第107話 兄と妹
夢じゃない。見間違いでもない。男装時とは違い女性物の衣類を身にまとっているが、この凜とした雰囲気と意志の強い眼差し、はっと目を引く美女は間違いなくヴィルヘルミナ皇女だ。
「なん……」
「カレン、言いたいことはわかっている。だがひとまず横になりなさい、まだ熱が下がっていないだろう」
「だ……って……」
ヴィルヘルミナ皇女が興味津々といった様子で目を丸める。その視線の先にあるのは私ではなく兄さんであり、扉に体を預け首を傾げた皇女は愉快そうに口を開いた。
「これは驚いた。へたれ男でも妹の前では立派な兄として振る舞うのだな」
なんて言うものだから、こちらはもう仰天するしかない。二の句を告げなくなったのは、彼女に揶揄われた兄さんの反応だ。
「ヴィルヘルミナ、揶揄うのはよしてくれないか」
呼び捨てである。貴人を前にして眉を寄せ、ふざける彼女を窘める雰囲気は間違っても他人に行うものではなかった。皇女は肩をすくめ、悪かった、と軽い調子で謝るのである。
「わかったわかった。珍しいものが見れそうだと入り込んだ私が悪いよ。妹御も、私の興味本位で起こしてしまってすまなかった」
「……あ、い、いいえ」
よく見れば彼女は護衛を連れていない。一体全体どういう状況で我が家にいるのか不明だが、ここでやっと貴人相手に挨拶し忘れていたことに気がついた。
「皇女殿下のお越しに、このような姿で……」
「ああ、いらんいらん。無断で部屋に上がり込んだのは私だ。病人に挨拶させるほど鬼畜ではないさ」
「君ほどの立場の人を前にすればそうせざるを得ないんだ。……カレンは真面目な子なんだ、ほら、さっさと向こうに行ってくれ」
「おお、冷たい冷たい。無下にされたことだし、これにて下がらせてもらうか。……ま、本当に病気だったようだし、挨拶は後日にさせてもらおう」
「嘘じゃないと言っただろう。本当に身体は強くないんだ」
「許せよ。疑り深い性分故に、だ」
ヴィルヘルミナ皇女は部屋の外へ退散、兄さんは私を寝かしつけようとするけれど、そんな簡単に寝れるわけない。
「待って兄さん、どうして皇女殿下がここに――どういう関係で……!」
「それは熱が下がったら説明するから、今日は寝ておきなさい。本当に顔を見に来ただけなんだ。落ち着いたらアヒムに知らせるから……」
「アヒ……そうだ、アヒムは知ってたの!?」
「それも今度だ。私もこちらに来たばかりで忙しい、必ず話す機会を設けるから、言うことを聞いて休んでくれ」
「兄さ……」
布団を掛けると、逃げるように席を立ってしまう。出ていく前にせめて声をかけねばと思っても、うまい言葉は何一つ浮かばない。
「兄さん、ヴィルヘルミナ皇女と親しくなる意味を、わかって……」
「……もちろん。ファルクラムにいたときのお前と一緒だよ」
パタン、と扉が閉められると再び一人になるのだが、しばらくすると入れ替わるようにやってきたウェイトリーさんが、兄さんが帰ったことを教えてくれる。ただ、女性がヴィルヘルミナ皇女だとは知らされていなかったようで、身元を明かすと驚愕の声を上げていたが、事態の深刻さも悟ったようだ。
「そうですか、ヴィルヘルミナ皇女と――いえ、その話はカレン様が快癒してからにいたしましょう。今日の所は薬を飲んでお休みくださいませ」
ウェイトリーさんもこれ以上の話は避け、後日に回すと決めたようである。私も抵抗したところで進展があるわけではない。大人しく眠ることにしたが、結局胸のもやもやは晴れないままだ。
回復後、どこから聞きつけたのか兄さんから招待がかかったけれど、この頃には滞在していたキルステン家の関係者は全員我が家を後にしている。勿論この中にはアヒムも入っており、ウェイトリーさんも止める理由がないと引き留めなかったようだ。
