第87話 おとしもの二人

「向こうではある程度有名な人物のようだが、この情勢で詳しくは調べられなかった。ただ、軍属というのはなかなかやっかいだろうから、気をつけなさい」


 調べを付けようにも、徐々に帝都に渡れる商人と連絡がつかなくなっていたらしい。帝国に不穏な動きがあったのを察した聡い商人は息を潜めることにしたのかもしれないし、帝国側の情報規制も働いていたのかもしれない。父さんも忙しい身だからそればかりに時間をとるわけにもいかないし、刻一刻と国内の情勢は悪くなる。思うように調査できなかったようだ。もっと調べられたら良かったのだがと呟くと、懺悔のように瞑目した。


「もっと早くにアンナと離縁すべきだったのに、私の判断がすべてを狂わせた。苦労をかけることになってしまってすまなかった」


 過去を悔いるような眼差しで床を見つめるのである。こうして向き合って話をすれば、父さんにも父さんなりの事情があったのだろうと心情を汲むことができる。実に数年ぶりに、娘として口を開いた。


「父さん。父さんは母さんを愛していた?」

「……ああ」


 辛そうに瞠目した。

  

「アンナの裏切りは悲しかったけれど、やはり、それでも愛していたよ。近くにいてほしかったんだ。――だから、だからこそ、あの時の私はお前とまともに顔を合わせることができなかった」


 そして、だからこそ私のことがまともに見れなくて悪かった、と。

 これ以上は語らない。父さんの話を聞いて、父が娘に語っていい言葉ではないのを苦悩する表情で察した。それはそうだろう、愛した妻の裏切りの象徴が傍にいては気が狂いそうになる。父さんには私の存在そのものが受け入れがたかったから離したのだ。

 それを思うと、もはや許す許さないの問題ではなさそうだ。この胸に渦巻く気持ちは複雑だけれど、少なくとも、父さんを拒絶する感情はもう存在しない。

 十四の頃、この人は寡黙ではあったが、決して私に罵詈雑言を吐きはしなかった。

 ……うん、じゃあもういいだろう。 

 

「いまも、私は父さんの娘でもいい?」

「――お前が私の子であることを許してくれるのであれば」


 だったら答えは一つだ。私としては、いまなお愛情をかけてくれる育ての父親の方をずっと大切にしたいと感じる。


「でもそんな悔いなくてもいいですから。私がけっこうしたたかなの、父さん知ってるでしょ。こんな結果になってしまったけど、コンラートに関わらなかった未来なんてもう想像もできないんだから」

「それは、父親としては少々複雑だな。……ああ、だがコンラート伯とは会えて良かったよ。あの御方と話をしたおかげで、私もいくらか己を見返すことができた」


 父さんとの抱擁は何年ぶりだろうか。すまなかった、と繰り返し抱きしめる力は強く、兄さんは本当にこの人とそっくりなんだなあ、なんて他愛もないことを思っていた。 


 コンラートに帰ってからは慌ただしかった。ライナルトへ手紙をしたためるのはもちろん、キルステンと連携を図りつつ、仕事と平行してファルクラムへ残す人員を割り振り、今後のコンラートの営みについても協議せねばならなかったのだ。エミールについては父さんが手伝ってくれるが、ヴェンデルの転校の手続きもある。ばたばたと慌ただしくなる私たちをヴェンデルは心配し手伝いを申し出たほどだったが、これはもうぴしゃりと遮った。


「帝都とファルクラムの学業の差がどれほどあるかわからないでしょ、もし先を行かれててもいいようにエミールと一緒に勉強してて。あとお願いできるなら姉さんの見舞いを……」


 姉さんは私と気まずいだけであって、ヴェンデルとは普通に接してくれる。妊婦にも優しい薬湯を作ってあげるのもあって感謝されているようだ。私の頼みもあったし、ヴェンデル達も頻繁にお世話しに向かってくれるようである。

