プウシオ

ピーター・モリソン

プウシオ

「また老けたわね、母さん」

 娘が久しぶりにやってきた。わざと聞こえるように溜息をつく。その表情から、彼女が不機嫌なのはよくわかった。

 そう言えば最近、娘が笑っているのを見たことがない。

「どういうつもり?」

 リビングで本を読んでいたわたしの前に座り、娘はこちらを覗き込んできた。

 わたしは本に栞を挟み、娘に目をくれず、出窓の一輪挿しを眺めた。庭先で育てた花を、硝子の花瓶に生けたところだった。

「ちゃんとこっちを見て」

 娘の実年齢は五十歳、肉体年齢は二十三歳に調整されている。彼女は輝かしい若さを取り戻し、保持していた。プウシオが登場して以来、ほとんどの人々は実年齢と肉体年齢、その二つの年齢を持つようになった。

「ねえ、母さん……」

 感情を抑えつつ、わたしをさとそうとする。何度もそうしたように……。

「どうしてプウシオをつかってくれないの?」

 プウシオは中国で開発された特殊な酵素だ。その酵素は細胞の分裂制限を外すばかりか、所望の年齢まで若返らせることができる。……朽ちないもの、プウシオとはそれを意味する言葉らしい。

「それについては前に説明したけど……」

 わたしは辟易した様子を露わにした。

「母さんは何もわかっていない」

 娘はバッグからピルケースを取り出し、その中身をローテーブルの上に並べた。プウシオは茶褐色で、少し大きめの楕円形の錠剤だ。国内治験が終了すると、安価で世界へ供給された。それによって、人間の死生観は瞬く間に、根底から変えられてしまった。

「飲むだけでいい、母さんだって知ってるよね」

 確かに。……以前、わたしもプウシオをつかったことがある。誰もがそうするように、段階的な投薬を繰り返し、徐々に若さを取り戻していった。皺やくすみが消え、肌に張りが甦ってくる。もちろん、体感できる効能はそれだけじゃない。若さの素晴らしさを再び知ることになる。鏡の中で変わりゆく自分の姿に、わたしは確かに嬉々とした。

 しかし、それも長くは続かなかった。培ってきた年輪を剥ぎ取られる、何か大切なものをどんどん失っている、そんな気がして落ち着かなくなった。

 鏡の中に、本当のわたしはいるのか? そのわたしが笑っても、本当のわたしはちっとも笑ってなかった。……違和感は日増しに大きくなり、とうとうそれを抑えられなくなった。

 わたしはプウシオをやめた。半年前のことだ。しかるべき医療機関で、プウシオを打ち消す特別な処理を受けた。多額の費用はかかったが、その判断に後悔はない。徐々にプウシオの効果が消え、わたしの肉体年齢は実年齢の八十に追いついたところだった。

 それが娘には、気に入らないのだ。

「何が不満? 家族を困らせたいの?」

 いつの間にか、死は敗北であり、罪であり、愚かなことだとされていた。自ら死を迎えようとする人々は、無責任な裏切り者とうしろ指を差される、そんな風潮が広がっていた。

「母さんにとって、私は大事な存在じゃないの?」

「それとこれとは話が違う。自分のことは自分で決めたいの。……ただそれだけよ」

「母さんの我が儘にしか聞こえない」

 娘は大げさに両手を広げた。

「あなたにはわからないかもしれないけれど、人には人にふさわしい時間が用意されている。永遠なんてとんでもない。人生は旅のようなもの。旅には始まりがあり、終わりがある」

「母さんは一時の感情に翻弄されて、命を粗末にしようとしているだけ。文明を得た私達は石器時代にはもう戻れない。人は環境に応じて、生き方を変えるべきだと思う」

 取りつく島など、なさそうだ。

 わたしは肩を落とし、背中を丸めた。プウシオが広がる以前は、人生をまっとうして死を迎えることに何の問題もなかった。突然、人生に季節がなくなった。経済的な問題のみが重要視され、死より貧困を恐れ、仕事にしがみつき、子供を育てる余裕をなくしている。

「母さんはこのままみすぼらしく、汚らしくなっていくのよ。自分のことすらできなくなる。お風呂や、トイレも。そんな母さんを誰が世話するの?」

 なぜ、こんな言われ方をしなくてはならないのか。ただ、厳かで安らかな終わりに抱かれたいだけなのに……。

「施設に入ろうと思う。同じ志の人たちと一緒に暮らすつもり……。あなたには迷惑をかけない」

「もう、いい加減にして!」

 娘は錠剤を掴んで、わたしに投げつけた。

 プウシオはわたしに当たり、ばらばらとリビングの床に転がった。

「飲むだけよ、なぜそれができないのよ!」

 娘はそう言い放ち、足早に部屋を出ていった。

 彼女の気配が消えるのを待ってから、わたしはゆっくりと立ち上がった。塵取りと箒を取り出し、散らばったプウシオを集め、トイレに流した。

 大きく息をつくと、娘が小さかった頃のことを思い出した。懐かしい世界へ帰りたかった。幼き娘は両手を広げ、わたしに向かってくる。

〈お母さん……〉

 しかし、わたしはもう寄り添わない。そう、何度も何度も悩んで決めたのだから……。

 ふと、足元に集め損ねた一錠を見つけ、拾い上げた。テーブルの上に置いて、指先で弾く。それは軽々しく滑って、読みかけの本に当たり、かたりと止まった。

 深く目を閉じて、心を澄ます。

 じゃあね。

 笑って、娘にそう言おうと思っている。

 そのときが来たら、愛を込めて……。

 元気で。


〈了〉

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プウシオ ピーター・モリソン @peter_morrison

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