第37話 なくしたもの
夫人は気になるし、アヒムにはエルのことを話しておきたかったがそうもいかないようだ。伯は部屋に籠もってしまったはずだが、お呼びとあらば参じるのみだ。
昨日ぶりの伯は、広めのソファにゆったりと腰をかけていた。たった一日の間にやつれてしまったようだった。心配をかけすぎてしまったか、挨拶もそこそこに頭を下げた。
「ごめんなさい、お騒がせするつもりは……いえ、言い訳にはなりませんでした。申し訳ありませんでした」
「うん?」
が、どうも反応が鈍い。殿下や昨晩の件ではなかったのだろうか。
「旦那様、奥様は旦那様の顔色が悪いのを心配しておいでなのです」
「ああ……。すまない、もしかして勘違いをさせてしまったのかな」
「そのようです。奥様、どうぞおかけになってください。旦那様は昨晩の件を怒っているわけではございません」
「でも顔色が悪いです。今日はやめたほうが……」
「いや、僕が話そうと思っているうちに済ませたいんだ。それより、昨日は顔を見せなくてすまなかったね」
「お疲れだったのでしょうから……それに、足を痛められたとかで」
「昔の古傷さ。完治しているはずなのだけれど、時々痛んでしまう」
ふう、と背もたれに背中を預ける姿は、コンラート領を発つ前の雰囲気そっくりだ。
「夫人も倒れたようだし、これ以上彼女に心労をかけるのもよくないだろう」
「御言葉ですが、旦那様もでございます」
「なんだい、今日はよく喋るじゃないか」
「喋らねば、旦那様が無理をなさるでしょう」
珍しくもウェイトリーさんが会話に参加している。言葉遣いこそ違うが、こうしていると二人は旧知の仲のようだ。伯は私に向き直ると、改めて話題を切り出した。
「まず、屋敷の件だけれどローデンヴァルトからは正式な謝罪をいただいたよ。僕としては彼らと騒ぎは起こしたくない。直接の被害者であるカレン君がいいというならこのまま流してしまおうと思う。どうかな」
「はい、なんらかの注意喚起をしていただけるのであれば、そこで手打ちにしてください。なんであれコンラートの警護の質も問われるでしょうし、蜂の巣をつつくような真似はしたくありません」
「承知した。……ただし許す、というよりは貸しを作っておく、くらいに考えておきなさい。それもかなり大きな貸しをだ。いつか何かの役に立つかもしれないからね」
「はい。……やはり甘すぎましたか?」
「そうだねえ、甘いと言えば甘い。けれど君の判断に委ねたのは僕の指示だ」
ですよね。ええ、アヒムに言われてからちょっと気にしてました。わかってはいるのだけれど、彼らを前に突っぱねることなどできなかった。
「けれど相手がローデンヴァルトだからね。例えば相手がこちらに敵意を持っているなら僕も黙ってはおけなかったけれど、ザハール君は知らない仲じゃない。……あの子は少し野心が強いようだし、使える手札になるなら構わないさ」
「確か貪欲、でしたか。以前も似たようなことをおっしゃっていましたけど……」
「僕もそうだが、上を目指す貴族なんてのは大抵ろくでもないことをしているのさ。君も歳を重ねれば、そういう人物はなんとなくわかるようになる」
「……少なくとも私にとっては、伯はろくでもない貴族ではありません」
「ありがとう。いまはそういう風になりたいと思っているからね、結果として実っているならなによりだ」
まるで自分もろくでもない部類であるような物言いだった。しかしなんとなくわかる、というのはこの人独自のスキルのような気がするのだがどうだろう。そしてさらりと手札と言ってるあたり、やはりこの人も伯の称号を冠するだけの人物なのだ。
「殿下から心ない言葉を投げられたそうだね。ライナルト殿の話では、一言二言くらいだったと聞いているが……」
「その通りです。長く話をしたわけでありませんので、私の方はさほど。……というより、事実はいくらか違いまして、説明をしなくてはなりません」
伯にはウェイトリーさんを通してエルの捜索を協力してもらっていた。事実は彼女が襲われており、その間に入ったことで……と伝えると、伯は納得してくれたようである。
「カレン君が心ない言葉に倒れ込んでしまったと聞いたけれど、君は同年代のお嬢さんと比べても心が頑丈……悪口といった類は受け流し慣れているだろう。……なんてことを言ったらエマには怒られてしまったけれど、実は不思議でならなかったんだ」
どうにも伯にも過大な評価をいただいていたらしい。しかし、と老人はため息を吐く。
「……殿下の女癖は悪化するばかりだな。王妃様の御言葉すら耳に届かなかったと見える」
ただ殿下の将来を憂いているにしては、あまりにも感情の籠もりすぎた一言である。ウェイトリーさんの咳払いと私の視線に気を取り直したようだ。
「いままでの確認だから、改めて問いただすことはないよ。あまり時間を取ってもなんだし、本題に移ろうか」
本題は確かに昨晩に関する出来事であったが、私の予想とは違っていた。
「陛下から僕とどういった関係だったのかを聞いたのだね?」
「はい、陛下にとって兄のような存在だったと」
「……だろうね。あの御方ならそう言うだろう」
