175話 踏み込む覚悟
ヘルムート候だけでなく、ちらほらとこちらを探るような視線が刺さる。これでは皇女と長話をするのは難しいだろう。もとよりわかっていたことだから驚きはしない。皇女には本当に挨拶程度の二、三言交わした後にこう言った。
「皇女殿下には兄がお世話になっており、感謝の念に堪えません。今日は騒がしくて時間がありませんが、もし機会をいただけるのであれば次はとびきりのお茶を振る舞わせてくださいませ。バーレ家ご当主から賜った珍しい茶葉がございます」
「それは興味深いな。此度の功労は同じ女として活躍も喜ばしい。兄も世話になっているようだし、貴女がよければいつでもお誘いするよ」
「まあ、ご冗談だとわかっていても舞い上がってしまいそうです」
「女の子相手に冗談など言うものか。ではこうしよう、数日内に招待状を送るから、予定を空けておいていておくれ」
こちらから誘うつもりが、意外にも皇女から食いついてくれた。兄さんが驚きに目を見張っているのは、以前彼女との話し合いを拒んだためだろう。それでも目元がほんのり和らいでいたのは気のせいではなかったはずだ。
皇女も私ばかり相手にするわけにはいかず、すぐに他の参列者の相手を余儀なくされたが、彼女と話した感触は悪くなかった。ベルトランドの元へ戻る前に……もう一人話したい人がいるのだけれど、どうやら兄さんが送ってくれるようである。
「ほんのちょっとの距離だし、同じ会場内だから送り迎えなんていらないのに」
とはいえ、心配してくれるのはちょっぴり嬉しかった。あれから殆ど話せていないけれど、兄さんはいっそう瞳に蓄えた意志が強くなったように感じる。私が考える以前の兄さんなら周囲に気を遣って私の手を取るような真似はしなかったはずだが、いまは彼らの目を気にすることなく、堂々としたものだ。
「兄妹だからね。それに親しい供をつけていないようだから、心配にもなるさ。コンラートか、それかライナルト殿のところから人を借りなかったのかい?」
「あまりお手を煩わせるのもどうかと思って。変に軍人さんが傍にいたら驚かせてしまうでしょう?」
「まぁ……そうだね。一人でいたからヴィルヘルミナも警戒を緩めてた」
うん、そこが本当に正解だったと思っている。もしここにモーリッツさんあたりがいたらきゅっと眉を寄せていただろうし、ヴィルヘルミナ皇女なんて見るまでもなく警戒していたはずだ。ここは会場内だけでも一人でいることで、他人に与える印象に変化を与えておきたいといった理由があった。
「カレンはヴィルヘルミナに興味が湧いたのかい」
「最近は少し考えを改めたの。もちろん兄さんが選んだ方だからというのもあるけど、一度お話ししておくべきだなって思ったから」
「……人前でああ言った限り、彼女はお前を拒まないよ。……ありがとう、私があの時彼女と話してほしいと言ったからなのだろう」
「それもあるけど、きっかけに過ぎないわ。皇女殿下と話す必要があると感じたのは確かだから気にしないで」
ヴィルヘルミナ皇女と兄さんの仲は相変わらず順調なのだろう。だからこそ好きな人を家族に知って欲しい。そう思うのは当然の反応だと思うし、いまの私としては彼女と話すチャンスを得られるのだから願ってもない話だ。
「……髪は戻りそうかい」
「まだわからない。でも身体に影響はないから安心して、健康そのものよ」
「私の心配は身体だけではないのだけどね」
話をしながら周囲に目を配った。やはりもう一人の目的の人物がいる可能性は低いだろうかと諦めかけた矢先、視界に飛び込んだのは女性である。一人でポツンと佇む女性はぱっと見では若く映るが、実年齢は四十頃のはずである。
私の視線に気付いた兄さんが意外そうな声を上げた。
「四妃のナーディア様?」
「ええ、ちょっとご挨拶をして帰りたくて。……ありがとう、ここで大丈夫だから」
「あ、いや……待ちなさい。ナーディア様とは顔見知りかい?」
「ううん。初めてお声がけするのだけど……」
いるかいないかは不明だったが、幸運にも皇帝の四番目の妃、あるいは愛妾と呼ばれる彼女に用事があったのである。兄さんは何故私が四妃に興味を持ったのか不思議そうだったが、深い事情は尋ねなかった。聞かないで、と目で語ったのがしっかり伝わっていたらしい。このあたりの意思疎通は兄妹付き合いの賜物だろう。
「あの方なら何度かお話ししたことがある。お前から突然話しかけるよりは自然にお声がけできるんじゃないか」
なんと仲介を買ってくれるようだ。実際、兄さんから女性に話しかけるとスムーズに紹介まで持っていけた。長い黒髪を緩やかに纏めた女性はやんわりと目元を緩めたのである。
「もうそろそろ帰ろうと思っていたところでしたから、お声がけいただけたのはちょうどよかったですね」
