ、失くした片方をわざわざ返すってのは……」

「つまり……」

「自分で処分するなりするのが普通ですよね」

「だから?」

「……」

 彼の視線がぐいぐいと突き刺さってきて尻込みしそうになる。

「まだ未練があるということでしょうかね」

 彼の視線は宙の一点に注がれていた。まるでレンズで集光しているような熱さをそこに感じる。

 もし間違っていたら……。彼の哀しみに追い打ちをかけることになるかもしれない。こわさ半分、エールを送りたい気持ちが半分だった。

「未練……未練が……」

 自分が差し出したはずの希望だったが、相手がそれにすがりそうになると急に引っ込めたい気持ちになる。何とか踏んばることができたのは、気持ちさえ前向きになればそれで救われるものもあるだろうという気がしたからだった。

 コーヒーカップに手を伸ばし、あおった。わずかに残っていた冷めきった苦い液体に、龍也は思わず顔をしかめた。

 カップを置いた瞬間だった。ソーサーごとそれを手に取った彼が、一目散にシンクへと向かって行った。

 水道のレバーを捻り、手早くスポンジに洗剤をつけ、入念にそれらを洗い、水切りカゴに入れたそばからハンガーに掛けてあった清潔そうなふきんで拭き上げ始めた。

 龍也はその様子を呆然と眺めていた。

 暗に帰れと言われているのだろうか。気持ちが限りなく平坦になっていく。

 でもここで帰るわけにはいかない。

 テーブルに戻ってくる彼の顔は何故か苦しげだ。口を開くなり、「すみません」と謝られた。わけがわからずぽかんとなっていると、彼は、弱り顔を晒し、いまにも後頭部をかきかねない様子だった。

「彼女に注意されていたのを思い出しました。あなたは潔癖すぎるんだって。人に出したカップやなんかは相手が帰ってから洗うものなんだって」

 得心がいったものの、言葉に困った。気にしないでくださいというのも違う気がする。喫茶店じゃないのだし、彼女の言うことは正しい。彼女は常識的だった。そこらへんの感覚のズレが別れる原因になった可能性もある。そう考えると急に肩の荷が重くなった。背負いたくて背負ったものではない。でも乗り掛かった舟、今さら退くわけにもいかなかった。

 ただ、同情も同調も誰の助けにならない。そうしたものは、自身すらも高慢な人間に変えてしまう。自分で納得し、そして満足のゆく明日という日を迎える為には、安易な感情に流されたり、妥協したりしないことだ。共感はしても、それを哀れみにランクダウンさせてはならない。

「ところで、転職は成功でしたか?」

 落下した彼の視線が瞬時にすべてを物語った。

「お辞めになったんですね。いまは?」

「派遣の仕事を……」

「実は僕も最近、仕事を辞めたところでした」

 これまでとは打って変わって彼の雰囲気がなれたものになる。同類相哀れむといった感じなのか。何にせよ、調子に乗りやすい性格なのだとしたら、改めてもらったほうがいいだろう。

「組織ってものが僕には向いていないんですよね」

「どうしてそのように思うのですか」

「言われたんです。命令されたことしかやらない。ロボットと一緒、でくのぼうだって。自分じゃ何も決められないんです。思ったことを行動に移せないんです」

「ああ……」

 胸を張るようにして、むしろ誇らしげに言ってのける彼に、龍也は、認識を改めざるを得なかった。彼も悩んでいるのだ。苦悩し、自分をどうにか変えたいと思っている。そう考えると、急に彼のことがいじらしく思えてきた。 

「前の会社でも、その前の会社でもだいたい同じことを言われました」

 他人とはうくまやっていけるほうだと自覚している。器用な部類に入るはずだ。そんな自分がいま口を開けば傲慢以外の何ものでもない気がした。

 広告業界にいた自分の周りに彼のような不器用な人はいなかったけれど、社会全体を見渡せば少なからず存在しているはずだ。適材適所というやつ。不器用であっても、いつか自分に合う仕事にきっと巡り合えるはずだ。

 猫との暮らしは必ずその手助けになってくれる。自分がそうであったように、猫と関わっていくことで、彼もきっと新しい自分と出会うことができる。それをきっかけに、彼の人生がいい方向に進むことを祈りたい。その可能性に賭けてみたい。

