お茶のお作法 第二煎目「雪の果て」

以知記

第二煎目「雪の果て」(1)

『検察官は法廷で陳述する時、また証人の証言を聞く時、どちらも常にどのような言葉を選んでいるのか、細心の注意を払わなければならない。それはどのような語り部よりも雄弁で、すべての時代の詩人よりも繊細でなければならない。』


 一見、矛盾しているともとれるこの言葉は、僕が検察官になると決まった時に、父が教えてくれたものだ。どうやら父の仲間の、ある検察官から言われたらしいのだが、それが誰なのかは教えてはもらえなかった。

 雄弁なのに繊細とは、実践しようとするとなかなか難しいことである。しかし、誰かの人生を左右する職業を選んだからには、あえて困難なことを実践しなければ検察官としての言動が伴わず、真実は何なのかを公にできないからなのではないかと、僕は解釈していた。

 小さい頃から憧れてきた父の背中を追いかけ、今の僕は東京地方検察庁で検事の職に就いている。検察官の先輩である父の言葉を胸に、僕は今日まで様々な人々に出会い、そして法廷に立ってきた。被告人や被害者をはじめ、証人も含めると、検察官も警察官も、他のどんな職業にも負けないほど、たくさんの人の生き様に接しているのだなと、実感せずにはいられない。

 ある時は無実を訴える被疑者の話を聞き、ある時は被害者の家族の悲痛な声を聞き、ある時は目撃者の証言を手元の資料と照らし合わせながら聞き……『毎日誰かの話を聞き精査する』、文字にすればたった13文字のことに、僕を含めた検察官は膨大な時間を割く。

 なぜならば、僕の手元にある資料というのは、何かしらの被害に遭ってしまわれた人の訴えをもとに、多くの警察官が捜査をし、導き出された結論から被疑者を特定し、取り調べを行い、検察へと送検されるその過程では、警察官たちが時には膨大な人数の聞き込みから目撃情報を探したり、証拠や証言の信ぴょう性の裏付けをとるなど、誰かの『痛み』のために、本当に多くの人が関わり、時間と労力を惜しまずに作られたものだからだ。

 それでも、見る人が変わると事件の様相が違って見えてしまい、そして本当に過ちを見つけた場合には、なぜそうなったのかというところまでを検討しなければならないこともある。たとえ、相手がよく知った警察官による捜査からできた調書であっても、手心を加えてはいけないのだ。

 そんな厳しい毎日を過ごしてきた三月のある日、まるで春の嵐のような出来事が起きた。




「た、たかっ……高西検事っ!高西検事ぃぃぃ!」


 聴取が終わり、一息ついていた僕の名前を何度も呼ぶ声とともに、何か良くないものでも見たかのような、必死の形相で部屋へ入ってきたのは、僕の担当事務官を務めてくださっている尾長さんだ。

 彼の名誉のために一言添えさせていただくと、尾長さんは、ここ東京地検でトップクラスの優秀な事務官で、普段このように慌てふためくことなどないのだ。

 そして、いつもとは違う光景が見られる時、人はなぜか決まって、静かに過ごすことができないということも付け足しておこう。


「落ち着いて下さい、どうしたのですか?あなたがそのように慌てておられるなんて珍しいですね?」

「お、おお落ち着けませんよ!高西検事!高西検事にお客様がいらっしゃっていると受付から連絡がありましてっ」

「お客様?私にですか?」

「それがですね、あっ…!」


 僕の部屋のドアがノックされると、僕や尾長さんの返事を待つことなく、ドアが開けられた。ドアの向こうから見えた人物に、尾長さんほどの有能な事務官をここまで慌てふためかせたことを、なるほどと納得した。


