ネコディネーター よろず相談承り事

拓見享

第1章 ロスタイム

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 〝仔猫を保護したけど威嚇される。拾ったとこに戻してきたほうがいいのだろうか。〟

 SNSのその投稿に対し、〝一度その仔猫を見させていただけますか〟というリプライを送り、それからメールでやりとりを重ねていったのが昨夜のことだった。

 メールに記されていた住所、八王子の市街地の表通りに面した古びた三階建てのマンションは割と簡単に見つかった。頑丈な造りでコンクリートの階段や通路がやけに広く、昭和の遺物といった感じだ。

 最上階まで上ると軽く息切れした。日頃の運動不足がたたっているのだという自戒も、ほろ苦い緊張にのみ込まれていく。

 息が自然に整うに任せ、煤煙に塗れた廊下を進んでいく。四室あるうちの奥から二番目が、彼の部屋ということだった。

 もっとも、彼か彼女か会うまでは定かではない。この住所にしたって本物かどうか。ネットとはそういうものだ。投稿の内容にしてもどこまで切実なものなのかもわからない。

 いや、そうじゃない。たとえ投稿が、悪ノリ、悪ふざけであったとしても、考えを改めてもらいたい。それが目的だった。その覚悟で僕は今日ここへとやってきている。

 腿のところで拳を作り、決意を握り締めたそばから、やる気を削がれてしまっている。

 そう。僕がこれからやろうとしているのはあくまでもおせっかいだ。

 それにもし提案なり説得なりに失敗したら、僕自身が問題を抱え込んでしまうことになりかねない。それは避けなければならなかった。僕には事情がある。僕に猫を飼うことはもうできないのだから。

 塗装が褪めたモスグリーンのスチール製のドアの前に立ち、頭の中を白いペンキで塗りつぶしにかかった。

 そしてインターフォンを鳴らす。

 

 フラップが中に折り込まれたA4サイズの薄汚いダンボールが縦長のダイニングの床の隅に置かれていた。どうやらダンボールごと拾ってきたようだ。

 一見したところ1LDKか。建物は古いが、独り暮らしだったら充分な広さだ。

 窓際に置かれたテーブルの上の写真立てが目に留まった。立ててあるのではなく、写真面を下に天板に伏せられている。

 うわ、かわいい。

 頭の中でつぶやきにしていた。

 ダンボールに近づいていくと、伸び上がってこちらの様子を伺っていた仔猫がひょいと頭を引っ込めた。掌に乗るくらいちっちゃくて、機敏に動いているのが不思議なくらいだ。

 中には新聞紙が敷かれており、その上でくしゃっとなっている小汚いタオルに捕まるようにして、ダンボールの壁の隅に小さな体を押し当てて仔猫は丸くなっていた。

 キジトラで、SNSの画像で見たのより若干色合いが薄く感じられた。生後三ヶ月といったところか。

「手を出すと、シャーって威嚇してくるんですよ」

 ダンボールの底から外の世界を見上げている仔猫と、野原龍也は見つめ合った。

 玄関先で名刺を渡した際、馬鹿丁寧に受け取ってくれた。こちらが小恥ずかしくなるほどに。

 野原の野に原ですね、と、一目瞭然のことを言われ、返答に困った。彼も緊張していたのかもしれない。

 トウミネと彼は名乗った。自分の名前の漢字については、彼は触れなかった。聞き間違いでなければ、遠い峰と書いて遠峰でいいはずだ。

 歳は三十といったところで同年代だ。身なりは清潔、というか、妙にきっちりしている。普段着のはずなのに、アイロンでもかけられているみたいに妙にばりっとしている。部屋の中も、男性の一人暮らし? にしては、片づきすぎている印象で、潔癖症かと少し不安になる。

 猫を飼うことになったら、必ずや洗礼を浴びることになる。猫を飼うということはそういうことなのだ。後ろ脚で喉を掻いて毛を撒き散らす猫の姿を想像し、龍也は心中で密かに笑った。

「ほら、見ていてくださいよ」

 遠峯が床に膝をついて、こわごわ仔猫に手を近づけていくと、仔猫は、シャーっと牙を剥いた。赤い口腔が悪魔じみているが、小さくてかわいらしい牙には思わず笑ってしまいそうになる。