 ただ、祈る前にやるだけのことはやっておかなければならない。

 龍也は、静かに深呼吸すると、彼に対して居住まいを正した。

「遠峯さん、あなたに折り入って頼みがあります」

「はい」

 ひるむ様子もまったくなしに彼はうなづいて見せた。

 閉口しそうな気持を奮い起こす。頼み事が何かもわからない段階で困ったものだ。純粋さが痛い。往々にしてそれは罪作りになる。

「実は今日僕はやらなきゃいけないことがありました。けれど、こちらにおじゃますることになってまだやれてない状況です。それで、今からあなたに手伝ってもらえたらたいへん助かるのですが」

 自らのスマホをポケットから取り出し、それから、テーブルの上に置かれてあった彼のスマホに視線を向けた。

「ランワークスで検索してもらえますか」

 クラウドソーシングサイトのひとつに彼を誘導し、自分は、もうひとつ別のクラウドソーシングサイトへアクセスした。こちらがメインで使っているサイトだ。

 ログインをし、指名発注がきていないか確認したが一件もきていなかった。

 思わず 吐きそうになった溜息を、彼の手前飲み込んだ。サイト上での実績もまだない。当然と言えば当然の結果だ。

「ログインしますので、スマホを貸していただけますか」

 ログインまでを終えたスマホを彼に返した。緊張したような彼の面持ちは、不安というより意欲の現れと見て取れる。任せてだいじょうぶなのか。にわかに不安が襲ってくる。

 すでに後悔が始まっていたが、今さらやめるわけにもいかない。なるようになれ。気持ちを奮った。

「僕は商業デザイナーをやっていて、そのサイトを通じて仕事の依頼が来るのを待っています。自分の作品をサイトにアップしたり、こういう仕事をこれくらいの予算でやって欲しいというプロジェクト形式の依頼に参加したりしています。遠峯さん、あなたにやって欲しいのは、そのプロジェクト形式の依頼に対するコンタクトです。まずは僕のプロフィールを見ていただいて、そのうえで参加できそうなプロジェクトがあったら、僕の代わりに申し込みをしていただきたいのです。どれだけ多くのプロジェクトに参加できるか、それが勝負の分かれ目となります。よろしいでしょうか」

「はい、わかりました」

 事も無げにあっさりと返された。不安は尽きない。天を仰ぎたい気分だった。

 チラとダンボールに目をやった。仔猫は相変わらず寝ている。

 気を取り直して笑顔を作った。

「では、お願いします」と、彼に会釈した。

 クラウドソーシングサイトには、会社を辞める少し前から登録してあったが、思うように受注とまではいかない。けっこうな数の案件は転がっている。しかし条件的にとてもじゃないが折り合わないものばかりだ。ボランティアとしか呼べないようなものも多い。

 例えば今度立ち上げる会社のロゴ制作といった案件が、サイトが設定している最低依頼価格で募集されている。通常の相場の十分の一ほどの価格だ。クリエィティブの価値というものがまったくもって理解されていないケースも多い。

 そういう案件であってもこつこつと数をこなし、実績を積み上げていき、評価を稼ぐことが依頼に結びつくのだと頭ではわかっていても、やっつけ仕事はしたくない。それにダンピングめいた行為は、自分の首を絞めるどころか、ひいては他のデザイナーに迷惑をかけることにもなる。

 スマホ画面を操作しながら彼の様子を盗み見ると、画面をタップし、スワイプする指の動きは確認できるものの、一向に入力作業に移る様子はない。利用者たちのやりとりを参考にすれば苦もなくできることだ。

 いつの間にか、自分がやってるメインサイトのほうの閲覧に夢中になっていた。そうこうしているうち、三十分以上が過ぎていた。

「どうですか?」

 遠峯が、スマホを持ったままの手をテーブルの上に投げ出した。

「はい。やっていますが、なかなか参加できそうなものがありません」

 えっ。

 驚きの声をどうにか心の中にとどめることができた。そんなはずはない。案件はごろごろ転がっている。

「そうですか。では、ログアウトしていただいて結構です」

 期待外れ……いや予想に違わずか。それが正直な感想だった。

 気まずい空気感があるわけでもない。彼にはまったく悪びれたところがなかった。

 少々癪に障ったが、これも彼の純粋さゆえのことかと思うと怒る気になれない。

「あの、聞いてよろしいでしょうか。どうして参加できなかったのでしょう」

「えっ、僕はやりましたけど。参加できるとこがなかったので仕方ないと思います」

 見解の相違があるようだ。本人の代わりにコンタクトを取るのは、人によっては気負い過ぎて萎縮してしまうだろう。しかし内容、金額、納期等を打ち合わせる前の段階のコンタクト、挨拶のようなものだ。少し閲覧すればサイト全体の流れは掴めるし、社会経験が浅くても問題はない。そういう風にサイトは作られている。

