第52話 生かすための選択

 ほんの少しだけ休むつもりが、いつの間にか寝入ってしまっていた。目を覚ますと、顔をのぞき込む夫人が憂わしげに私をみつめている。


「魘されておりました、お疲れのところ申しわけないと思ったのですが……」

「い、いえ……ありがとう。寝たつもりはなかったのだけど、変ね」

「緊張が続いたからでしょう、いまはどうですか」

「ん、少し休めたみたい」


 本当は心臓が早鐘を打って痛いくらいだ。どんな夢を見ていたかわからないが、思い出したいとは感じない。額を流れる汗が気持ち悪くて、呼吸を落ち着けるのが精一杯だ。


「……大丈夫よ。もう、大丈夫だから」


 誤魔化すように笑って、不安そうなヴェンデルの頭を片手で抱え込む。

 強がるなんて到底無理な話だけれど、心に鞭打ったのはヴェンデルがいたからだ。正直、寝てしまったのは失敗だった。そんなつもり到底なかったのに、気付いたら意識が落ちていたのだ。改めて周囲を見渡すと、出口と通路に分かれていたはずの護衛が三人集まって、小声でなにかを協議している。一人は出口の扉に耳をあて、険しい表情で耳を澄ましていた。


「どのくらい経ったの?」

「それほどは経っておりませんが、ここを出る機会は逃してしまいました」

「……私が寝てしまったから?」

「いえ、実は奥様が休んでいる間に出発しようという話にはなったのです」


 何故起こしてくれなかったのだろうか。疑問に思っていると、夫人の表情がはっきりと強ばった。彼女は言いにくそうに、しかし意を決して現実を伝える。


「道を確かめるために出てもらったのですが、松明を持った集団が見えたため引き返したと……」


 今度こそ緊張で息が止まった。全員揃っているということは当然見つからなかったわけだが、心臓に悪い報告である。 


「それは、コンラート領の人ではなくて……?」

「残念ながら、なんの理由もないまま抜き身の刃を持ち歩く者は……」

「で、です、よね。ごめんなさい、変なことをいいました」

「お気を確かに。続きですが、外は雨が降り出していたおかげか、霧が立ちこめはじめていたのもあって見つからずにすんだそうです。天がこちらに味方いたしました、この出口もまだ見つかっておりません」

「起こしてくれたら……いえ、起きても混乱していただけね。寝かせてくれてありがとう」


 悪夢だったとはいえ、少しでも睡眠を取れたのは僥倖だったようだ。足手まといだから起こされなかったという自己嫌悪も、当然の判断として受け入れるだけの余裕が生まれている。


「幸い、この出口は上手く見た目を細工しているようで、よほど近づかない限りは見つかりにくいそうです。霧がもっと深くなれば、外に出ても視界を誤魔化せるのではないかと。幸い通路からは追っ手も来ませんし……」


 ここに籠もっていたい気持ちが強いけれど、外に徒党を組んだ集団がいた事実を踏まえると厳しいだろう。もし出口から追い詰められてしまってはコンラート領に逆戻りである。下手に彷徨うことが許されなくなったため、彼らは今後の行き先を相談していたらしい。ひとまず森に隠れたあとは暗闇に紛れ、近隣の村へ逃げるまではよかったが、新たな問題に直面したのだ。


「……近くの村でも、足だと相当かかりますね。それにこのあたりは舗装もされてないから、石があちこちに転がってる」

「はい、それにいくら今日が暖かかったといえど、夜は冷え込みます」


 言われて初めて気付いた。そういえば季節はほとんど冬も同然なのに、あまり寒さを感じない。夫人曰く、この地下通路の中だけは不思議と気温が一定に保たれているらしい。


「外にでたら雨と寒さに晒されるのね」

「……わたくしとしたことが、外套すらまともに持って来れませんでした。申し訳ございません」

「気付かなかったのは私も同じだから。それに、どのみち雨が降っていたのでは……」


 あんな状況だったのだ。なにが起こるかわからなかったし、お互い気が動転していたのだから仕方ない。ここで護衛も交えて相談に入ったのだが、彼らはやはり厳しい表情だ。


「森へ抜けるだけなら可能だと思うのです。ただし、問題はそこから。道中は風が強く、またこれらを遮る木々がない。強風に晒されるのは必至でしょう。我らの外套をお渡ししても、その後の皆様方が寒さに耐えきれるかどうかがわかりかねます」