「冴夕くん!元気だったかい?」

「ご無沙汰しております。」


 突然の訪問者、矢羽さんは父の部下だった方で、なおかつ父が盟友と呼ぶ人だ。

 僕のことを『高西』と苗字で呼ぶのではなく、『冴夕(さゆ)』と名前で呼んで、懐かしい笑顔そのままに部屋の中へ入ってこられるから、僕もつい笑顔になってしまう。

 矢羽さんが変わらないままでいてくださることが、僕はなぜだかとても嬉しいと思うのだ。

 そう思うからこそ、礼を尽くさねばならないことがあった。


「矢羽検事正、この度は東京高検検事長への異動、おめでとうございます。」


 矢羽さんは今年の春の人事異動で、東京高等検察庁のトップである、検事長に就任することが発表されたばかりだ。

 なかなか会えない人だからこそ、この機会を逃さずにお祝いの気持ちをお伝えしたかった。

 そんな次期東京高検検事長と僕の会話を初めて聞いた尾長さんは、さすがにかなり驚いていたようだが、そこは東京地検トップクラスの敏腕事務官だ。自分が呆然と立ち尽くしていると気が付いたようで、矢羽さんと僕の二人分のお茶を用意しようとテキパキと動き始めた。

 いくらここが東京地検という、検察庁のひとつの機関だからと言って、次の東京高等検察庁のトップがこんなにも気軽に検事室まで訪れたら、誰でも驚くというものだ。それでも僕が驚かないのは、毎年何かしらの行事で家族ぐるみで過ごしているためだ。もっとも、僕は検事になってからはそう頻繁に参加できてはいないのだが。


「冴夕くん、そんな他人行儀な・・・。」

「申し訳ございません、只今、勤務中でございます。」

「あぁ、そうだね、冴夕くんはそういう子だったね……。」


 矢羽さんは椅子に座りながら、「相変わらず親父さんとそっくりだ」と小声で言ったつもりらしいが、僕のところまでしっかり聞こえてきた。

 そんな矢羽さんが座った椅子は、被疑者や証人が聴取の際に座る椅子なので、矢羽さんの行動をそっと観察していたらしい尾長さんが、驚いた様子で僕に声をかけた。


「検事、応接室を借りてきましょうか?」


 そっと耳打ちする尾長さんの提案を、僕が決めるよりも矢羽さんにお聞きするのがいいと思い、僕から矢羽さんに伝えさせていただくことにした。


「よろしければ別室をご用意致しましょうか?」

「いや、ここでいいよ。検事の現場も、たまには見ておかないと感覚が悪くなってしまうからなぁ。」

「応接室ではないので、あまりいい椅子ではありませんが、どうぞごゆっくりおくつろぎくださいませ。」

「ぜひそうさせてもらうよ。」


 矢羽さんはそうおっしゃると、うーんと背伸びをして、椅子の具合を確かめ始めた。

 確かに、矢羽さんが被告や証人の椅子に座ることなんて経験はおありではないだろう。僕も聴取をした相手の気持ちを推察する時に、僕の立ち位置から被告のいた場所へ移動することはあるが、被告が座っていた椅子にはよほどのことがないと座らない。

 きっと矢羽さんは今、新鮮な気持ちでその場におられるのだろうが、それをちらちらと見ている尾長さんは非常に落ち着かない様子だ。事務官という立場からすれば当然だと思う。

 僕は尾長さんに二度、小さく頷いて「大丈夫ですよ」という合図を送ると、尾長さんは観念したような表情でお茶の用意を再開してくださった。

 そんな尾長さんの気持ちに気が付いているのかどうかわからない矢羽さんが、「そうそう」と小声で言いながら膝をパンと叩いた。


「今日はね、君に見せたいものがあって来たんだ。」

「私にですか?」

「あぁそうだよ…今日は冴夕くんの仕事はないと聞いてきたんだ……これだよ。」


 僕の仕事はもうないというのはどこからの情報だ、これから読まねばならない資料があるのだが。

 矢羽さんは僕の気持ちに気が付く様子もなく、僕の返事を待たずに、ご自身の鞄から封筒を取り出した。それは何らかの資料が入っているとわかる大きさの封筒だ。


「冴夕くん。これは、君がひとりの検事として、また、高西冴夕という君個人として、二つの立場で冷静に見られるようになった時に、君に読んでもらいたいと思っていたんだ。」

「どういった事件なのでしょうか?」

「親父さんかお母さんからある程度のことを聞いていると思っていたんだが・・・ならば、あの事件の公判調書を読んだことはないのかい?」

「母も知っているのですか?…あぁ、そういえば一度だけ、僕の名前の由来になった事件があると、母から聞いたことがありますが、それがどのような事件なのかまでは存じ上げません。」