「あの、失礼ですけど、もしかして人から頼まれ事をしたら断れない性格ですか?」

 首を捻っている彼を見て、龍也の腹は決まった。

 おそらく彼はその通りの人物で間違いない。安請け合いしてやってはみるもののまったく結果を出すことができない。それどころか失敗し、かえって迷惑をかけてしまうこともあるのではないか。

 それで周囲からの信用を失い、ロボットの烙印を押される。人に嫌われることをおそれ、できないことをできないと言えない。万人から愛され、尊敬されたいと望み、挙句の果てに孤立してしまう。

 単に自分のことを客観的に見れていないだけなのかもしれないが、いずれにしろ、そんな彼も猫と触れ合えば変わるはずだ。猫には人の心を素直にする作用があり、常に自分を見つめ直す機会を与えてくれる。彼はもともと純粋な人間だと思うが、純粋さと素直さとは違う。

 猫を飼うのは決して楽しいことばかりじゃない。猫の躾は基本的に難しい。本能、生理、いたずらに悩まされることも多々ある。その分飼い主が譲歩し、工夫して対策を講じなければならない。それをやらずにほったらかしにしていたら、部屋の中がぼろぼろになったり、大切な物を壊されたり、飼い主自身も傷だらけになってしまうおそれがある。病気、怪我、避妊や去勢の問題だって避けては通れない。葛藤と決断の連続なのだ。自分を見つめ直すだけじゃなく、自分を知る機会も与えてくれる。猫を飼うということは、自身のエゴとの戦いでもある。

 そんなことを考えているとわくわくしてきた。彼には絶対に猫が必要だ。

 もともと拾ってきたものだからいつ捨てたって構わない。そんな理論は通用しないってことを彼に思い知ってもらいたい。

 理論的に彼は正しいのかもしれない。実際、猫は法律上は器物として扱われる。行為を否定できても問責はできない。だから心で理解してもらうしかない。惨めな別れが来ないよう、覚悟を持ってもらう必要がある。

 責任とは、人によって持てる大きさに違いがある。悲しみや辛さ、後悔といった経験に比例して増していくといった側面があるはずだ。そして、乏しくなったり溢れたりを繰り返していくものなのだと思う。

 彼には変わってもらいたい。人を変えようというのが傲慢な行為なのも承知だ。でもやれるだけやってみたい。

「えっと、あの、彼女と連絡を取ってみるというのはいかがでしょうか」

 ぽかんと口を開けている遠峯を見て思わず笑ってしまいそうになったが、さらに深く傷ついて打ちのめされる可能性もまったくないとは言えないのだから、慎まなければならない。

 顔面蒼白になっている彼と共に運命の審判を仰ごうではないか。いや、その実、運命に逆らってやろうという目論見であるのは、心の奥深くに潜め、それを司る何ものかにもそれと悟られないようにしておかなければならない。

「でもそんなこと……無理ですよ」

 チャレンジングスピリットだけは旺盛な彼らしくないといえばらしくない。嫌味のひとつも言ってやりたかった。

「結論はまだ出ていないという気がします。悔いが残らないよう、とことんやってみましょうよ。自分の気持ちを正直に全部ぶつけて、それでだめだったら諦めればいいじゃないですか」

「でも……」

「賭けてみましょう。そのイヤリングに」

「だめだ、だめだ、だめだ。ストーカー、ストーカーになってしまう」

 取り乱して首を横に振る彼の腕に伸ばした手を添えた。

「そのときはそのとき、そう取られたら、すっぱり身を引きましよう。仮にも三年間つきあってきたんじゃないですか。彼女の言葉だけを受け入れて別れるだなんて、それじゃああまりに一方的すぎます」

 最悪、一度終わったものを終わったと確認する、それだけのことなのに……そう思うのも他人事だからか。頼み事は断れないくせに、自分のこととなるとからっきしだ。ダンボールの中の仔猫のほうがよっぽど逞しく思える。