「でも、離れないと危険なのよね?」

「……いまは霧が我らの味方をしておりますが、安全とは言い難いでしょう」

「もう一つ、念のため確認しますが、件の不審者達をあなた方だけで倒すことは可能ですか」

「可能でしょう。館での敵の実力を見るに、真っ当に戦えば我らだけでも十分に対処できます」


 これは力強い断言のもと宣言された。ただし、これにも当然危険が伴う。


「複数人相手が二組、もしくはそれ以上だった場合は厳しい。そういうことですね」

「お察しいただけてなによりです。捨て身で挑めば或いは勝機もあるやもしれませんが、相手は飛び道具持ち。我々の目的は皆様を無事に逃がすことのみですので……」

「守りながら戦うのは到底厳しいと。……ええ、承知しています。……ですので、指示を。私たちはどうしたらいいですか」


 私はまだいい、気がかりなのはヴェンデルだ。まだ十一歳の少年の体力がどこまで持つかが不安要素である。かといって見捨てる選択肢はないから、いま必要なのは覚悟だ。

 護衛が意外そうな顔をしたのは、私が彼に教えを乞うたからだろうか。


「……領主の妻だろうと、貴族だろうと、戦いにおいて私は素人です。そうでしょう?」


 いくら身分が高くても、実際私たちの身を守り戦い、土地勘があるのも彼らだ。なにもできない自分が悔しかろうと、実力不足だろうと、素人が喚いたところで邪魔にしかならないのだと早く受け入れるのだ。

 こんなところでは下手なプライドなど何の役にも立たない。なぜなら私はヴェンデルを絶対に生かさなければならないのだ。これがただの強がりで、震える足を立たせるための誤魔化しだとしても、いまは自分の心を偽らねばならない。


「……聡明な判断に感謝いたします。では、ひとまずは我らの外套を羽織ってください。決して顔は晒さぬように、そしてヴェンデル様と離れませんように」

「はい」

「傍でお守りするつもりではございますが、もしも離れねばならない状況に陥っても、構わず走りなさい」


 大声を出さない、苦しくても兎に角走れ。逃げ切らなければ意味がないと再度確認させられた。ヴェンデルは先ほどから喋らないが、焦燥した面差しから口を開く気力すらないらしい。

 そっと戸を開けると同時に、どこか遠く……私たちが通ってきた後方から大きな音が響いていた。「まだ遠い」と教えてもらわなければ焦りで冷静さを失っていただろうことは容易である。

 外の視界は想像していたよりは悪くなかった。想像していたのは一メートル先も見えないような最悪のパターンだが、それに比べればいくらか見通しは利く。外が明るければさぞ神秘的な光景だったかもしれないが、いまは夜というのも手伝ってただ暗闇が続くだけだ。足下を照らさねばあちこちに転がっている石に躓いてしまうので油灯が必須なのだが、これを頼もしいというべきか、見つかってしまわないかと恐怖に怯えるかは各々の判断によるだろう。薄明かりだけを頼りに、荒れた下り坂を降りていく経験は二度としたいと思わない。


「……わかっていたつもりだったけど、本当に周囲には木々もなにもないのね」


 周囲を見渡せる高みにあるのがコンラートの強みだけれど、裏を返せば脱出が難しいといった側面もあるのだろう。


「ヴェンデル、頑張って」


 ヴェンデルはまだ余裕がありそうだが、夫人がすでに息が上がっている。かくいう私もいささか辛くなってきたが、口が裂けても休もうとは言えない。ぱらぱらとふる小雨と刺さるような冷気に包まれながら、ぐずぐずの土と小石を踏みつつ進むのである。

 もう喋るのもつらいと思うくらいは足を動かしただろうか。ようやく森を目前としたときは、不思議と「終わった」という気持ちにすらなった。暗闇の中、鬱蒼と茂る木々は薄気味悪く、常ならば入るのも躊躇うほど恐ろしいのに、この時だけはまるで天使が両手を広げているかのように感じられたのである。


