146話 この大空に
エリーザは純粋にはしゃいでいる。声を潜めつつも気さくに話しかけてくれるが、気もそぞろで彼女の期待するような返事はできなかった。
「やはりコンラート夫人といえど緊張されるのですね。……怒らないでくださいましね。ちょっとだけ、仲間ができたみたいでほっとします」
エリーザは私の緊張を汲み取ってくれたようだが、皇帝に対する得体の知れなさまでは感じ取れなかったようだ。微笑むだけで誤魔化して、適当にお茶を頂いていると、扉の向こうが騒がしくなった。
ノックはなかったし、声かけもなかった。大きい音を立てて扉を開け放ったのは、ひとりの中年男性である。無遠慮に室内を見渡す様に室内の者はポカンと口を開けていたが、私とエリーザが素早く立ち上がり腰を曲げた。室内で待機していた給仕もだ。
「陛下、おはようございます」
これに習うように一斉に席を立つ音がした。誰かが立つ間際、盛大に机にぶつかった音が室内に響く。
……そういえばエリーザ以外の人は二部で見かけなかったように思われる。私が気付かなかっただけともいえるけれど、おそらく出席者ではないはずだ。こう述べては失礼だが、貴族であるエリーザと違い彼らが宮廷といった夜会で催される作法に明るいとは到底思えないためである。招待されなかった故に皇帝カールの顔を知らないのだろう。
「構わん、面を上げよ」
緊張が走る室内に、尊大な男の声が響く。
ゆっくりと顔を上げれば、開け放った扉の前には白い衣に肩掛けを羽織っただけの中年男性の姿がある。見間違いでなければ上着の下は寝衣に見え……いえ寝衣だろうな。頭髪もろくに整えていない様子で、いままさに起きて直行してきたといった印象だ。
「なるほど。コンラート夫人に、地方貴族の……あとは……」
本来なら挨拶を挟むべきだが、室内を見渡しながら呟く姿には話しかけがたい雰囲気がある。思案に沈みだした皇帝の邪魔をできる勇者はいなかったようで、私を含む七人全員が所在なさげに立ちすくむばかりだ。
「ふむ?」
再びこちらに目をやると、軽く目を見開いて顎をしゃくる。どうやら考え事はおわったようで、再びゆっくりと腰を折り曲げた。
「我らが皇帝陛下。朝よりご尊顔を拝する名誉を賜ることができた幸運に一同喜びを噛みしめてございます」
一同と言ったのは、その、緊張している人も多いだろうから代弁した方が良いかなあと。
夜会の時と違い、目を合わせてきた皇帝カールに行商人に扮していた時のような感情の動きはなかった。ただ動物を観察する学者然とした眼差しが貫いてくるようである。
「コンラート夫人か。昨日はどうだった」
「おかげさまで夢のような一日を過ごさせていただきました」
「その割に早々に退散したと聞いたが」
そんなところ突っ込まれてもと舌打ちしたい気分であった。困ったような微笑を浮かべて答えを探す。
「地方から出てきたばかりの田舎者でございます。たいへん賑やかでございましたが、出席されている皆さま方は著名人ばかりで、お恥ずかしながら場の雰囲気に飲まれてしまいました。心配された祖父の勧めもあり、失礼ながら退散した次第でございます」
「なるほどな。イェルハルドの勧めであれば仕方がなかろう」
イェルハルド氏の名前を出すのは気が引けたが、きっと許してくれるだろう。バーレ家当主の名前効果は絶大だったようで、一見不機嫌そうであった皇帝の表情が明るくなる。
「身内には厳しいやつだが……。あやつめ、女孫には随分と甘いとみえる」
「わたくしのような者にも気を遣ってくださり、ありがたく存じております」
「それにしてもうまく気に入られたものだ。そなたはあやつがどれほど冷酷な人となりであるかを知らぬであろう?」
当然ながらわざわざ反論するつもりはない。再び室内をぐるりと見渡す皇帝は、先ほどよりは幾分柔らかく語り始めたのである。
「男が三、女が四か。そうさな、いくらか減ってしまったが確かに方々で余を助けた顔が揃っている」
減ったようだ。減らされた、そして呼び出された基準がなんなのか気になるところである。どうも年齢は若い人に偏っているようだが……。
その中で、ある人物が皇帝の興味を引いた。
「そなた、その足はどうした」