 彼女は、こんな彼氏に嫌気が差したのだろうか。

「まだ……僕はまだ何も変わっていないから」

 言うなり彼は立ち上がると、部屋の中を落ち着きなく歩き回りだした。と、片隅に置かれていたトレーニングマシンらしき器具に跨って腹筋を始めた。

 ふんっ、ふんっ、と、一心不乱に鼻息を押し出しながら腹筋を続ける彼を、龍也はしばしの間呆然と見守った。

「遠峯さん、えっと、あの、それ、お一人のときにやられてはどうかと」

「えっ」

 背中を丸めたシットアップの状態で彼が動きを止めた。後頭部に両手を当てたまま、虚をつかれたような顔でこちらを見ている。

「そうでした……」

 腹筋マシーンから降りると、彼はテーブルへと戻って来た。

「すみませんでした」

「あ、いえ」

 頭を下げた彼は、椅子に座ると息を整えにかかった。一呼吸ごとに項垂れていく。

「変わるって……あなたにとって変わるということはそういうことじゃないはずですよね?」

「あなたは腹がすわっていないって、言われたものだから」

「そ……そうでしたか」

 笑えなかった。これは彼の現実逃避の一種だったのだろうか。額面通りに受け取ったわけでもあるまい。曲解したくてそうしたという考え方もできそうだ。

「えっと、ちなみにどういったときにそう言われたのでしょう?」

「絵を……」

「え?」

「そう、絵を描いて、それを見てもらってて、そのときとか」

「あの、よかったら、僕にも見せてもらうことはできますか」

「いいですけど」

 彼がクローゼットの中から取り出し、体の前に掲げて見せたのは透明水彩画だった。モチーフは女性、椅子に座った半身が描かれている。写真とは雰囲気が違うが彼女だろう。商業的に通用するレベルの出来栄えだ。

「すばらしいです」

「はあ……」

「それで、この絵を見て彼女はどうしてそんなことを言ったのですか」

「いやあ、もっとたくさん画いて個展とかやってみればいいって言われて、でも僕はそんなのできないって言って……」

「どうしてです?」

「だって趣味で描いているだけだし、個展なんてとんでもないです」

「いやいや、すばらしいですよ。僕もデザインの仕事をやっていたのでわかります。充分にプロとしてやっていけるレベルだと思います」

 どこか別の場所に心が飛んでいるような、彼はそんな風情だった。自覚というものが皆無なのだ。自己を含めたすべてにおいて客観的判断が下せない。自己評価の低さは自信が持てないということだ。チャンスを掴むどころか、人生を棒に振ってしまいかねない。

 もしかして彼女は、そんな彼に変わって欲しかったのではないのか。

「彼女はあなたに勇気を持って欲しかったのかもしれませんね」

「本当ですか? そうか……そうなんですよね。腹筋なんてどうでもよかった」

「あなたが描いた絵をSNSにアップしてみてはいかがでしょう」

「まじですかっ、それは……えーと……」

 ひとしきり困惑する彼を見ながら、いま焦って無理強いする必要もないと、龍也は自分に対して言い含めた。

「実は、あの猫と出合ったのも何かの縁かなって思わないんじゃなかったんです」

「ん? どういうことですか」

 思わぬ話の展開に胸が騒ぐ。興味津々、彼の話に耳を傾ける。

「……半年くらい前です。彼女とドライブしていたときでした。道端に仔猫がちょこんて座っていたんです。そのまま通り過ぎてしばらく走ったら、ほうっておけないって彼女が言い出して、それで引き返しました。その途中に、こういうの見て見ぬふりできるひとって私好きじゃないって彼女が言って……。戻ったら、ベージュの軽自動車が停まっていて、女の人が仔猫を抱きあげていました。車から彼女が降りていって、その女の人と少し話をしていました。仔猫はちょっと弱っていて、目もよく見えていない感じだったそうで、それで女の人が病院に連れて行って、それから面倒をみたいって言っていたそうです」

