112 閑話:奪われるもの、奪うもの

 違うのだ、と髪結い師の夫婦は言った。

 

「お前を取り巻く環境は厳しいけれど、本当はもっとあたたかで優しいはずなんだよ。だからもっと誠実に、ひたむきに生きなさい。そうすればきっと、優しい人と巡り会うことができるから」


 夫婦は温厚で優しく、周りからよく助けてもらい、その分誰かに恩返しをするような人達だった。帝都の隅に追いやられたみすぼらしい少年を家に招き入れたのは、余程彼がすさんだ目をしていたからではないだろうか。

 決して綺麗とは言えない外観の襤褸家、家の中は手作り品で溢れていた。金はかけられないけれど、野花を飾り、手編みの刺繍で机を彩った。たまに作ってくれる野兎の煮込みは絶品で、好物だと教えていないのに事あるごとに作ってくれた。

 人として在るべき善悪の区別、道徳、を教えてくれたのはこの夫婦だった。たとえそれらが未だ本当の意味で理解できずとも、彼はいまでも彼らを敬愛している。それは父母より、兄より、なにより至高の存在と詩家に謳われる実父よりもだ。

 そのことに偽りはないし、もし愛情を注いでくれたのは誰かと問われたら彼らの他にはいないと答えるけれど、夫婦の教えで唯一信じていないとしたら、繰り返すように言われたその言葉だろう。

 あれは二十歳になる前だったか、夢に出てきた彼らに一度だけ問うたことがある。

  

「誠実に生きれば報われると貴方がたは私に教えた。では教えてほしい。どうして善行を積み続けたはずの貴方がたが殺されなければならなかったのかを」


 夫婦は微笑むだけで、彼になにも答えてはくれない。

 或いはこの夢すら願望なのか。本来なら、彼らは彼を恨んでいておかしくない人々である。

 ここで、眠りの淵から目を覚ました。


「お目覚めですか」


 目の前にいたのは厳めしい目つきをした男。モーリッツ・アーベラインは彼の右腕的存在であり、そしてうたた寝をしていたらしいと自覚する。

  

「お眠りになるとは珍しい。しばらく席を外しましょうか」

「陽気に誘われただけだ。気遣いはいらん」

「左様ですか」


 などと言いながら淀みない手つきで書類を渡してくる。どうせ彼が休むつもりがないことはわかっていたのだろう。

 モーリッツは公事はともかく私事で弁が立つ男ではない。上官であり主でもある彼を気遣うことなど皆無であったが、この時は様子が違ったようだ。


「悪い夢でも見られましたか」

「何?」

「眉間に皺が」


 寄っていたと言いたいのだろう。文字を追うことをやめた彼は一拍おいて「ああ」と小さな呟きを漏らす。


「ローデンヴァルトより前の夢だ、久しぶりに見たのでな」

「……そうでしたか」


 彼には三つの名前と履歴が存在する。

 ひとつはライナルト・ノア・バルデラスとしての顔。

 ふたつめがローデンヴァルト候の姓を名乗っていた頃。

 みっつめがそれすらも許されなかった少年時代。

 この友人はライナルトの昔を聞いていたから、それ以上の言葉を止めたのだろう。


「久しぶりに母の顔を思い出した。相変わらず辛気くさい顔だったな」


 敬うべき母相手にこのような感想、まともな家庭でそだった人なら眉を顰めるだろう。しかしライナルトにとって母親とはそういうものだ。生まれてから母が亡くなる寸前まで、彼は実母に笑顔を向けられたことがない。

 けれどそれを咎めようと思っての発言ではないのだ。自分の生まれた経緯を考えれば母が顔を顰めるのは致し方ない。それは父も同様で、よく誤解されがちな、所謂恨みというのはライナルトにとって遠い感情だ。

 父は望まれなかった証である彼と母を遠ざけることで安息を得た。父を愛していた母はそれが辛かっただろうに、子に罪はないと彼に暴力を振るわなかっただけましと思える。

 懐から取り出したのは欠けの生じた木櫛だった。

 ひとたび過去に思いを馳せると、いらぬ記憶まで蘇ってくるから困ったものである。

 ――生まれて間もなく、母と共に遠ざけられた地でライナルトは育った。

 ファルクラムの影響が遠く、また帝都オルレンドルとも離れた領地であった。栄えた土地ではあったのだが、送られた先は貴族とは名ばかりの商家である。ローデンヴァルト候と似ても似つかぬ子供を、ローデンヴァルトの人々はまさか皇帝の落胤とは説明できず、母はただ不貞を働いた妻として冷遇され、自然その子供であるライナルトも疎まれた。