「わっ、うわわっ」と、慌てて手を引っ込めた遠峯が、「ほ、ほら、ねっ、ねっ」と、同意を求めてくる。

 遠峯の隣で床に膝をついていた龍也は、深刻ぶった顔つきで頷きを返した。

「だからいったじゃないですか。無理なんですよ。飼えませんって」

「困りましたね」

「ええ、だから拾った場所に戻してくるべきだって」

「困りました」

「は……い?」

「遠峯さん、あなたは保護した責任を放棄しようとなさっています」

 目を点にして、遠峯が固まってしまった。

「えっと……何をおっしゃっているのか……わからないんですけど。あなたは、コーディネーターさんでしたよね」

「はい、ただのコーディネーターです」

「ですよね。だから来てもらった。そのぉ、動物愛護とかそんな団体の人じゃない?」

「ええ」

「ですよね。だったら面倒に思って断っていました」

 龍也は笑みを浮かべて聞いていたが、いまにもその笑みが自分の顔からはがれ落ちてしまいそうで、内心当惑していた。

「もう用は済んだんですよね。せっかく来てもらいましたけど、この通り、無理だってわかってもらえたでしょ」

 後はもう帰るしかない雰囲気になっている。

 もちろんこのまま帰ることはできる。その場合。僕は一定期間、それが一週間なのか一か月なのかわからないけど、今日の事が記憶から抜け落ちるまで後悔に苛まれることになるだろう。あいにくだが、僕は人一倍物覚えがいいときてる。

「その前に責任について、話をさせてください」

「責任って……ですから何で僕がそんな……なんなんです? もう、いい加減にしてくださいよ」

 遠峯が、上体を反らし気味にし、怪訝な顔つきで見つめてきた。

「お話しさせていただくまでは帰れません」

 遠峯が、あきれた様子で、これみよがしに尖った溜息を吐く。

 それから、床に両足のつま先を立てて踵に尻をつけた跪座の状態で腿に手を突き、顔を脇に背けてしばらく考えた後で、「わかりましたよ」と、観念した様子でもう一度、ふうっ、と、苦笑混じりの短い溜息を吐いてみせた。

「あなたがこのコを保護してからどれくらい経ちましたか?」

「えっと……一日……いや時間にしたら二十時間くらいかな。それがどうかしましたか」

 遠峯は毅然と言ってのける。そこに悪びれたところは一切ない。

 ふと、自分のやっていること、これからやろうとしていることのすべてが無意味なのだといった徒労感に龍也は襲われた。心にエアポケットが生じたみたいだった。

 現実というものは、にこやかな顔をして圧倒的な無力感というものを突きつけてくるものだ。人間なんてちっぽけな存在だと常々思い知らされている。だからこそやれるぶんはベストを尽くしたい。それが僕にとってのせめてもの抵抗、生きるということなのだという気がする。

 ただ、理想と現実とは違う。大抵は妥協や溜息にすり替わってしまう。

 自分か他人か。たったそれだけの違いなのに、世の中ままならないことばかり。それがとてつもなく大きな差異に思えてくる。

 不調和、無理解、諍い……人間の、それは宿命なのかもしれない。個が個であることは進化の為に必要なことだ。嫌な思いをしても他人と付き合うことも、それと似たようなものなのだろう。

 自分と馬が合う人たちとだけ付き合っていれば精神的に退化する。だからたちえそれが苦痛であっても他人と関わっていく。それが自分を変えるということにつながる気がするから。

「……仮にあなたがこのコを保護していなかったとしますね。その場合、他の誰かがこのコを保護して今頃は飼う決意を固めていたかもしれません。いや、もう家族の一員として暮らし始めていたかもしれない。遠峯さん、あなたはその機会を奪ったことになるのかもしれないんですよ」

 遠峯は、身に覚えのない罪を宣告された者みたいに唖然となった。言葉がせめぎ合い、溢れ返りそうになって彼の口はしばらくもごもごと蠢いた。やがてそれが声になっていく。

「そんなの……こ、こじつけだ。何とでも言えますよね。僕が保護してなかったら、車に轢かれていたかもしれないし、野良犬に食べられていたかもしれないじゃないですか」

 そうかもしれない。運命とは、命とはそういうものだ。だったらなおさらだ。

「確かに。そういう可能性がまったくないとは言えません。でもピンチから救ったかもしれないと同時にチャンスを奪ったのも紛れもない。これは紛れもない事実です。たとえ可能性であってもそこから目を逸らすことはして欲しくありません」

「ほんとに何なんですか、あなたは」

「このコはあなたに保護され、いまひとときの安らぎの中にいます。それもまた事実です。それがこのコが持っていた強運なのだと僕は信じたい。あ、それと、野良犬はこちらの地域には皆無といってよい状態でしょう。このコの大きさですと、カラスにはさらわれてしまうでしょうけど」