 なるほど。龍也は合点がいった。特に猫好きというわけでもない彼がどうして仔猫を拾ってきたのか、これでようやく理解できた。

 うんうん。龍也は、首を縦に揺らした。

「なるほど、そういうことがあったんですね。早速今日にでも彼女に会いにいきましょう」

 彼が目を見開いて仰け反り、椅子が、ガタッと音を立てた。

「い、いきなり、何を言うんです」

「いきなりも何も、そんなに驚くことはないでしょう? だいじょうぶです。僕がついています」

「まさか、あなたも一緒に?」

「もちろんそのつもりです。でもその前にやることがあります」

 龍也は席を立ち、忍び足でダンボール箱へと近づいていった。

 仔猫はすやすやと眠っていた。一瞬、龍也は、遠峯のことも忘れ、その寝顔に癒された。猫の寝顔が持つ癒しの力には計り知れないものがある。

「あなたもこちらへ」

 半ば遠峯に顔を振り向けて小声で言うと、龍也は、その場にそっと膝を折った。

 彼が傍らに立ったところで仔猫が目を覚ました。はっと驚いたような真ん丸な目をしてこちらを見上げている。

 いまにも飛び退いてしまいそうだが、あいにくダンボールの壁がそれを阻んでいる。しぶしぶ膝をついた遠峯が横に並んでも、わずかに顔を仰け反らせただけだった。

「さあ、頭を撫でてあげてください」

「ばっ……そんなの無理だって、さっき見てたじゃないですか」

「だいじょうぶですから」

 きっぱりと言ってのける龍也に、彼が、いまいましそうに視線をぶつけてくる。負けじと、龍也も、目力を発揮した。

「さあ、どうぞ」

「何がだいじょうぶなもんですかっ。怪我したら、責任とってくれるんですかっ」

 湿っぽくなった声で必死に訴えかけてくる彼の口の前に立てた人差し指を持っていき、それから驚いた表情をしている仔猫に顔を向けた。すると彼はばつが悪そうに、しかし脇に顔を逸らしてまだ不服を表明している様子だった。

 ダンボールの隅に後頭部をはりつかせるようにしているあどけない顔の仔猫との対比に龍也は思わず笑みをこぼしてしまった。

「とにかくやってみてください」

 遠峯はちらちらとこちらの顔を盗み見てくる。

 まるで自分が弱者相手に無理難題をふっかけているような気にさせられる。

 こんなところで妥協などしてはいられない。彼の往生際の悪い視線を一網打尽にする思いで受け取めた。

 とうとう根負けしたように、がっくりと彼が肩を落とした。

「わかりましたよ」

 そう言って居住まいを正した彼は、やけ気味に仔猫へ手を伸ばしていった。

 シャアッ、と、仔猫が悪魔の顔を見せつけてくる。

「うわあっ」

 彼は反射的に手を引っ込めた。喘いだ状態で、キッと、龍也を睨みつけてきた。

「だから言ったじゃないかっ。何がだいじょうぶなんだよおっ。ほらぁっ、この通りじゃないですか。だいたい何の根拠があって、だいじょうだなんて、何なんです、馬鹿にしてるんですかっ」

 肩で息をしている彼をなだめようと、龍也は、宙を抑え付けるように両手を動かした。

「落ち着きましょう。遠峯さん、いいですか、僕を信じて。さあ、もう一度」

 立ち上がって逃げようとする彼の腕を掴んで留めた龍也は、眼差しに力を込めた。

 それでもなお逃れようとするので、今度は両手で引っ張って引き留めにかかる。

「わかった。わかりましたから、手を放してください」

 彼の反応を探りながら手の力を緩めていった。

 床に両膝をついて跪座の姿勢になっていた彼は、腿の上に八の字に両手を置くと、仔猫を見下ろしながら深呼吸を始めた。

 次第に呼吸が緩やかになっていき、最後にひとつ、大きく深呼吸してから、彼は、小さく頷いた。

「ふん、咬まれたって平気さ」

 精一杯の強がりなのだろう。ちらちらと盗み見てくる彼の視線を無視して、龍也は、あどけない顔の仔猫を見下ろしていた。

「そのぉ、病気とか……」

「ふっ、だいじょうぶですよ。何かあったら病院に連れて行ってあげます」

「ええっ……」

 たったいま腹を決めたのではなかったか。この程度のおどしで簡単に砕け散ってしまうようなものだったのかと、脱力しそうになる。漏らしかけた苦笑を口角にひっかけたまま、情けない顔で見てくる彼に龍也は言葉を継いだ。

「さあ、もう一度深呼吸して」

 言われた通り彼は深呼吸をした。壁の時計の秒針の刻みが際立った。時の断片が、抜け落ちた羽根みたいにゆらゆらと漂い落ちてくるみたいだった。その合間を縫うように彼が仔猫に手を伸ばし始めた。