「これで……」


 これで身を隠せる。少しくらいは休むことが叶うだろうか。湧き水でもあればなお良いのだが……。力なんて失せたと思ったのに、知らず足取りが軽くなっていると、遙か遠くで派手な音が鳴った。

 ……いや、鳴ったというのはあまり正しくない。響いてきた、というのが正解なのだろう。それは雷鳴といった天の呻りではなく、昔なにかの映画で聞いたような人為的な爆発音に、全員が見えもしない方向へ振り返る。


「いったいなにが起こったというのです……」


 唇をわななかせる夫人の絶望は深い。コンラート領でなにがおきているのか、伯やウェイトリーさんはまだ無事なのかを考えると知らず奥歯を強く噛んでしまう。ヴェンデルの背中に手を当てて「行こう」と口にしかけたときだった。

 目の前で護衛の一人が倒れた。どこかで「仕留めた」という叫び。その側頭部には木の棒が刺さっている。人ってあっけない。そういえばスウェンも声を出す間もなく倒れたな、なんて呑気に突っ立っていたら、三人のうち残った二人が私とヴェンデルの手を引っ張り走り出した。


「森にいるぞ!!」


 緊張にみなぎった叫びに、また自分が呆けてしまったのだと我に返る。一歩一歩、なんてじっくり言い聞かせる余裕はない、がむしゃらに足を動かして走るのだ。


「――ッ!?」

「ヴェンデル!」


 転びそうになった少年の腕を引き上げた。背後から次々と飛来しては地面に刺さる。むなしくもあっという間に死んでしまった護衛の頭部に刺さったのと同じ矢だ。


「いい服を着ている女だ!」

「婆をやれ! まだ仕留めてない方だ!」

「金になる!!」

「首を落とせ、顔を傷つけるな!」

 

 絶叫と殺意は私たちにとって呪いだった。惜しむらくは言葉の意味を理解する前に彼女が足を止めたことである。正直、何故後方を走っていたヘンリック夫人が付いてこなかったことに気付けたのか、後になってもわからない。虫の知らせなんて不確かな直感でも走ったのだろう。


「ヘ――――!!」


 息も絶え絶えで振り返ったとき、ヘンリック夫人はうっすらと笑っていた。それは不敵で、あたかも博打に大勝利したかのようなふてぶてしい微笑だ。彼女の肩は赤く染まっており、赤い命の水を流している。

 ……行って、と言われた気がした。

 夫人は別方向に向かって走り出し、なぜかそれを咎めもしない護衛の一人が剣を片手に、まるで彼女を庇うかのように恭しく付き従う。


「待って、夫人、たち――!」

「声を出してはなりません。囮が無駄になる……!!」


 前を走る男性が呻いていた。横並びに走るもう一人の護衛の目元が真っ赤になっているのを一瞬だけ目撃した。

 それで、この人達はなにもかも織り込み済みだったのだと知ってしまった。息切れを始めた身体とは裏腹に嫌になるくらい頭が働いてくれる。

 ――必ず貴方たちだけでも逃がしますからねと、あの人はいっていたのだ。

 その中に、自分の命が勘定されていなかったのに、どうして私は気付けなかったのか。

 残った護衛のうち、壮年の方の男性が振り向きざまに剣を振ると、偶然かは不明だがヴェンデルを狙っていた矢をたたき落とす。


「行け」

 

 それだけの、短いわかれの言葉だった。ぐう、と吐き出しそうになる嗚咽を堪えた最後の護衛がヴェンデルを持ち上げ疾走する。

 どうして伯もあの人も、振り返らずに敵だけを真っ直ぐに見据えられるのか、彼らの裡にある覚悟が私にはわからない。わかるのは、あの人ももうすぐ死んでしまう未来だけ。こんな理不尽な話がまかり通る現実と、いま立ち止まったら二度と走れなくなるという確実な予感だ。

 走って、走って、とにかく走った。どこに向かっているかはわからない、息ができないどころではない。走るという行為を今後一生憎み嫌うくらいには駆けた。暗い霧の中を進むのは、まるで死神の中に飛び込むような感覚に近い。