 当然、商家からの当たりもきつかった。そのときの時風が不作で人々が苛立っていたのもあるかもしれない。彼と母に八つ当たりすることが許されたし、それに反論することは許されなかった。

 ローデンヴァルト候から送られていたはずの金は商家の懐に消えた。食えてはいたが、この時から寝込むようになった母の面倒を看る必要はあったから手っ取り早く盗みを始めた。母はライナルトを責めない代わりに、彼に関心を持とうとしなかった。教育係はいたけれど、周囲の反感を恐れて口を噤んだ。結果、子供に道徳を説くものはおらず、やりたい放題だ。あり得ないようで、実際にあってしまった話。酷い有様だったと大人になったいまなら苦笑する。

 そんな彼に手を差し伸べたのが髪結い師の夫婦とその周りの人々だった。


「盗みをするな、金に困ってるなら髪結いを教えてやる」


 ……財布を盗むのに失敗した帰り道だったか。殴られて顔を腫らした彼を捕まえた男がそう言ったのだ。

 いまだに、あの夫婦は本当、呆れるくらいに善人であったと溜息を吐きたくなる。

 娼婦相手に髪結いで生計を立てていた夫、片足がないくせに笑顔を絶やさなかった妻。

 もしかしたら少年にとって、彼らと一緒に過ごせた日々が一番の宝物だったかもしれない。

 いい義足を見つけたのだ。

 確か……記憶が正しいのなら、彼にとって二回目の、心からの行った「いいこと」だ。一回目は母の髪を結ってぎこちない「ありがとう」をもらっていたが、すぐに解かれた。

 ため込んだ小金を木作りの義足代に宛てた。髪結い師の妻の義足が壊れ、代金の工面に困っていたのを知っていたから、彼の稼ぎをつぎ込んだのだ。

 義足を抱え立ち寄った襤褸家。木戸を開けると夫妻が死んでいた。

 毒だった。

 いつも朗らかに笑っていた夫は真っ赤に血走った目を見開いて、優しい眼差しで髪を解いてくれた妻は苦しげに喉を引っ掻いた状態で転がっていた。

 傍らに立っていたのは男だ。

 男はライナルトを見るなり溜息一つ吐き、突っ立つばかりの少年を引っ張って家へ連れて行くのだが、そこからはあっけなかった。

 預け先の貴族はお家断絶、母とライナルトはファルクラム王都のローデンヴァルト候の家へ。そこで懐かしの父と顔を合わせたが、出たのは「汚らわしい」の一言だ。

 母とは離れた。身なりを整え、学を教え込まれ、落ち着いたと思えば帝都オルレンドルへ。泣き叫ぶ母が再び皇帝へ与えられ、そこでようやく、ライナルトは自分の出生を知る。

 なにせ皇帝が自ら教えてくれた。

 ライナルトの存在を品定めするように軽く叩きながら、新しい玩具を眺める目つきで嗤うのである。


「あぁ~……余に似ているのであればきゅっと絞めてやろうと思うたが、なんともはや、母親似であるか。首を絞めてもその顔は見飽きたしなぁ……そうだ、将軍よ。お主少年を囲う趣味はなかったか。活きが良いぞ、いらぬか」

「生憎と……そういった趣味は持ち合わせておらず……」

「なんだつまらん。まったく、遊べもせんならいる価値もないではないか」


 おそらく彼は運も良かった。皇帝の気まぐれで消費された非公式の実子は他にもいたはずだから、一度ですっぱり飽きられたのは奇蹟に近かったのだ。

 それからしばらく興味を失われたが、次に存在を思い出されたのは十代前半の頃だったか。胡散臭い魔法使いに騙され地下水路に置き去りにされた。

 迷い迷って脱出した二日後、どうにか帰り着いた彼を見た母は、子を相手に初めて感情らしい感情を向けた。


「どうして生きているの!!」


 そこで、自分は帰ってきてはいけなかったらしいと悟った。後から魔法使い自身に知らされたのだが、どうやら母は成長する彼の存在が許せなかったようだ。皇帝にライナルトの存在を消すよう頼み、皇帝も子殺しを「愉快」の一言で引き受けた。