 ゆっくりと、ためらいながら、それでも着実に彼の手はダンボールの縁を越えて中へ、仔猫へと向かって伸びていく。

 だけども、先ほど仔猫が威嚇してきたラインは越えられないようだ。数センチ手前で止まった指先が宙で震えている。

 焦れて見守りながら、撫でろ、撫でろ、と、龍也は心の中で念じていた。

 ぎゆっと目を閉じた彼の手が境界線を超え、仔猫の頭へと届いた。

 願いが届いたその瞬間に、歓喜の声を上げそうになった。口に手を持っていく習性はなかったが、あったらやっていたところだ。

 仔猫は威嚇を怠ってはいなかった。

 シャアァァッ。

 仔猫は威嚇音を発していた。だけどそれだけだ。

 悪い夢から覚めたみたいに、目を開いた遠峯は、一瞬、何が起こったのかわからない様子で唖然となっていた。

 遠峯の手が、仔猫の頭から、ふわぁっと離れた。

 驚きと感動が入り混じったような何とも言えない表情を彼は浮かべていた。

「これって……」

 再び遠峯の手が仔猫の頭に伸びていく。そこにはもう境界線は存在せず、ほとんど惰性的な仔猫の威嚇ももう関係なかった。

 彼の手が頭から背中へと移っていっても、仔猫は寝そべった状態でされるがままになっている。

「抱いてみませんか」

 遠峯は、龍也に晴れやかな顔を向けると、仔猫の躰の下に手を差し入れ、掴み上げた仔猫を自分の胸へと持っていった。

 仔猫は、清潔そうなシャツの胸に小さな爪を立て、しがみついた。

 遠峯のもう一方の手が仔猫のお尻のあたりを支えていた。

「これ、爪、ぜんぜん痛くありません」

 感激している遠峯につられ、龍也も感奮していた。

「でもどうしてなんです? 最初からこれが、このことがわかっていたんですか?」

「猫の威嚇にもいろいろ種類があります。尻尾をピンと立てたり、背中を山形にして毛を逆立てたり、シャーと牙を剥くにしても、猫の気持ちは一様ではありません。この子の場合、威嚇していいのかどうかもわからない。人間と触れ合ったことは短い時間だけどあった。でも捨てられた。おそらく人間を信用することも敵と見做すこともできない状態なのだと思います。賢い子だと思いますね」

「そうなんだ。攻撃しようとしていたんじゃないんだ。考えてみれば、攻撃もできないくらいちっちやいくて幼いですもんね。そうか、そういうことだったのか」

 龍也の胸にぐっと嬉しさが込み上げてきた。

「はい。もう威嚇はしないと思います」

「なんだ、こいつはよう、びっくりさせやがって」

 遠峯が、顔の前に掲げた仔猫と見つめ合う。

 仔猫は、少し迷惑そうに眼球だけを斜め上に向けている。

「くれぐれも成猫には注意してくださいね。威嚇してきているのに迂闊に手を出したりすれば間違いなく怪我をします」

 そんな注意は耳に入らなかった様子で、遠峯は、仔猫を不器用にあやしていた。

「そろそろ戻してあげましょうか」

 言われた通り、仔猫をダンボールの中に戻した遠峯は、跪座のまま龍也に向き直った。

「なんで最初に言ってくれなかったんですか。あなたが手本を見せてくれたってよかったはずです。意地悪ですか? 僕がこわがるのを見て楽しんでいたんですか? それと、僕に話をさせていろいろ聞き出して、何か魂胆があるのですか?」

「とんでもない。意地悪に感じられたのだったら申し訳ありませんでした。判断させてもらいたかったんです。その子にふさわしい飼い主になれる方なのかどうかを。どうかご勘弁ください」

 龍也は、ぺこりと頭を下げた。

「えっ、飼い主……」

 遠峯の視線が宙を滑っていく。

「問題は解決しましたよね? 飼わないんですか?」

「僕が猫を飼う……」

 先ほどの安請け合いと比べれば格段に進歩しているように思えた。

 猫を飼い始めることは簡単にできる。問題は、どれだけ猫の幸せを実現させてやれるかだ。安全で健康に暮らし、長生きできること、飼い主に甘え、遊んでもらうこと。簡単なようでいて、永遠の二歳児相手だからなかなか思うようにはいかない。努力と忍耐なくして幸せはつかめないのだと、多くの飼い主が実感していることだろう。

 いい兆候だと思いはするものの、そうすると今度は手足を縛られたようなもどかしさに陥ってしまう。

「あの、それで、どうだったのでしょうか」

「えっ、何がです?」

 遠峯の表情は何かを心待ちにするみたいに膨らんでいた。見つめていると、照れ臭そうに脇に顔を背けた。

「ふさわしいかどうか」

 何だか無性におかしくなり、龍也は、こみあげてくる笑いを幾らかこぼした。

「答えはもう少し後でよろしいでしょうか」

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