 慌ただしくしているうちにライナルトからの返信も戻ってきた。正確にはライナルトというより、彼の部下であるモーリッツさんからだったが同じようなものだろう。要約するなら「責務を怠らなければいい」という内容で、ウェイトリーさんの予想通りの返事であった。この返事を携えて、事前に話をしていたファルクラム総督代理と会談、コンラート家は拠点を帝国へ移すことが決定したのである。

 姉さんと顔を合わせたのは出発前日だったか。コンラートは一応ファルクラム、ひいては姉さんのために帝都へ向かうということになっているので、最終報告を兼ねての挨拶だ。数ヶ月ぶりに会った姉さんは思っていたよりも気力に満ちていたし、肌つやも綺麗になっていた。

 はじめこそ緊張に表情を固めていたけれど、最後は「気をつけなさい」の言葉と共にぎゅっと抱きしめてくれたので、次会うときは少しは笑って再会できそうな予感がしている。それよりも出発前に顔を合わせた若い大公達の方が面倒だったと述べておこう。

 コンラート家からは、館に住んでいたほとんどの人を連れて行くことになった。といっても、元からいた使用人が少ないから微々たるものだろう。ベン老人はヴェンデルの住まう庭を手入れするため。一度裏切りを行ったハンフリーは今度こそ責務を全うするため。その師である隻腕のヒルさんはコンラートと弟子を見守るためである。ファルクラムに残っても給金を支払うだけの用意はあると伝えたが、本人達の強い希望もあって共に帝都に渡ることになった。各々コンラート襲撃で家族を亡くしていたのもあったためだろう。特にベン老人は向こうで一生を終えても構わないともとれそうな発言もされてしまった。……ご老体にはなるべく声をかけるのを心がけている。向こうでは忙しくなるだろうし、少しでも元気になってくれたらいいのだが。

 あとの人員は、ウェイトリーさんと秘書官数名。大多数はこちらに置いていって、現地で人を雇おうとの話になっている。

 これにキルステンからはアヒムと兄さんの秘書官達。エミールがついてくるので道中の護衛代金はこちらと折半である。父さんと私が普通に喋っていたので我が家の兄弟達はひどく驚いていた。

 

「そういやあお嬢さん、随分と荷物を持っていくようですが向こうでの住まいは決まってるんですか。俺たちはしばらく宿に滞在するつもりですけど……」

「ああそれね。一応自分で探そうとは思ったんだけど、総督代理がそれなら一時でも仮拠点なりあったほうがいいだろうってことで、手配してくれるみたい」


 アヒム、露骨にいやそうな顔をした。彼、モーリッツさん達のこと好きじゃないからなあ。


「……あくまで仮拠点だから、いいところがあったらそちらに移るつもり。どんな家かはわからないけど、部屋が余るようだったらアヒム達もこちらに泊まったら? 宿泊代だって馬鹿にならないでしょう」

「――うん、そのときはお願いしようかな」


 今回住まいを変えるのはコンラートだけ。アヒム達はただの情勢視察なので家が用意されるわけではないのだ。誘ってはみたものの、紹介される家が気に入るかはまた別の話なので、良い家であることを祈るばかりである。

 出発日はあっという間にやってきて、王都を囲む城壁を眺めながらファルクラムを後にする。次にこの都を訪れるとき、この景色がどう変わっているかは誰にもわからない。何台もの荷馬車と共に進む一行は護衛に守られながら街道を進むのである。

 帝国とファルクラムを繋ぐ街道は多くの商人や旅人が利用するのもあって、道はかなり整っていた。一定区間毎に小規模ながらも駐屯地が点在しており、度々衛兵が街道を往来する。街道から望む景色は色づき始めた新緑が美しく目を楽しませてくれたが、比較的安全であるはずの街道も、一歩道を逸れたら危険の二文字がつきまとう。道中、村があればなるべくそこで休むようにしていたが、野営が避けられない日のお風呂! なによりもトイレが大変だったと述べておこう。旅人って偉大だ、と感じたのはまずこの点である。