 やり方は魔法使いに丸投げされ、結果、それが地下水路の置き去りだったらしい。

 帰ってくるはずのなかった少年の帰還は、皇帝を大いに喜ばせた。母との約束は取り消しになったのである。


「自力で帰ってきたのを褒めてやるってさ。おめでとう、ライナルト。ファルクラム側の望み通りに、君は皇帝に生きるのを許されたようだ。もう君の母上さえ口を挟むことはできないぞ!」


 魔法使いは心から彼を祝福し、そこでかねてからの疑問が挙がった。


「何故生きるだけなのに皇帝の許しがいるんだ」


 わからなかった。

 生存権以前の問題だ。これよりずっと前から、何故自分が奪われる側なのかがわからない。

 聞けば皇帝カールは、あれで熱心な信心者だという。帝国内で宗教を認められた試しがないのに何を、と思うかもしれないが、朝の礼拝を欠かすことはないと聞いていたし、彼の礼拝堂に土足で踏み入った者は即刻首を切られる。そのくらいには、皇帝は皇帝の『神』とやらに熱心だが、その理由はあまりにも不気味で皇帝らしい謎に溢れている。

 なぜ知っているかと問われたら、簡単である。皇帝の嘆きを一度だけ聞いたことがあったからだ。


「余が皇帝の座につけたのは神の導きによるところだろう。だがその神は本当に天より地上を照覧されているのだろうか。善を良しと悪を許さぬと断じられるのだろうか。真実、神が天におられるのであれば、なぜ悪行を是とする余を放っておかれるのだろうか」

 

 男の問いかけには興味がなかった。ただそのとき思ったのはひとつだ。


「この男が皇帝になれたというのに、俺がなれない道理があるのか」


 奪われるのも、壊されるのも、決められるのも納得がいかなかった。

 初めて帝都を訪れた際に見た『目の塔』の最上階からの眺めは、皇帝にしか許されない至上の光景だという。

 神だ権力だ贅沢だと、そのようなものに興味はないが、皇位が彼の望む光景を見せてくれるというのなら到達してやろうではないか。

 ならばそこに行くためにはどうすればいいのか。

 誠実に生きるだけでは到達できない。それでは搾取されるだけでなにもかわらない。ならばかつての教えは胸にだけ抱くこととし、平凡な日常と見切りをつけた。夫婦の教えは彼に正義を与え社会に馴染ませるのに成功していたが、幸か不幸か道徳心が薄いから、自分の行いで人が泣こうとも進んでいけるだろう。

 彼と対峙した箱の魔法使いはこう述べている。


「ボクは後天的に壊れた感じだけど、君はどっちなんだろうね」

「なんのことだ」

「そういうところは君たち本当に親子だよ。ああ、反吐が出るくらいだけど、与えられたモノはいらないっていうだけ君の方が好感が持てる。あと遺跡なんかいらないっていうところ」

「遺跡などいらん。古い連中の拘りに縛られるなど御免だ」

「ほらね。私は助かるから構わないけどさ」


 帝都を出れば君は自由の身だろうに、とシクストゥスは言わない。万が一にも、箱の破壊を望むライナルトを逃す可能性があってはならないのだ。


「まあいい、私はできる限り君に協力しよう。私自身についても、連中に教えていないことも全部教えてやる。だから君、私を裏切るんじゃあないよ」

「お前こそ、だ。下手を打って皇帝に悟られるなよ」

「私を誰とお思いだい。鍛え上げられた鉄面皮を侮るんじゃないよ、小僧」

 

 異形との提携はこうやって結ばれた。そうして兄を殺し、ファルクラム国王を殺し、彼はようやく皇太子としての座を手に入れ、宮中に部屋を構えることを許されたのである。


「殿下、孤児院の件ですが」

「ああ」


 彼の部屋にはいま、モーリッツとニーカだけしかいない。モーリッツが彼女に目配せすると、問題ないといわんばかりに頷いていた。


「シスはいま陛下と共に出られている。距離的にも聞かれる可能性はない」

「そうか。……では改めて、草の件でございます」

「聞こう」


 過去に思いを馳せるのはここまでだった。両手を組み、副官の言葉を待つ。


「……些か資金が潤沢なようで、彼方此方で火種が上がっている様子。この間は危うく将軍のご息女が狙われる寸前だったようで、警戒が高まっております」

「まったく、与えすぎるのも考えものか。加減が難しいものだな。……仕方ない、警邏隊に情報を回して支度金を回収させろ」

「は……。よろしいので?」

「いま公に暴れられては鎮圧されるだけだろう、そんなことのために連中を生かしているわけではない」

「畏まりました」

「関わった商会は帝都外に出しておけ、存在せずとも関わりを匂わせるな」

「注意を払った上で情報を与えましょう」

 