一番髪の長い女の子だった。皆と同じように立っているが、よく足下を見れば椅子の背に手を置き、全体の重心を片足に寄せている。
皇帝の問いに女の子は恐縮しながら答えた。
「う、生まれつき足が悪くて。見苦しくて申し訳ありません」
「……そなたを見かけたのは確か街道だったな。その時は普通に立っていたはずだが」
「調子が良いときと悪いときで左右されます。普段はあまりこのようなことはないのですが」
暑くもないのに緊張しすぎて汗を掻いている。皇帝は少女の言葉を聞くと「そうか」と小さく呟いた。
なんだろう。一瞬だが背筋がぞわっと……。
「朝餉の前に庭を散策するのが趣味でな。せっかくだから招待客の顔でも眺めて歩きたい。そこの娘、ついてくるといい。それからコンラート夫人も付き合うといい。そなたには昨晩の詫びがあるのでな」
詫びといえるだけの自覚はあったのかなんて突っ込みはどうでもいい。それより足の悪い子に散策を申しつけるとは鬼か。少女も「えっ」と動揺の声を漏らしたが、僅かも揺るがない皇帝の姿にすぐさま歩き出した。だが無理をしたようで、すぐさま転びかけてしまう。寸前で近くにいた青年に支えられたのである。少しばかりふくよかな青年に礼をいって立ち上がろうとするのだが、緊張のためかうまく歩けないらしかった。
こうなれば私が手を貸すべきだろう。足を踏み出したところで皇帝が口を挟んだ。
「歩けぬか。ではいま手を差し伸べたそなたが手を貸してやるといいだろう。他の者は余の準備が整うまで待っているがよい。暇であれば人を使え、宮廷の散策も許す」
くるりと背を向けた男に、指名された私たちは続いた。少女の足取りがおぼつかなかったので、青年と、それから私が手を貸したのである。
皇帝は寝衣のままあたりをうろつくようで、用意された外履きで外に出る。
私たちの後ろにはいつのまにか人が付き添っていた。そこには昨日ぶりのリューベックさんと、四十頃の男性が付き添っており、彼らの後ろからひっそりとジェフがついてくるのが垣間見えた。
散策だから庭に行くのだろう、そう思っていたのだが庭を目前にして皇帝は立ち止まり、急な方向転換をした。
「気が変わった」
平然とのたまうと、歩きながら朗々と話し出すのである。その話し相手は、リューベックさんの隣にいる男性だった。
「朝食はいつ頃できる」
「いつでもお召し上がりになれます。ただ陛下、あえて言わせていただきますが急な思いつきはお止めくださいませ。執事長や侍女頭が憐れなまでに狼狽しておりました」
「余の期待に応えるのが彼奴らのつとめであろう。愚かなことを申すな」
「陛下のお心に沿うのは当然でございますが、何事も順序がございますれば。寝る間を惜しんで励む姿には涙を禁じ得ませぬ」
「まったく気苦労が絶えんな、騎士長が執事らの仕事を案じるか」
「騎士故に、でございます」
この後も話を続けたのだが、どうやらこの御仁の正体を察するにリューベックさんの上司。すなわちオルレンドル帝国騎士団第一隊隊長のようだ。想像以上に渋いロマンスグレーなおじさまだが、リューベックさんの上司であるのは忘れてはならない。
時折私に返事を求められるが、適度に頷くのがせいぜいだった。青年や少女に気を配り皇帝の会話に耳を澄ますのはともかく、ライナルトからの忠告の意味を考えながら相づちを打つのが大変だったのである。そんな私に対し、皇帝はやや呆れ気味である。
「コンラート夫人は会話下手とみえる。つまらぬ相づちばかりでまったく面白くないではないか。そなたまことにベルトランドの娘か」
「陛下、急な呼び立てをされたのはどなたか忘れてはなりませぬ」
隊長さんのフォローを受けつつ到着したのは、コケに覆われた石造りの建造物だった。宮廷内においてはこの建物だけ違和感が突出していると述べても間違いではないだろう。
「あ、あの、これ――」
ついてくるよう命じられたが、流石に物怖じしてしまったのには原因がある。
「お待ちください、陛下。ここは――」
「うむ、目の塔である。光栄に思うがよかろう」
リューベックさんたちに鉄製の扉を開けてもらうと、中に入ってしまったのだった。
え? いや、待って待って、軽く言われたけど目の塔って帝都の中心地、その上入場が制限されている場所のはずで――!
