147話 皇帝の貌、父の貌、狂人の貌

 少女の姿が『目の塔』にあったのは僅かな間だけだった。

 声が出ない。

 それどころかどうして良いのかもわからない。

 今頃少女は地面に追突したはずで、そんな音は聞こえてこなかったけれど……。耳に届かなくて正解だっただろう。そんなものを脳が覚えてしまったら、きっと拭えない疵になってしまう。

 

「な、あ……」

 

 場所も忘れてその場に座り込んだ。

 人が死ぬのを見るのは初めてではない。それでもこれまで見た『死』はどこかに必ず相手を殺そうというだけの明確な殺意があった。この男のように何気ない動作で、当たり前のように誰かを傷つけるなんてものはみたことがない。

 実際、男はなにも感じていないのだ。

 ひとりの少女を突き落とした事実に動揺は微塵もない。窓枠に手をかけながら下をのぞき込むと、やっとのこと「おお」と感心したように呟いたのだ。

 

「飛び方すらみっともなかったが、最後はなかなかに美しい」

 

 だからなにを言っているのだ。

 隣では私と同様に青年がへたれ込んでいる。彼ははくはくと口をならし、声にならない声を繰り返している。

 「失礼」と私たちの間を抜けて入っていった男性は隊長さんだった。窓から半分以上身体を突出させている皇帝の腕を掴み、叱りつけたのである。

 

「陛下、そのように身を乗り出すのはお控えくださいと再三も申し上げているでしょう。万が一があったらどうなさいます。御身を軽く見られるのはお止めくださいませ」

「なに、いままで落ちたことはないだろう。お前が気を配っているしな」

「私では手が及ばない場合があるかもしれないでしょう」

「それはそれで一興ではないか。皇帝が塔から落下死とは、後世まで語り継がれるに違いない!」

「私は微塵も笑えません。陛下をむざむざ死なせたとあっては父や子に顔向けできませぬ」

 

 断固とした態度で皇帝を引き寄せたのである。やはり彼にも落下した少女を気遣う態度はない。

 

「それより見ろ、頭から真っ直ぐに落ちたかと思ったが、最後で上を向いて落ちたではないか。悪い落ち方ではないぞ、少なくとも前の妃よりは褒め甲斐があるだろう」

「左様ですか。陛下を楽しませたのであればあの者も最後くらいは役に立てて本望でしょう。しかしながら掃除する側の身にもなってくださいませ。この間汚れが酷いと石畳を交換したばかりなのですよ」


 二人のやりとりはごく当たり前の世間話、自然に交わされるそれで、まるで違う生物を見ている心地だった。横ではリューベックさんが青年に声をかけ立たせようとしているところだ。

 

「なん、で」

 

 乾いた声が出た。我を殺さねばならない、答えを間違えてはならない。そんな考えはふっとんで、からからの喉が冷たい空気を取り込んだ。

 本来割り込むべきではない者の介入に、皇帝の視線がこちらに流れる。

 

「なんで、あの子を、落と――」

「落とす必要があったか?」

 

 きっと私みたいな反応は初めてではないのだ。皇帝はこなれた様子で椅子を引き寄せると、椅子の背に腕を乗せ座る。腕に顎を乗せる表情は不思議にも無垢な幼子の眼差しだった。

 

「余が皇帝とわかった途端、木偶のように成り果てる。つまらん返事ばかりと思っていたら、そんな表情もできるのではないか。そなたはくるくると感情を揺らしていた方がよほど魅力的だぞ、コンラート夫人」


 違う、そんな言葉を求めているわけではないのだ。

 

「仮にも名誉帝国市民なのだ。みっともなく地べたに座るでない」

 

 異生物みたいに話の通じない相手から目を離せずにいると、リューベックさんに身体を持ち上げられ、無理矢理立たされた。足下から崩れ落ちそうになるのを扉にしがみ付き耐えたのである。

 

「陛下、なぜ、あの娘を突き落としたのですか」

「何故とな。一介の貴族でしかないそなたが余のなす事にいちいち疑問を抱き、浅ましくも問いを口にするか」

「あ、あの娘は初対面なのではないですか。陛下を怒らすような失態を、なにか、行ったのでしょうか」

 

 純粋な問いだったが、隊長は質問を許してくれないようだ。

 

「夫人、陛下にそのような質問は……」

「構わぬ。些細な命であろうとも、これで余にへつらい媚びるならば選り分けた意味がない。ファルクラムから来たばかりであればなおさら、余の心など知るはずもなかろうよ」

「選り分け……?」

 