 皇帝が彼に反政府組織の討伐を命じたのはなんの皮肉だろうか。或いは気付いて命を下したのか定かではないが、ともあれ迷惑な話だ。

 国家転覆を企む反政府組織の前身は、確か昔滅ぼされた国の王家の生き残りだとか、そういう連中だ。ライナルトは彼らに皇太子とは知られないように資金を融通している。ローデンヴァルト時代、帝都から離れているのを利用し作っていった独自の繋がりがあるためだ。

 しばらく細かな打ち合わせを続けていたが、次の報告はライナルトにとって愉快なものとなった。


「ヘリングから上がってきたのですが……」


 モーリッツがあからさまに眉を顰めるのは由々しき事態であったが、それはあくまで彼のものだけだったようだ。話を聞いていたニーカは心なしか安心している様子である。


「ジェフリーが彼女の元にいると。……しかも意図的に拾ったものではないと」

「はい。彼の者はファルクラム王子殺害の主犯、コンラートが抱えていることをファルクラム側に知られては、反乱も止むなしでしょう」

「ふむ。コンラートは何と言っている」

「害はない、と」


 モーリッツがもうすこしわかりやすい男であったのなら、額に青筋を浮かべていただろう。同時にライナルトは低く笑いを零した。コンラートの若い顔役は、もし露呈した場合、誰に責が及ぶかの重大さもわかっている。


「ヘリングを経由した上に責任を持つ、ではなく害はない、か。コンラートのみで抱えきれる問題ではないと理解している」

「殿下に害が及ぶのは必然でしょう。殿下が一言命じてくださいますれば、私が秘密裏に処分いたしてご覧に入れましょう」

「いや、構わん」

「殿下」

「もとより私が生かした命だ。あれが生き長らえればどうなるか、考えなかったわけではない。害がないというのであれば放っておけ、コンラートが監督してくれるというのなら任せよう」


 隣家には、ライナルトの次にジェフリーを気にかけていたヘリングもいるから、彼らをよりよく気にかけるだろう。幸い彼の伴侶は命令とあれば刃を振るうのに躊躇しない質だから、もしもの場合は任せるのも悪くない。

 ……ヘリングとエレナに関しては、何故結婚まで至れたのか未だに謎が多い組み合わせである。

 ライナルトの決議を聞いたモーリッツはあからさまに不服そうである。

 

「殿下はコンラートに甘くていらっしゃる」

「不服か?」

「はい」


 正直な男だった。だがモーリッツのこういう所をライナルトは美点と捉えている。


「許せ。一度親切にしたよしみか、どうにも優しくしたくなる」

「加減を覚えていただきたいものですな。彼女はまだ若い。殿下の恩寵を当然と捉えるようになれば、付け上がるばかりでしょう。そうなれば殿下はもちろん、コンラートにとっても望ましくない結果になる」

「モーリッツ」

「はい」

「そこまで愚かではないだろうよ、私の名を盾に驕るにしても、どうにも彼女は自信というものが不足している。周囲もただ走り任せるだけの愚か者ではない、放ってはおかんだろうさ」

「それはそうですが……」


 もし当の本人、コンラートの若き代表であるカレンがこの場にいれば面白くなさそうな顔をしていたかもしれない。肝心の本人は現在帝都にいないので、モーリッツも呼び出しようがない。兄がヴィルヘルミナについた件、気付けなかった責をとってファルクラム側の様子見と、もしもの場合の説得を兼ねて帝都を発ったのだ。

 モーリッツにも言われたが、どうにもカレンという人が絡むとライナルトは判断が甘くなる傾向がある。自覚があるから尚更不思議で、そして可笑しい。

 ――あの目を見ていると、少しだけ眩しいと感じる心地が嫌いではないのだ。 

 戻ってきたら食事にでも誘おうか、そんなことをふと考え、ペンを取った。

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