「それは申し訳ない。もしや引き留めてしまったでしょうか」
「いいえ。退屈だから顔を出しただけでしたの。元から長居するつもりはありませんでした」
誕生祭の時とは違い、怯えや恐怖の感情は一切見受けられなかった。ごく自然な表情で語る四妃ナーディアは愛想がよく、そしてよくよく観察すれば他の人と多少毛色が違っていた。顔立ちの彫りは深く表情がハッキリしていて目はぱっちり二重。これだけ書けばトゥーナ公やうちのゲルダ姉さんと同じ華やかな美女だが、しかし実物は声は控えめで大人しく、一歩下がったような印象を受ける人だ。身分のある妃にしては随分穏やかで、ちっとも偉ぶったところのない女性だったのである。
「コンラート夫人でしたわね。わたくしになにかありましたか?」
「はい。ナーディア様のお話は……知人から伺っておりました。それで、是非ご挨拶をと」
「まあ、わたくしはこれといって取り得のない女です。ほとんど宮廷からも出ませんし、世情から取り残されてるようなおばさんが若いお嬢さんの気を引けるとは思いませんけれど……。失礼ですがどのご友人?」
ご本人が自身を「おばさん」なんて称するから内心驚いた。話しぶりだけでは気のいいお姉さんといった様子だが、さてなんて言うべきか。彼女に関しては個人的な興味だから、あまり兄さんには知られたくない。
「私とおなじ髪色をした友人です、ナーディア様」
これで伝わるだろうか。四妃はその言葉に対し小首を傾げると、変わらぬ表情で兄さんに言った。
「キルステン卿、もしよければ妹さんをお借りしてもよろしいかしら。わたくしも彼女とお話ししてみたいわ」
「ええ、もちろん。それでは私はこれで失礼します」
「ありがとう、兄さん」
この国で白髪と言ったら私やシスか、あとは老人くらいである。二人だけで話せるのは嬉しいけれど、四妃は「友人」を誰と捉えたのだろうか。その疑問はすぐに解消された。
「もし間違っていたらごめんなさいね。コンラート夫人はライナルト殿下と……つまり魔法使いシスとも懇意にしておりますね」
「はい。正しく意味が通じたようでほっとしております」
「わたくしは少しどきどきさせられました」
「申し訳ございません。驚かすつもりはなかったのですが……」
「いいのよ。殿下と仲がよろしいとは聞いていたから、もしやとは思っていたの」
……四妃の話しぶりは、これまた予想以上に親しみのあるものだ。これはシスよりライナルトの効果が大きいように感じるのは気のせいだろうか。
「それで、お話とはなんでしょう?」
「あ――。その、いささか興味深いお話を聞いたので、もしよろしければ私にナーディア様の、故郷の、お話をご教示いただければと……」
「……あら、それは」
故郷、の部分はかなり声を潜めたつもりだ。もしかしたら聞き取れなかったかもしれないが、四妃は口の動きで意味をつかみ取ってくれたようだ。
「不思議な話を聞きたがるのね。いえ、でも……構いませんよ」
こちらも渋ることなく了承されたのだった。軽く目を見張った私に四妃はおかしそうに喉を鳴らす。
「普段ならばお断りしますが、貴女は女性ですから陛下はなにもいわないでしょう。ベルトランド様のご息女であらせられるし、なにより陛下に栄典を催してもらったほどの方ですから、問題はありません。ああ、ですがわたくしは宮廷の外に出ることは許されていませんから、貴女に来て頂かなくてはなりませんけど……」
「お許し頂けるのであれば、お伺いさせてもらいます」
「あら、あら……。ならお菓子を用意して招待しなくてはね。貴女、甘い物はお好きかしら」
四妃ナーディアとも、こうして約束を取り付けることができたのである。ヴィルヘルミナ皇女は兄さんという仲介がいたから難しくないと予測していたが、目的の両名と接触できたのだから僥倖である。手短に用件を済ますとベルトランドの元に戻ったのだが、彼は嫌な顔一つせず待っていてくれた。なんなら素敵なご婦人相手に冗談を交わし合っていたので、有意義な時間を過ごしていたようである。
私の姿を認めるなりご婦人とお別れしたが、やや残念そうなご婦人の眼差しが印象的である。
「用事は済んだかな?」
「お待たせして申し訳ありません」
「なに、女性を待つのは嫌いじゃあない。それにさっきも言ったが、若いお嬢さんをこんな場所で一人にするわけにもいかんのでね」
出された手を取って歩き出すと、やはりエスコートに手慣れているのがすぐに伝わった。
「結構なご身分の方と話していたようだが、嫌みはなかったかね」
「そこまで意地悪な方達ではありませんでしたから、すぐに終わりました。……見ていらしたんですね」
「貴女は私の娘だってことを差し引いても十分麗しい。男連中は私に敵わないと恐れをなして控えているようだが、そうでなきゃ今頃帰るに帰れず引き留められているでしょう」