 やがてヴェンデルを抱えた青年は背の高い草むらを発見するとその中にヴェンデルを投げ、次いで私も放り込む。


「じっと丸まってやり過ごすんです、自分がしばらくしても戻らなかったら逃げるんです。よろしいですね」


 私にはなにも聞こえないが、そういえば出口の前で耳を立てていたのは彼だった。進退窮まる状況で反論などしている余地はないし、その間にも青年は霧の向こうに姿を消してしまったのだ。彼は私たちを隠したがったようだが、こんな草影に隠れきれるわけがない。どこかに逃げようとも思ったが、言い争いの声が聞こえると外套ごとヴェンデルに被さるように重なって、できる限り息を押し殺した。こちらの気などしらず肌を這う蜘蛛や蠅の耳障りな羽音も、これから訪れる緊張感に比べれば可愛らしいものだった。

 怒号と足音が近づいてくる。今すぐ顔を上げて安全を確かめたい衝動を堪えて、身体の下で震えている身体を抱きしめた。

 すぐ傍で私たちを探す男女の声がする。一瞬女性がいることに耳を疑ったが、誰もが一様に殺気立っているから首をもたげた安堵もすぐに引っ込んだ。連中は一様に金が、分け前がと口にしていたのだが、次第に剣呑とした空気を帯びてきたようだ。


「向こうの連中は領主と息子と若妻の方をやったそうじゃないか。どっちもお貴族様だ。さぞ金を弾んでもらえるけどね、こっちは大した金にもならない妾一人だ。ただでさえあいつらにいいとこ取りされてんのに、年食った婆一人じゃたいした金にもなりゃしない!」

「場所についてはもう言わねえって言ったじゃねえか! おれだって好きで負けたんじゃねえ!」

「馬鹿お言いでないよ、こっちはガキ共の金稼がなきゃならないんだ!」


 早く向こうに行ってくれ。必死に願いながら隠れていると、突然足音が近くなり、ガサガサと草をかき分ける音がした。


「……なぁんてね」


 真上から声がした途端、外套を投げつけて逃げようとしたが失敗した。足を引っかけられて転んだのだ。

 女は半ば同情的な目つきだった。心底哀れむような眼差しである。


「おい、どうだ?」 

「いたいた。間違いないよ! ……年齢的にそっちは次男かしらね。そこの子は……まだ若いし、婆さんの召使いちゃんか。ま、ここでさっくり死なせてあげるよ。そんな可愛いお顔じゃ男連中につっこまれまくった挙句死んじまう」


 同じ女として見ちゃいられないからね、と女は真顔で頷いている。


「……三人は忠義に厚い騎士様だったのに、最後に残ったのが主君を置いて逃げる卑怯者なんて運がなかったね」

 

 ――ここらが潮時だろうか。

 近寄る女に対し、もう私にできたのはヴェンデルを背中に庇うことだけだ。

 ……私は斬られる。生き延びたかったけど、それはもう第二の人生を歩めた代金として諦めよう。頑張って逃げた結果だから、嫌だけど、本当にとても嫌だけど斬られてやる。ここでヴェンデルを突き出せば、もしかしたら私だけでも逃げられるかもしれない……なんて少し考えたりもしたけれど、実行はしないからどうか許してほしい。

 女が斬りかかる前に飛び出した。逃げなさい、と陳腐な台詞も叫んだかもしれない。がむしゃらに腕を動かして、幾度か蹴られもしたと思う。私にやれることは少ない、女の手にしがみつき、腕に噛みつきながら時間を稼ぐことくらいだ。

 やがて肩に鈍い痛みが走った。ショックで身体が言うことをきかなくなって、すぐに張り飛ばされる。カレン、と少年が泣き叫ぶ声で逃げ切る時間も稼げなかった己の無能さに泣きたくなった。

 苛立たしげに飛びかかってくる女の腕には、いますぐに私の身体を貫こうとする凶器がある。

 死ぬ、と思った。

 これまで両親や友達を置いていった側だったから、今日になってはじめて置いていかれる側の気持ちを味わって、そしてこんな心のまま、また誰かを置いていくのが悲しかった。

 ……けれど刃はいつになっても下ろされない。

 ゆっくり顔を上げると、女の額に何かが突き刺さっている。命中、と誰かの叫びが聞こえたかと思うと、背後からなにかが一斉に草をかき分けてくる。 


「カレンちゃん!」

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