消えゆく

 いつもと変わらない朝だった。顔より少し上にある窓から日差しがこぼれるのを見つめながら、昨日までの自分を振り返る。どん底に見える世界は一つのきっかけでいとも簡単に普通の生活に溶け込んだ。噂好きの町の人達が今頃朝ご飯の食卓で私の話をしているのだろう。意外にもこの町の生活を受け入れようとしている自分に内心一番驚いてはいたが、それは社会人としての慣れが功を奏したと思っておくことにした。掛布団を少したたんで布団から起き上がる。長年ベッドで寝ていたからか床の布団はなかなかに背中へのダメージがすごいと身をもって経験できた。今日は買い揃えたい物があるだろうと気を利かせてくれた祖父は、昨日「明後日からよろしく」と言って寝床に入ったのを思い出して、大きく背伸びを何度かした後、布団を部屋の隅に追いやって、寝間着から出かける用の服に着替えて部屋を出た。

 部屋を出て通路の突き当りの所から階段を降りると、トイレと洗面所が並んでいる。洗面所のドアを開けて目の前にある鏡を見る。鏡が汚れていたのか自分が酷い顔をしていたのか分からないけれど、鏡を見るのをやめて顔を洗う。後ろから祖父が階段を降りてきた。

「おはよう」

「おはよう、買い物は何処に行く予定なんだ」

「隣町のショッピングモールの予定だけど……」

 祖父は少し考える素振りをしてから「そうか」と言って台所に向かった。顔を洗ってから、台所に行くと朝食になるであろう食材が並んでいた。私は祖父の隣に立って朝食の手伝いを始めた。幸い一人暮らしが長かったので、家事の手伝いはすぐに出来た。出来上がった朝食を机に並べて向かい合って「いただきます」と言い合って箸を伸ばす。

 久しぶりだった。いつでも部屋で聞こえる音は生活音とテレビからこぼれる芸能人の無駄に明るい声だった。誰かにおはようと言うのもいただきますと言うのもいつぶりだろうか……そう振り返りを頭の中で巡らせて料理を口に運ぶ。ほど良く温かい味噌汁は体の中に染み込んできて、自然とふうっと言ってしまいたくなる。そしてそれを見た祖父は少し得意げの顔をしてまたおかずを食べる。私もそんな祖父の姿を見れたことがなんだか嬉しくて、残りのおかずに手を伸ばす。

「ねえ、明日は私が作ってもいい?」

「なんだ自慢の料理でもあるのか?」

「まあそういうわけじゃないけど……」

「まあ誰かに作ってもらった料理を食べるのはいつになっても楽しいもんだ。期待してるよ」そう言うと残り一つのハムを口に運んで皿の上に乗っていた料理をたいらげる。

 私もそれに倣って最後まで残しておいた肉団子を口に入れる。

「ごちそうさまでした」そう伝えてから台所に行きお皿を洗いに出す。祖父の分も洗うというと「そうか、ありがたい」と言って自分の部屋に行ってしまった。私は自分の分も含めて洗い始める。

 洗い終わって二階に戻り支度をしているとノックが響いた。

「はい」

「梨花さん昨日ぶりの颯です」

 思わぬ人物に戸惑い返事を返すのを忘れていると

「すみません、突然来ちゃって。昨日梨花さんが買い物に行くって聞いて荷物持ちにどうかと思って」

「あ、えっと……」断る理由が見つからなかったので私はお願いすることにした。


 玄関の横の部屋で作業をする祖父に一言声をかけてショッピングモールに向かった。バスが十五分後に来るのが張り紙で分かり私はバス停で待っていると「少し待っててください」夕凪さんはそう言うと足早にどこかに行ってしまった。

 いきなり自分と年が近い人が引っ越してきて、こんなに親切にできるのだろうかと私は自分の性格と比べて考えてみた。

 私だったら極力関わらないでおこうとしてしまうかもしれない。

 そんな事を考えていると足元に綿毛がなでるような感覚がして、慌てて下を見るとあながち間違っていないのではないかと思うほど、綿毛のようにフワフワとした綺麗な茶色の毛並みをした猫が私の足元に座っていた。

「綺麗……」そう言ってゆっくりとしゃがんで猫の頭を軽く撫でる。猫は天色の目をこちらに向けてすぐに顔をそむけた。

 私は何だか懐かしさを感じて夕凪さんが帰ってくる間猫の頭を撫でていた。幼い頃猫は何となく怖く感じていた。端整な顔立ちにまっすぐな瞳でこちらを見る様子に幼い頃から居心地の悪さを感じていた。だけど大人になった今見つめられたその瞳からは温かさを感じた。しばらくすると足音が私よりも先に聞こえた猫が、立ち上がって伸びをして塀に軽々と登っていった。その姿を眺めていると両手に一つずつ缶ジュースを持ってきた夕凪さんが「お待たせしました」と言って両手を向けた。

 右手にはオレンジジュース、左手にはリンゴジュースがあった。

「ありがとうございます」と言って手に取ったのはリンゴジュースで

「やっぱり。なんだかそんな感じがして」

「リンゴが好きそうって?」

「はい、ほんとに何となくですけど。僕も好きなのでなんだか嬉しいです」

「でもそれオレンジじゃ……」

「丁度売り切れたんです」

 そんなわけないとは思ったが「ごちそうさまです」とだけ言った。


 そこにのどかな景色に揺られてバスが目の前に停まった。私たちしかいないバス停はすぐに走り出した。バスの一番後ろの席から一つ前の席に着くと、夕凪さんが私が座った席の隣を指さしていたので、「どうぞ」と会釈と共に言うと「失礼します」と言って座ってから、会話は愚か目も合うことはなかった。


 静寂の中での窓の外の景色はより一層のどかさを増していた。

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