「ご自分でそうおっしゃることができるのなら、よほどです」
ちょっと呆れて……素直な気持ちを口走ってしまったけれど、ベルトランドは気にした様子もない。我ながら口が軽くて驚いているのだが、この中年を相手にしているとやや口が軽くなってしまう自分がいた。ベルトランドと会ってから感じているのだけど、この人、良い意味でも悪い意味でも裏がないから話しやすいのである。
「ベルトランド様はこのあとはどうされるんですか。先ほどのご婦人とお話の続きを?」
「堅苦しい場でなければそうしていたが、生憎怖い目を向けてくる輩がいましてな。貴女を馬車に乗せたらこのまま退散させてもらうつもりだ」
「……怖い? ベルトランド様が?」
「会ったばかりで過大評価してくれるのは嬉しいが、私も怖いものくらいはありますよ。例えば家督にしか目がないばかりの嫌みな義理の兄姉とかね」
「――え? それってまさか」
にやり、と悪っぽく口角をつり上げる様は、恐怖とは正反対の様子である。ついてきていたオスティさんが溜息を吐いたのが耳に届いた。
「そうやって揶揄いになられるのはどうかと思いますがね。……
コンラート夫人、どうか気になさらず構えていてください。ご当主の命令がありますから、バーレ家の人々が貴女に手出しすることはありません」
オスティさんの物言いで確信した。どうやら会場にベルトランドの義理の兄姉、つまりバーレ家で家督争いまっただ中の兄妹がいたようだ。もしかしてイェルハルド氏はこのこともわかった上でベルトランドを送り込んだのだろうか。
……と、考え込んでも意味はないか。イェルハルド氏やベルトランドとの関係はともかく、バーレ家のごたごたにまで顔を突っ込むつもりはない。
「……不思議ですね。噂の限りじゃベルトランド様はどう考えても好きになれない御方のはずなのですが、私はあなたをあまり嫌いにはなれません」
「それはどうも。たぶん私の人柄故でしょう。素直さが美点だとよく言われます」
「たいそう皮肉を言われるくらいに好かれていらっしゃるんですね」
「私ほどの男になれば嫉妬と羨望は友でもある」
一呼吸置いて、ただ、と付け加えた。ちらりと横目で見やれば、揶揄うような……違うな、年長者のみが持ちうる経験を重ねた笑みが私を見下ろしていたのである。
「なんでしょう」
「いいや、娘がいるのも悪くないとね」
「父は一人だけです」
「もちろんだ、私もお父さんなんて呼ばれるのは御免なんでね」
送ってもらった先にはジェフが待機している。無事に合流を果たすと、役目を終えたと言わんばかりにベルトランドとオスティさんは踵を返したのである。
「カレン様、もうよろしいのですか」
「うん、やりたいことはなんとかできそう。……栄典の効果ってすごいのね」
「ご無理なさらぬよう。貴女が倒れてはどうしようもないのですから」
「無理……は、するわ。いまはやらなきゃいけないことがあるから」
ジェフの忠告が胸にしみるようだ。
こうして栄典の出席を終えたいま、段々と深みにはまっている自覚がある。遠ざかっていくベルトランド達の背中を見送りつつ足元を見下ろすと、更なる深みにはまっていく自分の足先にわけもない笑みを零した。
ふと、思ったのだ。
数年前、まだコンラートの領地に旅立つ前の私はひとりで自由気ままに食事をして、お酒を飲んで、自由でいたいと願っていた。
いま、その願いが叶えられるとしたらどうなるだろう。わたしは心から笑えるだろうか。これに対する答えとして、一つだけある確信があった。
「ならば、ならばできるだけ私をお使いください。身命を賭して仕えましょう」
「うん、ありがとう。けど命は大事にね」
きっと無理だろう。なにもかも放り出すには責任を負いすぎた。放り出して逃げたところで後悔ばかりの未来が待ち受けているのは容易に想像できる。
やりたいこと、やるべきことが出来たいま、あの頃のようにただ自由でいたいとは言えなくなったけれど後悔はない。
私は――。
「っと、こら、まだ出てきちゃだめ。戻るまで我慢して」
足元にかかる私の影にぽつんとわいた白い点々。ぱちぱちと瞬きする対になった二つの目は、私の声に反応して再び影の中に埋もれていった。一部始終を眺めていたジェフが呟く。
「その黒鳥も便利なのか不便なのかわかりませんな」
「こうして誰にも気付かれず隠せるだけ随分良いと思う。少なくとも式典がはじまってから、いままでずっと大人しくしてくれていたし」
……影に隠せるのがわかったのはいいけど、ますます黒鳥の謎が増えていく。
さ、まだウェイトリーさんのお話が残っているけれど、ひとまず状況を整理するべく一度帰って休みましょうか。
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