四ツ谷秋雪④

 恋愛は、バカで欲深く醜い、ベタベタ甘ったるくて気持ち悪いものだ、と彼女は言った。

 でも、本心は違う。口では悪ぶっているけれど、誰かに好かれたいと思っているはず。でなきゃ、あんな甘い曲を毎日聴くわけがない。

 ただ「恋愛ごと」に片足を突っ込みたくないのは身内の不正が原因なんだろう。そんな風に壁をつくられてしまえば、それを破壊してまで彼女を振り向かせようなんて出来ない。告白がもし逆効果だったら、俺はもう初夏さんと一緒にはいられない気がしてくる。

 重たい。

 彼女がまとう壁が厚い。それを壊すほどの度胸が俺にはない。

 情けないけれど、どうしても俺は初夏さんと歳が二つ離れているし、彼女が部室に来なくなってもうひと月は経っているし、校舎ですれ違っても目を合わせてくれない。

 彼女のためだと思って何もせずにいるのが優しさか。俺はただ、臆病なだけじゃないか。

 重さや壁を壊せないくせに、もどかしさだけは一人前。

 名前を呼んで叫びたくなるし、また一緒に買い食いしようとか、写真撮りに行こうとか、部室で話をしようとか、それから……願いは溢れても何もしないでいる。

 遠くなった春。初めて部室に行った時、誰もいなくてびっくりして帰ろうとしたら、伏し目がちの女子が俺を見上げていた。嫌そうに。

「入部?」とふてぶてしく訊いて、彼女はほぼ無言で入部届を差し出してきた。渋々といった様子なのに、案外素直で優しかった。

 俺が撮った写真を見る彼女の、眼鏡のレンズが俺の見た景色を映し出していたことを覚えている。青と白がキレイな夏色の空。それは彼女のお気に入りになったらしく、文化祭の展示は一番大きなフレームに入れてくれた。

 うだる夏は汗ばむうなじに見とれた。苦味一〇〇%の冷えたコーヒーを喉に流しても甘さは増すばかり。

 そんな短い夏のあとに香ばしい秋。ようやく写真の加工を教えてもらって近くなる。そして、薄れる景色の中で彼女が新たな一面を見せるから思わず怯んだ。

 最初から俺は彼女の視線に撃ち抜かれている。

 とても、好きだと思える。好きで好きで堪らない。撃ち抜かれて、今もまだ塞がらない。

 まったく甘くないのに、苦味しかないのに。

 焦がれてしまえば渇いて渇いて、砂漠のように渇いていく。冷たい風も相まって荒んでいくようだった。本当に俺は彼女のことが好きなのか、それさえも疑ってしまう。

 会えなくても我慢できてしまうなんて、そんなの「好き」だと言えるのか。

 冬は冷たい。初夏さんのように冷たい。空は曇ってばかりで、初夏さんが好きな青は見せてくれない。指のファインダーから見ても色は変わらない。

 季節外れの歌をスマホから垂れ流して、俺は寒い部室で彼女が来るのを待っている。

 こうやってもだもだと悩んでいたら、彼女が登場してくれるような、そんな幻想フィクションを期待しているんだろう。俺から動かなければ何も始まらないのに。明日で最後なのに。

 曲は終わりを告げて、また新たな曲へと移り変わる。次は甘さたっぷりの歌。初夏さんが嫌いだと言っていた歌。


 角砂糖で撃ち抜いて

 溶かせば甘い甘い口当たり

 苦味でごまかさないでくれ


 何度も耳に入れた歌。覚えてしまった歌詞を口ずさむ。

 苦味でごまかそうとするのは、俺か。

 それとも……


 ***


 彼女が帰る町を知っている。なんとなく、今ならまだ間に合う気がして寒空の中を走った。白い息と、粉砂糖みたいな雪が目の端を横切る。そろそろ街灯が明るくなる頃だ。

 会える確証はないけれど、駅まで飛び込んで彼女をひたすらに探していた。

 明日から、三年生は学校に来なくなる。会える瞬間はいつでもあったのに、あの人が拒むから会わずにいた。そんな従順でいなくても良かったはずだ。焦りはどんどん募っていく。