「夫人、早くお入りください。陛下がお待ちでございます」
が、隊長さんに命じられて登るほかなかった。中に一歩踏み入ると、ひんやりした空気と、どこからともなくカビ臭い臭いが漂ってくる。中は広間になっているが、向かうよう指示されたのはすぐ傍の階段だった。
そういえばここの地下にシスがいるはずだ。シスのいた地下から地上に続く階段を見たが、あそこに続く道はどこに――。
「コンラート夫人」
「はい、申し訳ありませんっ」
……長い。
塔の壁沿いに渦巻くように位置する階段だった。
幸い両脇は壁に固められているが、階段自体は狭く二人並んで進むのがやっとの幅である。
全員が息を切らせながら階段を登るのだが、皇帝はこちらなどおかまいなしに上へ上へと進んでいく。幸い後ろの二人は急かすような真似はせず、こちらの歩みに合わせてくれるようだ。
「焦らなくても大丈夫ですよ。陛下は待ってくださいます」
「あ、ありがとうございます。ですがリューベックさん、お声がけいただくより、そちらの彼女を……」
「生憎、手を貸して良いとは仰せつかっておりません。お許しを」
それが私とリューベックさんの今日初の会話である。ここで声をかけてくれたのは彼だけで、隊長さんは無言を貫くようだ。少女には私と青年が手を貸すことで、なんとか時間をかけて塔の上部へ登っていった。途中気付いたのだが、塔にはいくつか小部屋が存在しているのだが、どれも戸は閉じていた。ぼろぼろの木戸だったから使われていないのかもしれない。
時間をかけて最上階へたどり着くと、驚くべきことにその部屋だけはまともな装いだった。石造りであるのは変わりないが、扉や内装は手の込んだ造りになっている。簡易だが椅子と机も設置されていたのだ。
その小部屋には一つだけ窓があった。高所では明らかに危険と感じそうな大きめの窓は手すりの位置が低く、腰下くらいから開けていたのである。
窓を開け放ち、窓から流れ込む風を受けながら皇帝が振り返った。
「随分とかかったものだ」
高所だからか、冷たい風が頬を撫でて髪を攫おうとする。謝ってはみたが、謝罪は特に皇帝の興味を引かなかった。
私たちは部屋には入らない。私が手前で足を止めたからである。
「入らぬのか」
「恐れながら……」
仕方なく登ったけれど、目の塔立ち入りの厳しさについては知っているつもりだ。これ以上は踏み入ってはならないと全身が警告している。
中は机と椅子、一脚ずつしかないのだ。本来誰かを立ち入らせるような部屋でないのは確かだし、ここの所有者が誰かと問われたら答えはひとつしかない。
そんな中、青年に支えられた少女が「わあ」と小さな息を漏らした。彼女の目は皇帝の後ろ、窓からのぞく大空に釘付けになっている。これに気を良くした皇帝が満足げに頷いた。
「どうだ、これが余にのみ許された天空である。たとえ余所の国の王であろうと、この空は得られまい!」
「はい、流石は皇帝陛下でございます」
男は高揚している。皇帝を褒め称える少女は手を叩いており、青年も続いて拍手を送る。その中で私は無言で頭を下げたのだった。
「余はな、ここから空を見上げるたびに思いを馳せるのだ」
ほう、と皇帝カールは息を吐く。拍手はぴたりとやみ、私たちは慎重に耳を傾けた。
「この世は愚かで醜くかろう。世を救うがため、こうして真摯に祈りを捧げているというのに、我が御心は未だ伝わらぬ」
驚くべき話だが、このときの皇帝の声にはなにかを慈しむような優しさがあった。それはほんの一瞬であったが、民と口にした際には心底悔やむように、真摯な眼差しで拳を握っている。
「神はいつまで余をお試しになるのであろうな。余ほど神を請い願う者はいないというのに」
……無神論者ではないようだが、その言葉は私たちの間に戸惑いをもたらした。私の動揺は少なかったが、特に二人の反応が顕著だ。
それもそのはず、以前も述べたが帝国は宗教を認めていないのに、その取り決めを作ったであろう皇帝陛下が神を語っている。
それにしても皇帝陛下は宗教家なのだろうか、直に台詞を聞いてしまうと嫌な予感が増してくる。
