四ツ谷秋雪③
「うーん……俺はこっちの曲の方が好きですけど」
ある日、生意気なことを言ってみた。
初夏さんはやっぱり不機嫌に眉をひそめる。
「お前は何も分かってない」
「えー、別に良くないですか。俺がどの曲好きだろうと」
「そんな甘ったるい曲は嫌いなんだよ、私は」
初夏さんはため息を吐くと、机に突っ伏した。もう俺の話なんか聞くまいと耳を塞いでしまう。
イヤホンから流れているのは多分、いつも彼女が聴いている「BLACK」。少し、音が漏れている。
この言い合いの発端は、俺が「BreeZe」の別の曲が気に入ってしまったからだ。
部室の領土が交じるようになったのは夏休みの後だった。空は薄れた青だけになり、もこもことした白い雲はない。さっぱりと寂しい空だ。
「あの、新里先輩」
「………」
聴こえていない。
だったら、触れてみてもいいだろうか。
「ねぇ、先輩ってば」
彼女の腕に指を置くと、勢いよく起き上がった。嫌そうにこちらを睨む。
「なんだよ……」
「そう怒らないでくださいよ。ちょっとくらい、俺と話をしてくれてもいいじゃないですか」
「嫌だ。なんでお前と話をしなきゃいけないんだ」
うーん……威嚇する猫みたいだ。
俺はどうしてこんな素っ気ない先輩が好きなんだろう。謎。
「……先輩のこと知りたいからって言ったら怒りますか」
「怒るね」
すぐに返ってくる答え。これはもう機嫌が治りそうにない。俺は諦めて椅子の背にもたれた。
「あーあ、可愛くないなぁ」
「うるさい。どうせ可愛くないし、私なんか」
「先輩、もうちょっと自分に自信持ってくださいよ」
すぐに手のひらをかえせば、彼女は呆れた息を吐いた。
だって、笑顔は可愛いんだし。いつも警戒を張り巡らせているけど、笑ったら息が止まるくらい可愛い。レアだから格別に。
そういうの、俺以外の人には見せてるんですか。って、訊けないけれど。
「……私は、そういう、甘い感覚は嫌いだ」
頑なに言う初夏さんの声は弱々しい。
彼女がこうも情緒不安定な理由はなんとなく知っている。模試の結果が良くないっていうことを、この間ポロリと吐いたから。
もうすぐセンター試験なのに、部室へ入り浸っているものだから俺も心配になってしまう。まぁ、会えるからいいんだけど。
「甘い感覚……あれですか、『角砂糖で撃ち抜いて』?」
「BreeZe」の曲である曲名を持ち出してみる。つまり、俺が好きな曲はそれだった。
「確かに甘めですよね。歌詞も甘々。砂糖菓子みたいで、口ん中が砂漠になりそう」
「私は、そういう『恋愛』って感じの曲は嫌い」
絞り出すように返してくる初夏さん。俺は首をかしげた。
「いや、でも『BLACK』も恋愛系ですよね」
言ってみると、初夏さんは「お前は何も分かってない」と同じ言葉を吐いた。
「
今日の彼女はどうにも弱々しい。
しおらしいと俺の抑えている手が伸びそうで怖い。落ち着け。頭をなでたい、とかそんなことを思っちゃ駄目だ。今は。
でも、意思とは反する俺の指先は彼女の頭頂に伸びていく。緊張が走る。
その時、
「だって、私は可愛くないし。それに、甘い恋愛なんて大嫌い」
そんなことが一息に吐き出されれば、俺の指は空中で止まるしかなかった。
***
「――ごめん、秋雪」
帰り際、初夏さんがポツリと言った。
最近は完全下校時刻まで二人で部室にいて、帰りは駅まで一緒に歩いていく。春や夏よりも距離は近づいたのに俺は自分の気持ちを伝えられない。
「何がですか」
「さっきのこと。みっともないとこ見せて、ごめん」
「別に謝らなくても」
まったく変なことを気にするんだから。
後輩に弱みを見せたくない気持ちは分かるけど、そこまで格好つける必要はないと思う。
「――ねぇ、秋雪」
いつの間にか、彼女の足は一歩後ろで止まっていた。振り返ると、初夏さんはぎこちない笑顔を向けてきた。
「コンビニ、寄らないか」
「え?」
「お腹すいたんだよ」
そう言うと、彼女は俺の前を走った。スカートがひらりと舞えば、白い膝の裏があらわになる。俺は誰もいないか確認して、その足を追いかけた。
いつもと違うパターンにこっちがどぎまぎしてしまう。一体、どうしたのか。
初夏さんは何やら解放的で、コンビニのホットスナックを選んでいる。コロッケを買い、外気の冷たさに揺れる湯気からパクリとかじる。サクサク軽快な音に俺の食欲もそそられ、一緒に買った肉まんを頬張る……一個じゃ足りない気がしてきた。
「秋雪はさ」
唐突に、初夏さんはもごもごと話をする。
「なんで私の後輩でいてくれるの」
その問いに俺は一瞬、怯むように固まった。
「えーっと……写真部に入ったから、じゃないですか」
「まぁ、そうだろうけど」
どうやら俺の答えは初夏さんを満足させるには不十分らしい。
でも、いざ目の前にするとなかなか言い出せない。勢いを飛ばすには遅すぎた。仕方なく、口に残っていた塩気を飲み込む。
何も言わない俺に、初夏さんが別の質問を投げてきた。
「私がどうして甘いのが嫌いか、分かる?」
「苦いのが、好き、だから?」
真剣に考えてもそれしか浮かばない。
「ハズレ。苦いのを好きにならなきゃいけなくなったからだよ」
またもや答えを外した。そんな頭の悪い後輩に、初夏さんはクスリといたずらに笑った。
「うちの親、仲がいいんだ。でもね、お父さんが不倫してる。それを私だけが知ってる」
サラリと言うその言葉は、秋のカラリとした空に似つかわしくない重さを含んでいた。
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