「ふむ、そうか…もしかしたらすでに見たことがあるかもしれないと思っていたが…まぁ、冴夕くんならば、これを見せても俺は心配はいらないと思うけど、それでも親父さんは冴夕くんに見せなかった、聞かせなかったってことは、高西さんもひとりの父親であり、また立派な検察官だったってことだよ。」


 矢羽さんの言っていることを今ひとつ理解できないまま、その封筒を受け取り、中に入っているものを確認すると、刑事事件の公判調書と書かれたディスクが入っていた。日付は昭和と記されている。どうやら古い公判調書のようだ。おそらく、膨大な量となった紙の資料の保全のため、ディスクでも保存されているものなのだろう。


「冴夕くんがどんな人間か、みんなもちゃんと見極めた方がいい。そう思わないか?事務官くん?」

「検事長の仰る通りでございます!高西検事は、それはそれは聡明で……」


 僕は尾長さんのことを、東京地検きっての敏腕事務官だと思っているが、唯一の弱点は、僕に対する評価が異常に甘いことだ。かいかぶりすぎだと言っても取り合ってもらえないから、尾長さんがこの状態になったら、僕は仕事に集中することにしている。

 あと、細かいことを言って申し訳ないが、その人はまだ検事正で、検事長になるのは4月からだ。

 尾長さんの話を矢羽さんが聞かされている間に、僕は公判調書を読むためにパソコンを起動させながら、視界に入ってくる二人の様子を観察してみた。

 東京高検のトップと東京地検の事務官が、事件に全く関係ない話で熱く語り合っている光景など、これまでに見たことのある人はいるのだろうか?そもそも、もっと違う話題で盛り上がれば良いものを…とは言ったものの、尾長さんという人は、無駄話をしているように見えて、実は聞かれたくない話題から別の話題にそらすのが上手いという長所があり、この状況も僕にとってはさして不思議なものでもないので、話の内容は気にしないでおこう。

 次期東京高検のトップを手玉にとる事務官…ふむ、今度の査定では評価を上げておかねばなるまい。

 目の前の二人の矛先が僕に向く前に、どうにか公判調書を読み込むことができたので、僕は右手をマウスにのせ、目の前にある電子化された公判調書を読むべく、ファイルを開いた。

 すぐに立ち上がった公判調書は、僕が生まれる約一か月前の事件の調書だった。


『京都地方裁判所 事件番号 昭和55年(刑)第〇〇〇号

事件発生日時 昭和55年2月20日 午前11時30分

事件発生場所 京都市・・・・・・』


 …確か学生時代のゼミの中で、京都市内の中心地とも呼べる場所で、しかも白昼堂々起きた謎の多い事件があったと聞いたことがあるが、この公判調書はもしかすると、その事件の公判調書だろうか。

 あの時は『あいつ』に邪魔されてしまったせいで調べられなかったことを、今頃になって思い出すとは…そんなことを思いながら画面に映し出される公判調書を読み進めていたが、ある部分が気になり、画面をスクロールする手が止まった。


『被害者 ・・・・・・〇〇〇〇、〇〇〇〇、高西京子(タカニシミヤコ)・・・・・・』


 高西京子、僕の母だ。

 いや、同姓同名の別人かもしれないし、母かもしれない、という程度にして読まなければならないと、理性ではわかっているものの、直感的なものがこの名前の人物を『母』だと信じて疑わないのだ。

 さらに驚いたのが、担当検事が矢羽さんとなっていることだ。

 確かに事件が起きたこの年、父は京都地検に赴任していると聞いていたし、母や姉たちも一緒だったと聞いたことがある。そして担当検事が矢羽さんならば、この時から矢羽さんと父にはつながりがあったということになる。

 視界のわずかな隙間で、矢羽さんが鋭い目をしてこちらを見ているのがわかる。どうやら僕が驚いているのに気が付いたようだ。おそらくは、僕が母と思われる名前を公判調書に見つけ驚いているというところまで見抜かれているのではないか。そして、僕が信頼する有能な事務官もまた、僕の異変に気が付いたのだろう。 