皇帝は残念そうにかぶりを振ると、景色を一望し振り返ったのである。
「……そなた達に話したところで意味はないか。ああ、どうだコンラート夫人、ここから外を見たいとは思わないか」
目の塔につれてきて神やら口にしたと思えば、なんとも唐突なお誘いだった。一瞬誘いを受けるべきか迷ったけれど、すぐさま頭を垂れる。
「陛下のご厚意だけありがたく頂戴したいと存じます」
「なんと。せっかく連れてきてやったというのに。そなた達だけに見せてやろうというのだぞ」
一瞬で不機嫌な声音に変じた。だが声にはどこか……なんだろう、愉悦のような感情が含まれている。
「目の塔とはオルレンドル帝国の中心地、すなわち皇帝陛下のおわす場所にございます。陛下の温情はありがたく存じますが、わたくしのような一介の貴族が踏み入って良い場所ではございません。この身が塔にあること自体が褒美であり、身が竦んでこれ以上は動けぬのです。わたくしを愚か者とお笑いください。ですがどうか寛大な御心を賜りますようお願い申し上げます」
皇帝は拍子抜けしたような、つまらなさそうな表情をした。窓の外に視線を向けたのだが、その一瞬の間に私は手を動かした。隣にいた青年の服を強く引っ張ったのである。青年を挟んだ向こうにいる少女にも同様に合図を送りたかったが……。
「娘、そなたはここからの景色に興味がありそうだがどうだ。コンラート夫人とそなたは違うと余は信じるが、そなたまで余の期待を裏切るか」
「きょ、興味、あります。はい、陛下がそこまでおっしゃるなら、とても素晴らしい景色でしょうから」
「よかろう。ならばここに立て。そなたどころか皇族でさえ見ることが叶わぬ光景を見ることができるぞ。まさに人生に一度の経験だ」
「陛下。お言葉ですが……」
「夫人、そなたがどう思うかは勝手だが、そうそう人の意見に口を出すものではない。口も過ぎれば余の不快を招く。それともこの招待に不満があったか」
「い、いえ。滅相もございません」
なにが悪いのかが上手く説明できない。皇帝の言葉もあってそれ以上は口出しを止められてしまったのである。
「そなたはどうする? この者に手を貸した褒美にどうだ、先も述べたがそうそうない機会である」
「あ、いえ、僕……私も遠慮いたします。恐れ多いですし、あの、高いところは苦手で……」
さっき彼を止めた効果はあったようだ。背後にいる人たちは私が青年の服を引っ張ったのを目撃していただろうが、隊長さん含めリューベックさんはなにも言わない。
「では少女よ、来い」
少女は皇帝に促され部屋に入ってしまった。こうなった以上は動向を見守る他なく、わけもなく祈るような気持ちである。
少女はおっかなびっくり、ゆっくりとした足取りで『目の塔』上部にある大きな窓に向かって足を向ける。途中転びかけた少女に手を貸すべきだとわかっていたが、どうしても室内に入るのは無理だった。皇帝の目を盗み、隣でおろおろしている青年の服を再度引っ張るくらいがせいぜいだったのだ。
窓へたどり着いた少女に皇帝カールは手を差し伸べた。安心したような息を吐く少女に、男が微笑みかけると、二人の間に柔らかな空気が流れた。
窓枠に手をかけて、大空と、それからそこからうかがえるであろう絶景に少女が感激の声を上げる。
「どうだ、素晴らしいだろう」
自慢げな様子であった。少女もすごい、と何度も繰り返す。
「はい、とても素晴らしいです。夢みたい、こんな光景見たことない……!」
熱に浮かされるような少女の喜び。まっすぐに空を見つめる彼女の後頭部に男の手が伸びた。
なにが起きたのかは理解できない。
だって、確かに危ないとは思っていたけれど、傍にいた男自らの手によって少女の頭が掴まれ、前に押し出されるなんて誰が想像できたのだ。
「へぁ?」
なにが起きたのかは、その子自身も理解できなかったに違いない。素っ頓狂な声を漏らして、少女は上半身から窓を越えてしまった。文字通り宙に舞ったのである。
なにもない地上に向かって、一直線に。
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