 お風呂は、最悪荷馬車の天幕を閉じて身体を拭けばなんとかなるのだ。だけどトイレはそうもいかない。もちろん離れた場所でお花摘みを……となるのだが、離れすぎては駄目だと雇った女性の護衛にきつく言われていた。


「こういう仕事をしているとね、若い娘が便所のために入った茂みで消えたって話も少なくない。そしてその後、裸で野盗の穴蔵から見つかったって話もね」


 野盗にとって、若い娘が自分から一人になりたがるトイレの時間は格好の機会なのだそうだ。私たちはたくさんの荷馬車を連れているし、間違いなく野盗に情報は伝わっている。絶対に離れるなと厳命されたため、このあたり本当に苦労させられたとだけ述べておこう。

 コンラートから王都への道のりは今回の比ではなかったのだと実感していると、とうとうファルクラムと帝国の国境に到着した。ファルクラムと帝国を繋ぐ道は他にもあるが、それらは険しい山々を越えていかねばならず、この街道が一番安全かつ確実な道である。大きな門に付随していくらか建物が繋がっており、それらを囲むようにして宿や飲食店が点在している。道ばたでは露天を開く者があふれかえり、ちょっとした町のようでもあった。

 初めて見る景色にエミールが驚きの声を上げる。この旅で一番元気だったのは、やはりヴェンデルとエミールであった。未知の体験に瞳を輝かせていたのである。

 辺り一帯は見渡す限り木々が伐採されており、緩やかな丘のようになっているのがエミールには意外なようだった。


「国境門ってこんなになにもないんだ。もっと栄えてると思ってた」

「わたくしが訪ねた頃は、まだいくらか木々も残っておりましたが……門は軍も利用いたしますから、駐屯できるよう森をなくしたのでしょう」


 エミールの疑問に素早く答えてくれるウェイトリーさんである。

 見晴らしがよければおいそれと野盗も近寄って来れない。あちこちに駐屯兵の姿が見かけられるのもあって、一旦休憩と解散の流れになった。そうはいっても私から護衛が外れるわけではないのだが、四六時中人に囲まれている道中よりは何倍もましである。

 ウェイトリーさんがこの日の宿の手配。ヴェンデル達はヒルさんとハンフリーに任せ、私はアヒムを護衛にそのあたりを散策。露天を適当に冷やかして回っていたときだ。

 国境門町……と称していいかはわからないが、ほとんど町のようなものだろう。町を抜けて、外へとふらふら歩き出す人影が目に飛び込んだ。


「アヒム、あれ」

「ん?」


 黒く薄汚れた外套を目深に被っているから詳細は不明だが、零れ出る髪の長さからして女性ではないだろうか。町中の一人歩き程度なら気に留めることもないが、遠目からみてもその女性の足取りは危うい。バランスが取れず足取りはまばらで、どこに行くのかも定かではなさそうだ。外套の裾から覗く服は薄汚れた寝衣のようだったし、靴すら履いていない。


「外に向かってる。あのまま向かったら危なさそう」

「……お嬢さん」

「せめて中に戻すくらいはいいでしょう。いまなら町を出る前に話しかけられる」


 関わるなとアヒムの目は語っているが、放っておくのは忍びない。あれで一人ということはなさそうだし、女性に向けて走り出したのである。

 足取りは緩く、行き先も定かではなかったためだろう。女性に追いつくのは難しくなかった。


「もし、そちらに行くのは危ないですよ」


 足を止めて、空を見上げる後ろ姿に声をかけたのだが反応はない。正面に回り込んでみると、真っ先に焼き付いた印象は、痩せこけた頬と虚ろな眼窩だった。

 ぼうっと、かさかさの唇を半開きにして空を見上げている。何度声をかけても空から目を離さない姿に、アヒムがため息を吐いた。


「お嬢さん。これは気がやられちまってる、話しかけても無駄ですよ」

「身内の人……は、いないのかしら」

「……いるんでしょうか。見たところあんまり良い身なりじゃありませんよ」


 外套の下は薄汚れた寝衣で間違いなかった。手先から足先の爪の中まで真っ黒に汚れており、ツンと鼻をつく異臭も漂っている。比較的綺麗なのは外套だけだが、それも使い古したもので生地もぼろぼろだった。あたたかくなり始めた頃だからよかったけれど、始終これでは風邪をひくだろう。