 だが皇帝が許すと口を噤み、一歩下がった。

 

「その意味についてはおいおい話してやるとしよう。それよりあの娘が入り用でなくなった理由か。そうさな、完全に別の理由である」

「教えていただけないでしょうか」

 

 皇帝に対する恐れはある。いまでも怖いし、問うたのは拙かったとも思っている。だが一度しゃべり出してしまうと止まらなかった。

 

「弱い。余の民に弱き者は不要である」

 

 窓から差し込む光がその背を照らし、後光となって男の顔を隠すけれど、禍々しさはどう足掻いても隠せない。男からにじみ出る不可視の狂気に呑まれてしまいそうだった。

 

「よわ……?」

 

 弱いと聞いてすぐさま浮かんだのは少女の足だ。彼女は足が不自由で、そのため皇帝カールの注目を浴びた。

 額を汗が流れる。

 

「まさか。まさか……それだけでございますか」

「それだけ? そなた弱者が余の帝国を荒らす愚かしさをそれだけと申すか」

「あ、足が不自由だっただけでございましょう。それに身体が不自由なのは理由があったのかも知れません」

 

 傍にいた隊長さんが代わりに声を上げる。

 

「夫人。陛下はこうおっしゃりたいのだ。生まれつきであったらどうすると」

「どうするもなにも……」

「君の祖父であるイェルハルド殿のような戦傷や、或いは老いによる老化であれば致し方ないといえるだろう。だがあの少女は商家や騎士の生まれではなく、ただの一帝国市民だ。それが将来子を成したとしたらどうする。同じように足が不自由な者が増えては一大事と考えないかね」

「は――」

 

 言いたいことはわかる。こちらにはない言葉だが遺伝的な問題を懸念しているのは理解できるが、だからといってあの娘を殺していい理由にはならないではないか。

 説明を終えると、隊長は皇帝を慰めた。

 

「陛下、そう気を落とされますな。せっかくの人員がこのような結果になったのは残念でしたが、幸いだったと考えるべきでしょう。帝都の毒が一つ取り払われたと思えばよろしいのです」

「ううむ。……そなたは余を慰めてくれるが、気分は台無しだ。まったくもって恥ずかしいぞ」

「此度は初の試みなのです。次回は我らも気を配りますゆえ、どうか」

「何事も失敗から学べとそなたは申していたな。……ああ、あの娘は一人娘だったか」

「そのように聞いております。皆までおっしゃらずとも、後は心得ております」

「汚らわしい血など残すでないぞ」

 

 二人の会話は私にとってまるで異質そのものだ。身体障害を毛嫌いする人がいるのはしっているが、だからって存在そのものを排斥する人なんて目の当たりにすると、上手く声にならないのだ。

 まして、さっきまで生きていた女の子の姿を覚えている。

 この件に関し、皇帝はすぐに興味を失った。同情ともとれる眼差しを私に向けたのである。

 

「夫人。そなた優しいのは結構だが心を向ける先をしっかりと学ぶべきだな。……ああ、そなたも」

 

 部屋から出る間際、小太りの青年にも視線を移した。ひゅ、と乾いた呼吸が伝わってきたが、皇帝は低く笑うと青年の髪をくしゃりと混ぜ返したのである。

 

「誰かに手を差し伸べる気概は見事であった。そなたも余の愛をその心で受け止めたからには、今後はいっそう国のために励むが良い」

「は、はひっ、こ、こうていへぃ、か……」

 

 まともに声を出せない青年に、子を見守る父の如く笑みを向けるのであった。

 

「さて、朝餉にしようか。塔を登ったら腹が減ってきた」

 

 これで問答はお終いだった。階段を下り始めた皇帝を追うのは一苦労だった。青年は隊長に手を借りて階段を下るのだが、私の方はといえばリューベックさんの助力を断ったからである。


「いいです。一人で、降ります」

 

 壁に手を這わして、全身を這う気持ち悪さを振り払うように階段を下ったのだ。

 リューベックさんは純粋に手助けしてくれる申し出だったのはわかっている。だけど、借りを作りたくなかったのだ。

 皇帝の足は速く、あっという間に姿が見えなくなった。そのタイミングで、そっとリューベックさん声をかけてくる。

 