「カラス……」

「ええ、仔猫の天敵ですね。しかしこのコだったら何とか切り抜けることができたかもしれません。何せ敵を威嚇するのが上手ですからね」

「言いがかりだ。そんなことを言って、僕にどうしろと……」

「責任について、少し考えていただきたかっただけですよ」

 遠峯の目が、ダンボールの中の仔猫に向けられる。

 仔猫は、いつの間にか横に丸くなって目を閉じていた。キジトラ模様が薄まったお腹のあたりの白っぽい毛がゆっくりと上下している。

「さっきあなたは敵を威嚇するって言いましたよね。ということはこの僕を敵だと見做しているってことですよね」

「確かに、そうですね。ただ、このコがあなたを敵と認識しているかどうかは、このコ自身にもわかっていないのかもしれません」

「なんなんです。どういう意味ですか」

「そのうちわかると思います」

 アー、と、苛立だしげに唸った遠峯は、立ち上がってキッチンへと向かった。

 どうやらコーヒーを飲みたくなったらしい。二人分淹れてくれるようだ。予期せぬことに心が和んだ。

 猫たちだって、路上で睨み合って唸っている最中にマタタビを投入してやったらたちどころに諍いを解消できるはずだ。

「どうぞ」

 声の調子には若干の不機嫌さが滲んでいた。ソーサーごと小さめのカップを渡された。

「ご親切に。これはどうも」

「……いえ。せっかく来ていただいたんですからコーヒーくらい淹れますよ。まあ、僕が飲みたかったというのもありますけど。あ、ブラックでよかったですか?」

「ええ」

 受け取ったソーサーを片手に持ったまま、一口、二口と飲み進めていく。インスタントも馬鹿にはできない。ネスカフェゴールドブレンドは自分も愛飲している。 

「ところで、猫をお飼いになったことはないんですよね」

 遠峯が、顔を背けておいてから頷いて見せる。

 だから何だ、それがどうした、と言わんばかりだ。

 確認しておきたかっただけだ。猫を飼ったことがない者にとってはその程度の認識でも仕方ない。だが猫の飼育歴のあるなしが、その後の人生を左右することもある。それほどに、猫の存在は人間にとって大切なものなのだという気がしている。

「どうして保護したのですか?」

 返事をすることなく、彼の視線は、テーブルがある窓際へと向けられた。

「何かきっかけでもあったのでしょうか……」

 はっと我に返った様子で、遠峯の視線がテーブルから戻ってくる。

「それは……たまたま見つけてかわいそうに思って……」

 どこか釈然とできないまま、龍也は、しばし彼の顔に目を奪われていた。

「見過ごすこともできたのにそうしなかった。たまたま見つけてとおっしゃいましたけど、類の猫好きというわけでもなさそうです。へんですね」

 いまにも鼻歌でも飛び出しそうなほど、彼は狼狽えた様子だった。

「もし威嚇せずになついてくれていたとしたら、あなたはあのコを飼われていたのですよね?」

 話の途中から詰問口調にならないよう注意した。小さな質問を繰り返してノーと言わさないようにするイエステイキングという手法がある。それを意識したわけではない。自身が取った行動を見つめ直して欲しかっただけだ。

 彼は、龍也の目を見返してきた。が、すぐに視線が引き剥がされる。彼の中の葛藤を見る思いがした。

「飼おうと思ったから連れて帰ってきた。つぶやいたのだって、解決策が見つかるかもしれないと思ったからですよね?」

 何かを言いかけてそのまま彼の顎が落ちる。

「状況が改善できれば問題はなくなるわけですよね?」

 彼の顔に浮き出た心の裡を一瞬つかみかけたと思った。でも指の間からすり抜けていくようにそれは遠退いていく。

「どうして……」

「何がです?」

「どうしてそんなに、その……熱心に……」

「そうですね……それが僕の使命だと思っているからです」

「使命?」

 彼が目を丸くして聞き返してくる。龍也自身、自らが言ったその言葉に動揺していた。他人の声になって耳を通過してくると、とてもえぐい感じがする。

 思わず彼の視線から逃れるようにして顔を逸らしていた。

 沈黙に成り行きを任せた。

 失敗か成功かで言えば、僕は失敗したのだと思った。

 見ず知らずの他人の思いになど誰も興味は持たない。相手の行動原理なんて聞かされても迷惑なだけだろう。

「あの、よろしかった……」

 小さな声だったので最初うまく聞き取れなかった。気が漫ろになっていたというのもあるのだろう。対応しきれず呆けた顔を晒す龍也を置いて、彼はテーブルへと向かっていた。そこで初めてテーブルに案内されたのだとわかった。

 コーヒーのおかわりが運ばれてきた。それを龍也が一口飲んだところから、ぽつぽつと彼は話し始めた。

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