 女性は反応を示さない。どうしたものか頭を捻っていると、町の方から男の人が向かってきていた。慌てているのか腕を大きく振って、おおい、と声を荒げている。

 男性は腰に小さな斧を携えていたが、その柄含め決してよいものではない。着古した旅装一式でなんとか体裁を整えたような身なりで、伸ばし放題の髭も合わさって不審者とも間違われそうだ。その一因を担っているのは、怪我のためかあちこち腫れたまぶたや歪んだ鼻である。全力疾走したためか、ハアハアと荒い息を吐く男性の年頃は四十頃だろう。


「い、い、いもうとが、なにか、失礼を、しただろう、か」


 顔が歪んでいるからだろうか。男性も外套を目深に被っているが、片方の目の周りはまともな形相である。汗水垂らす男性にいいえ、と首を振った。


「外に出て行かれようとしていたので、声をかけたところでした。あなたは、こちらの方のお身内ですか?」

「か、彼女は妹で、私は兄です。少し離れた間に妹の姿が見えなくなって、ずっと探していました」


 そう言って女性を見つめる眼差しは安堵に溢れている。よかった、と心の声が聞こえるようで、嘘を言っているようには思えなかった。


「ああ、貴女がたはわざわざ妹を追いかけてくださったのか。親切な方、ありがとう。本当にありがとう」


 感謝を繰り返し、優しく女性に語りかける。よくよく見れば二人の髪や目の色はそっくりだ。女性にさあ行こう、と声をかける男性に、つい声をかけていた。


「……よろしければ、ですけれど。私たちは食料と水に余裕があります。女性ものの服もありますし、妹さんを着替えさせては如何でしょう」


 申し出に男性は目を見張ったが、いや、と口ごもった。


「親切にしていただけるのはありがたいが、そこまでしていただくわけにはいかない。妹を止めてくださっただけでも十分だ。我々はここで――」

「見たところ、あなたもあまり食べていないのでは? その顔色で妹さんを連れて行くといっても厳しいでしょう」


 男性の顔色や唇を見れば、栄養が足りていないのは明らかだ。満足な宿に泊まれるだけの余裕もないだろうし、畳みかけるように告げると拳を握って黙り込んだ。


「……お金を巻き上げるような真似もいたしません。ただお声がけしたご縁というだけですから断られても結構ですが、受けられた方がよろしいと思いますよ」


 男性は歪んで半分埋もれた瞳をちらりとこちらに向け、しばらくなにか探るような眼差しを向けていたが、それも僅かな間だけだった。妹と呼んだ女性の身なりと痩せ細った手足、それと己の矜持を天秤にかけた結果はすぐに出たのである。


「…………見ず知らずの方にこんなことを頼み申し訳ないが、私はともかく……妹に、水と食料をわけていただけないだろうか」

「はい。では一緒に行きましょうか。そう離れていませんから、すぐです」

 

 男性は迷った末に申し出を承諾。その間アヒムが無言だったが、なにも言ってこなかったということは、つまり彼も気付いていたと理解していいはずだ。そのためか、あえて口を挟むような真似をしてこなかった。

 あー、と女性が気の抜けた声を上げる。


「すまないチェルシー。お前を一人にしてしまって……」


 心配そうに声をかけるが、チェルシーと呼ばれた女性は「あ」と言葉を繰り返すばかりである。男性に手を引っ張られると、素直についてくるようだった。

 すみません、と繰り返す男性に微笑んで、さて、と考える。

 ひとまず声をかけたのはよかったが、脳裏にあるのは意外なところで意外な人物に遭遇した驚きだ。

 見目は大分変わっているが、私の記憶している男の双眸や声に間違いはない。

 男性はファルクラムで処刑されたと報じられた、ダヴィット殿下殺しのジェフリーその人であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る