「高西検事、お茶が入りました。おかわりもどうぞおっしゃってくださいね。」

「ありがとうございます。」


 先にお茶を出すべき相手が目の前にいても、僕が優先だと思えば尾長さんは実行する。

 今、尾長さんが僕を優先したほど、僕は動揺して見えるのだろう。


「いただきます。」


 淹れていただいた緑茶を飲み、まだ僕の話をしている二人の様子をモニター越しに確かめてから、調書の続きを読み進めた。


 公判調書によると、昭和53年2月20日午前11時30分、京都市下京区にある牡丹銀行京都支店に〇人組の強盗が押し入った。事件発生当時、銀行内にいた行員と、来店していた一般客10人が人質となった。

 母はそのうちの一人ということか。僕が言うのもなんだが、そんな身重の時になぜ一人で銀行に行ったのか…銀行に行った時間からして、もしかすると父の昼休みに合うようにしたのかもしれない。

 活字で残された公判調書、安全上の理由で極秘扱いの資料として提出されている銀行の図面、そして僕の記憶している京都の四条烏丸を思い浮かべながら、この公判調書にある冒頭陳述を実際にイメージするとどうなるのだろうかと、頭の中でシミュレーションし始めた。



 昭和53年2月20日、この日の京都市内は朝から小雪がちらつき、時間を追うごとに天候が悪化する予報となっていたところに、年度末決算直前の締め日である会社が多い日ということも重なったため、牡丹銀行京都支店も、はす向かいにある北辰銀行京都支店も朝から利用客が多く、両行を行き来する人も少なくなかったという。

 牡丹銀行の防犯カメラの映像から、客足が落ち着き始めたのは午前11時すぎ、午前11時25分ごろの待合スペースには9人の利用客がいた。そこへ、四条烏丸の交差点に面した入り口から入ってきたのが、10人目の被害者となった高西京子であった。

 高西京子が待合スペースの椅子に座った直後の11時30分、犯人グループが「静かにしろ」「動くな」と叫びながら現場を掌握。なお、入り口に設置されていた防犯カメラに映っていた被告は二人で、その二人によって待合スペースを映すすべての防犯カメラが破壊されている。

 事件発生時、利用客は全員待合スペースの椅子に座っている状態であった。犯人は複数、目撃証言によれば、正面入り口から入ったとは思えず、まるで銀行内から湧いて出てきたかのように現れ、牡丹銀行京都支店内をあっという間に占拠してしまったという証言が多数ある。

 犯人は全員住所不定無職の被告人・・・・・・他にも少なくとも一人ないし二人が現場に居合わせた可能性があるという証言もある。



 ……これはどういうことだろう?強盗犯は全員が逮捕のち送検されたわけではないということか?……



 被告1は、女性行員に対し拳銃のようなものを見せて脅すと、まず、四条烏丸に面した入り口の鍵を閉めさせ、シャッターを下ろすよう指示。そして被告2以下全員は、結束バンドと呼ばれる、配線を留めるための道具を使って、一般客と行員全員の手を固定し、同時に目隠しも行われた。

 その際、犯人グループのひとりが「烏丸四条の入り口は閉めたんか?」と大きな声で叫んだのを何人も聞いている。

 女性行員2が被告人1から、金庫はどこかと言われ、自分は金庫の鍵を開けられないので無理だと答えた。すると、被告1は「金庫に連れて行ってくれたらそれでいい」と言うので、女性行員2が躊躇ったところ、拳銃と思しき凶器で脅されたため、怖くなって被告に従い、金庫まで誘導した。誘導したのは被告1とあと三人、その他は受付などで人質を見張っていた。

 金庫の前まで来ると、女性行員2は目隠しされ、動かないようにと言われた。そのすぐあと、小さな金属音が少し聞こえたのち、「これくらいは朝飯前や。」という、被告1ではない男の声が聞こえた直後、ガコンという大きな音がし、急に風が吹き込んできたため、女性行員2は「金庫を開けられた」とわかったと証言いている。

 警察および検察の調書によると、女性行員2に金庫まで案内させ、騒がれないようにするために目隠しをしたあと、すぐに金庫の鍵を解除、中にある現金を盗み出したと供述している。事件直後の現場検証で、牡丹銀行京都支店の金庫内に保管されているものの記録と照らし合わせたところ、被害額は一億円と、預けられていた宝石数点と判明。なお、この宝石はいまだに見つかっておらず、被告人はいずれも宝石は盗んでいない、宝石があったことも知らないと供述している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お茶のお作法 第二煎目「雪の果て」 以知記 @ichiki_info

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