「帝都内ですらヴィルヘルミナ皇女がいまだ皇位を諦めていないと噂で持ちきりです。ライナルト様についたコンラートにご滞在いただくのは、双方にとって好ましくないでしょう」
そういうわけで、我が家は一気に静かになった。寂しくもあるが、使用人さん達に余裕が生まれたのも事実。エミールの部屋を三階に、古株であるウェイトリーさんと護衛のヒルさんには二階に部屋を構えてもらうことで家の中は落ち着いた。
あとは招待だけれど、兄さんが住まうお屋敷で直接とのことだ。護衛にはジェフ、ただし屋敷に入らずに馬車で待機してもらうことになる。これは単にお呼びが掛かったのが私だけだというのもあるし、ないとは思うけれど、彼なら万一なにかあっても逃げ切ってくれるだろうといった期待もある。彼の正体についてはアヒムが向こうに付いた時点で諦めた。
「お待ちください。大事な話し合いなのでしょう、ヒル殿を差し置いて自分がいくわけには……」
などとジェフは遠慮しようとしていたが、ヒルさんはハンフリーを監督してもらいたいし、なにより二人はヴェンデル付きにしたいのだ。ヒルさん本人もジェフを推していたし、短い付き合いでも彼の仕事ぶりは堅実だと証明済みだ。本人としても妹の面倒を看なくてはならない、さらに見守りながら仕事をできる環境が揃っている、といった点もあるのだろうが、根が真面目だから重要な仕事を任せて問題ないと判断したのだ。
そのあたりをウェイトリーさんと一緒に説明させてもらったところ、一度なにか考え込むように部屋に引っ込み、護衛を引き受けてくれたといった経緯がある。
御者と共に迎えに来てくれたのはアヒムだった。私の知る彼は軽装で、街の中をふらついても違和感なく溶け込んでしまう装いだったが、この日の彼は良質な生地で仕立てた上品な衣類に身を包んでいた。
「や、そうじろじろ見ないでください。似合わないのはわかってますが、俺も仕事なんですよ」
「別に。……それはそれで似合ってるから、良かったんじゃない?」
「そう刺々しくしないでください。泣きますよ?」
「泣けば。……アヒム、ヴィルヘルミナ皇女のこと知ってたでしょう」
「……はは」
明確な返答はなかったけど、それこそが答えを物語っている。道理で、私がライナルト関係と親しくするのに良い顔をしないはずであった。もし私の考えが正しいのであれば、ここ最近、彼がやたら過剰反応であったのも頷ける。
「ま、それは直接坊ちゃ……じゃない、アルノー様と話してくださいよ。……それと、そこの後ろの御仁に関しちゃ俺はなにも話してません。ですからそう構えないでくださいよ。……その人が後ろめたいことをしない限りは黙っときますって」
「その点は心配いらない。恩人を裏切ることはないと約束しよう」
「俺も密告紛いの真似はしたくないんでね、期待を裏切らんでくださいよ」
……アヒムも滞在中、なにかとチェルシーを気にかけてたものなぁ。
余談だけれど、チェルシーはうちに来てから症状の安定を見せている。これはヴェンデルと使用人一同の功績が大きく、エマ先生とスウェンの遺した冊子をひっくり返し、気の病に効きそうな薬湯を片っ端から試したのだ。結果として、彼女はヒステリックに泣き叫ぶことはなくなった。環境も整ったためか落ち着きを見せるようになり、ジェフの喜びはひとしおである。
……まあその、その分生薬だとか取り寄せにお金は掛かったのだけど、今後なにかしら役に立つかもしれないので、先行投資ってやつである。
さて、馬車に乗り込みいざ出発という時だ。視線を感じて周囲を見渡すと、変な二人組と目が合った。一人はやんちゃっぽい顔立ちの青年で、もう一人は落ち着いた面差しの短髪の女性である。青年と目が合うと慌て、女性は会釈をして立ち去っていく。あんな知り合いはいないと思うのだけど、明らかにこちらを目視していたよね……?