「無理をしない方がよろしいのでは。まだ朝食会が残っていますよ」

「結構です。あなたの手は借りたくありません」

「カレン殿には嫌われてばかりですね。そこまで邪険にされると、流石に悲しくなってきます」

「……陛下の意図を知らなかったわけではないでしょうに」

「そうですね。初めてではありませんから」

 

 やっぱり慣れている。この人が「まともではない」と評された意味を正しく理解した瞬間だ。平静を保とう、落ち着こうとそればかり考えているけれど、冷静になればなるほどあっけなく死んでしまったあの少女を思いだして苦いものが心を支配する。

 人の命の軽さを思い知らされたような気がして、一歩一歩が重かった。

 いますぐ家に帰してくれ。そんな言葉を呑み込むだけで、亡き少女の両親にこれから訪れるであろう暗い未来については、ほとんど考える余裕がなかったのである。

 青年も、私も口を噤んで塔を下る。塔から脱すれば色とりどりの草花や荘厳な建物が目を楽しませようとしていたけれど、陰鬱な気分を取り払うには至らない。

 ただ、行動を移さざるを得なかったのは……。


「ジェフ……!」


 先に降りた皇帝の前にジェフが膝をついている。彼は塔に上がるのを許されなかったから、お付きの人と塔の前で待機していたのだが……!


「夫人、これはそなたの随伴か」

「そうです。わたくしの護衛で……その者がなにか、陛下のお気を引いたでしょうか」

「焦るな。このように面白い見目をしていれば余の気を引くのも当然だろう」


 彼の見た目は皇帝の興味を多いに引いたようだ。ジェフの兜を人差し指ではじき、からからと笑い声を上げる。


「不調法者であれば離してやろうと思ったが、それにしてはなかなか礼儀を知っているではないか。所作も悪くない、宮廷の作法というものを心得ている」


 いつからジェフを見ていたのだろう。ジェフの身体をあちこち触り、体つきに感心するような呟きさえ漏らしている。そして何気ない動作で兜を掴むと「どれ」と乱雑に持ち上げた。

 乱暴に持ち上げたから、きっと痛かっただろうと思う。けれどジェフは苦痛を一言も漏らさず、顔を上げず、ただ真っ直ぐ前だけを向いているのだ。

 兜の下は歪んだまま治療のなされていない顔がある。

 皇帝カールはジェフの顔をじろじろと眺めると、一拍おいて吹き出した。


「見る影もない醜男か、それとも夫人好みの美男かと思ったが、これはなんと醜い! っはははははは! よい、かように不細工であればさぞ生きにくかろう、兜を必要とするというものだ!! バルドゥル、これはかなり頑丈そうだな。強いと思うか!?」

「はい。私の見立てが間違いでなければ」


 バルドゥルは隊長さんの名だった。見立てに間違いがなかったのが嬉しかったのか、皇帝は満足げに頷いたのである。

 

「どうだ夫人、これを余にくれぬか」


 そしてとんでもないことを言いだした。

 一気に背筋が凍るような心地だった。場もわきまえず、ほとんど発作的に首を横に振った。


「へ、陛下のお願いであろうとそれは了承できません。どうかお許しを……!」

「なんだ即答か。……ならば醜男、貴様はどうだ。報酬ははずむし、もし夫人が気になるというなら代わりのものをくれてやろう。財やそこそこの地位にもつけてやるが、どうだ」


 これにジェフは無言のままである。一瞬不安が胸を過ったが、皇帝の笑い声が場を再び支配した。


「ああ、ああ、本当に欲しいなこれは! 良い、口を利くのを許そう。して返答はどうだ」

「お断りいたします」


 端的でわかりやすい、しかし皇帝を前にするには短すぎる一言だった。

 どうしよう、もしジェフが皇帝の不興を買ってしまったら、どうやって彼を助けたらいいのだろうかと様々な手段が頭を過るが――。


「……ふむ?」


 皇帝は首を傾げるのみだ。やがて兜をジェフの頭部に戻すと、興味を失ったように踵を返したのである。


「やはり善き者には忠義者が集うのが道理なのか。夫人、そなた良い護衛に恵まれたな」


 すたすたと歩き去ってしまうのだから、もう本当に生きた心地がしない。

 リューベックさんがこっそり耳打ちする。


「よかったですね。お許しになると言っておられます」


 ……心臓が持たない。

 塔を上り下りしただけですでに疲れ切っている。

 朝食の席ではいったいなにが待ち受けているのだろうか。

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