「新里先輩!」

 人が増える時間帯。うねる人波をかいくぐって、彼女を探す。

 灰色のマフラーはあまりにも目立たない。それでも、幾度となくあの背中を見てきたから分かる。

 この時間ならまだ駅にいるはずだ。距離が近づいた秋、何度も彼女と別れた定刻まであと数分残っている。階段を駆け上がって見回す。

 ホームの端っこ。そこにいるはず……いた。

 灰色のマフラー。そして、空と同じ色の眼鏡。

「新里先輩!」

 呼んでも彼女は気づいてくれない。

 だから、もっと息を吸い込む。

「初夏さん!」

 白い息がもくもくと口から飛び出していく。いつか見た入道雲のような白。

 それを彼女は見つけてくれた。険しい眉間は相変わらずで、そろりと怪訝にイヤホンを外す。

「どうした、秋雪」

 目立つのが嫌いな人だから、不機嫌になるのは仕方ない。でも、今は彼女の気持ちより俺の方を優先したい。

「すいません。でも、これを逃したらもう会えない気がして」

「はぁ……まぁ、そう、かもだけど」

 俺は先輩の顔を覗き込もうと少しかがんだ。目を見てくれない。近づく俺に、彼女は怯むように一歩下がってしまう。

 ブラックコーヒーみたいな黒い瞳は俺を受け付けない。でも、その瞳を甘くさせたい。苦味を好きにならなきゃいけなかったなんて諦めないで欲しい。

「ねぇ、先輩。こっち向いて」

「嫌だ」

「なんで嫌なんですか」

「お前こそ、なんで急に……」

 チラリと下向きまつ毛が上を見た。

 すかさず初夏さんの冷たい手を握れば、驚きに肩を震わせる。

「あき、ゆき……」

「俺、本当はずっと初夏さんのことが――」

 しかし、その続きは言わせてもらえなかった。空いていた方の手で彼女は俺の口を塞いでしまう。

「待て! 言うな!」

 焦りの中に涙目があった。それを見つければ、上がっていた感情や息は止まる。

「言わないで……せっかく、今まで言わせないようにしてきたのに……」

 初夏さんは眼鏡の奥にある濃い色の瞳を潤ませた。

 言わせないようにしてきた、なんて。この人は本当に意地悪だ。

「じゃあ、気づいてたんだ」

 小さく訊いてみると、彼女はこくりと頷いた。

「どうしても駄目なんですか」

「駄目だよ……だって、どうしたらいいか分からなくなる」

 伝えるのは難しいけれど、受け止める方も難しい。

 でも、

「……苦味でごまかさないで」

 そんなフレーズを出せば、初夏さんは首をかしげた。

「角砂糖で撃ち抜いて。BLACKはごまかしちゃうけど。知ってますよね」

「知ってる、けど」

「ごまかしたいから、甘い方は嫌いなんでしょ」

 彼女は黙り込んで俯く。俺は呆れの笑いを投げた。

 気持ちは急に混ざらない。

 だったら、ゆっくり溶かせばいい。まだ溶けきれてないのなら。

「また明日、部室に来てください。明日も明後日も、その次も。卒業しても。俺が卒業するまで」

「……嫌だよ、めんどくさい」

 すかさず返ってくる答え。それにはまだ怯えはあるものの、イタズラを含んでいる。

 やがて、電車がもうすぐホームへと流れ込んでくる。俺は一歩下がった。

「待ってますからね」

 念押しすると、彼女はしかめっ面になる。しつこい、とでも言うように。

 でも、電車の中へ足を踏み入れる間際、彼女は小さく消えそうな声で「また、明日」と呟いた。


〈track3:シュガーレス/四ツ谷秋雪 完〉

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