「お嬢さん、早く乗ってくださいよ」
「あ、ごめん」
……軍人さんっぽい感じがしたから、そのうちエレナさんに会ったら確認してみよう。
そういえばあれから隣家からは撤収したようで、また無人になったようだけど、これからどうするのかな。
多くの疑問を残しながら馬車に揺られ、案内された屋敷は、うちとは違い見た目からしてお金のかけ方が段違いのお屋敷だ。下手するとファルクラムの家より大きいのではないだろうか。屋敷を構える区画も硝子灯がずらりと立ち並ぶ高級住宅街である。
柵門を馬車が潜れば、悠々と一周できるだけの広さの庭があり、草花一本一本に至るまで徹底的に整備されている。庭師は余程神経質な人に違いない。
二枚扉の玄関を潜るとすでに待機していた、家令と思しき老齢の男性が頭を垂れるのだが、まぁその玄関も立派なこと。白い大理石を敷き詰め、真正面には物語に出てきそうな広い階段。所々花が活けてあり、絵画の多さも相まって退屈はしなさそうである。
「……アヒム、いつから兄さんは住まいの趣味を変えられたの?」
尋ねてみるも、恭しく頭を垂れるだけ。
一階奥の部屋に案内されたのだが、道中気になったのは、従士がいくらか混ざっていたこと。キルステンだけの人員ではないのは明らかで、無論それは疑問を抱く部分ではない。兄さんの言葉を信じるなら帝都に来たばかりのキルステンに従士を揃えるだけの余裕はなかったはずだ。小慣れた雰囲気の彼らは間違っても新入りなどではない。
……それに通るたびに刺さるような視線がなんとも言えない気分になる。探るぐらいならまだいい、時折敵意をむき出しにする人がいて、そういうのは困るなあと感じるのだ。
すれ違った男性は明らかに貴人の類だろう。興味津々といった様子の瞳は相手への配慮をまるで見せない。いっそ失礼ともとれる態度を取っても堂々としていられるのは、神経が図太い人間か、それとも高位の立場の人間かのどちらかだ。この人は私を視認するなり声をかけようとしていたが、アヒムが間に入ったので渋々下がっている。
「アルノー様、ご令妹様がお着きでございます」
家令に通された部屋は、書棚と立派な机が設置された執務室といった趣だった。あちこち本が散乱しているし、机の上も書類が重なっている。華美な調度品も控えめで、これまでの雰囲気とは違い親しみやすい雰囲気だ。
書類と睨めっこしていたらしい兄さんが顔を上げた先には私がいて、控えめに片手を挙げるのだ。
「……忙しそうね、兄さん」
「すまない、もうこんな時間か。到着までもう少しかかると思ってた……!」
部屋に入ると家令が去り、途端にアヒムが溜息を吐く。まったく、と呟きながら室内に散らばった本を片付けだしたのだが、こちらには気にするなと言わんばかりに手を振るのだ。
「俺のことは気になさらず。見苦しくない程度に片付けたら壁に寄ります」
「悪い、世話をかけるな」
「人手が足りないししょうがないですよ。片付けはど下手くそなんだし、手出ししないでください。その方がこちらも助かります」
「ああ……」
兄さんが気まずげなのは、いつもだったら軽口を叩く私が黙って席に着いたからだろう。私も余裕があれば「アヒムがいないとまともな生活送れないんじゃない?」くらいは言っていたかもしれない。お茶が運ばれ一息ついたところで、どちらからともなく深く長い息を吐く。
「……兄さん」
「ああ、わかってるよ。焦らすつもりはない」
胸が波打っている。これからもたらされる話は、きっと私にとって良くない報せであろう事は想像がついていた。
「帝都に来たのはヴィルヘルミナ皇女の第二秘書官補佐に就かせてもらうことになったからだ。……待ちなさい、言いたいことはわかるつもりだが、これは私自身の意思であり決めたことでもある。カレン、私はライナルト殿にお味方することはできないと、そのことを話しておきたかったんだ」
……だけど、実際こうして聞いてしまうときっついなぁ。
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