「ご存知ではなかったのですか?」
「どんな話をしたのかまでは知らないよ。ただ、陛下が君と話をしたのであれば、僕のことを兄のような存在だと伝えると思っていただけに過ぎない」
折を見て確認しようと考えていた話だが、伯から教えてくれるのであれば願ってもないタイミングである。
「……ただ、本当は先に伝えておくべきだった。カレン君はうまくやってくれたのだろうけど、すまなかったね」
「謝られるようなことはなにもありませんでした。驚きは、しましたけど……」
「陛下のことだ、私が年下のお嬢さんを娶ったと聞いて、自分と似たようなものだからと喜んだのだろう。上機嫌だったに違いない」
「そう……ですね。私程度に、過分な御言葉もいただきましたし……」
「彼は僕に許されたがっているからね、きっと理解が得られたと思ったんだろう」
「許され……?」
伯は俯き加減に両手を握りしめている。眼差しは真剣そのものだが、指先は微かに震えていた。
「……旦那様、ここはわたくしが代わりに」
「いや、表向きとは言え、本来知っておいて然るべき話をしておかなかったのは僕の弱さだよ。下手をすると陛下に疑われるところだった」
「無理はいけません。リズですら倒れてしまったのです、お二人の辛さをわたくしがわからないとお思いですか」
しばし見つめ合う伯とウェイトリーさん。根負けしたのは伯の方だった。
「カレン君、呼び出しておきながらすまない、僕は休ませてもらうよ」
「お大事にしてください」
隣室への扉が開かれた際、そこにいたのはエマ先生である。夫の肩を抱くエマ先生の瞳には悲しみが宿っていた。
主の代わりに別席に座ったウェイトリーさんは、深いため息を吐く。
「旦那様の代わりは務まりませんが、どうかお許しください。旦那様は昔の古傷がいまだ癒えておらず。……いいえ、正確に言えば治ったはずの傷がいまだ痛みを持ち続けているのです」
「それは、ヘンリック夫人も?」
ウェイトリーさんは沈鬱な表情で肯定した。
「昔、旦那様とリズは共通の疵を負いました。……リズには、昨日の登城は止めるべきだと説得したのですが、奥様が心配だったのでしょうね。それにもう一度城を見ておきたいと言って……」
「……具合を悪くしていたとニコに聞きました」
「やはり我慢ならなかったのでしょう。リズの娘は城で亡くなったわけではないが、死に追いやってしまったという意味では関係がありました」
「娘? 娘さんがいたんですか? ヘンリック夫人に?」
彼女の立ち居振る舞いからして、当然それなりに高い身分の既婚女性だろうが、娘がいたという話は聞いたことがない。そもそも夫は結婚後まもなく亡くなっていると聞いていた。
「いたのです。ただ、その娘はリズの姉の子、姉夫婦が亡くなってしまったことでリズが引き取った娘でした」
昔に思いを馳せるように、ウェイトリーさんの眼差しは遠くを見つめている。
「明るく朗らかな子でしたよ。リズも夫を早くに亡くしたからでしょう、実の娘のように可愛がっていたし、本当の親子と言っても差し支えないほど仲が良く、たくさん喧嘩もしていた。当時あの二人には振り回されたものです」
「……でも、亡くなられたのですね?」
「ええ、自殺でした」
ウェイトリーさんは淀みなく答えるが、自殺、というのはいささか意外だった。
「伯との共通点というのはなんでしょう」
「あの娘が自死する少し前に、当時、旦那様の一人息子であらせられるクリスティアン様が亡くなられました。クリスティアン様とリズの娘は恋仲であったと伝えれば、おわかりいただけるでしょうか」
目眩がした。つまり、伯の息子が亡くなったので夫人の娘は後追いしたのだ。けれどウェイトリーさんは先ほど言った。リズの娘『は』城で亡くなったわけではないと。
「伯の、いえスウェンのお兄様にあたる人は、まさか」
「クリスティアン様は武勇に優れ、若くして人の道を知っている御方でした」
ウェイトリーさんは、その男性をいまでも思い出すことができるのだろう。
「お父上を敬い、そして跡継ぎとして立派に役目を果たすべく戦場に赴かれた。その功績を称えられ、宮仕えを認められましたが、その最中、不届き者より陛下を庇った代わりに傷を負い……」
沈鬱な表情だった。
曰く、伯の亡くなった長子クリスティアンは、年若い辺境伯がこれぞと見込み愛した妻の忘れ形見だったらしい。領民に優しく、勤勉であり続けようと勤しみ、しかし決して驕りはせぬと鍛錬に励み続けた。将来はコンラート辺境伯の名を継ぐため、戦場以外の知見を広げるべく宮仕えを決意。当時陛下の片腕とまで誉れ高かった父の後押しを受けた。その人柄の心地よさもあり高名な騎士として名が広まろうとしていた時だった。
「当時は旦那様も陛下のお傍にいたのです。ただ、あの時は、戦の傷が癒えておらず……代わりにクリスティアン様が陛下の警護にあたりました」
カミルの息子であればどのような刺客が現れようと撃退するだろう。その勇猛果敢さに恐れをなして逃げるに違いないと人々は笑い、そして実際、赴いた戦地にてクリスティアンは陛下を狙った悪党を撃退した。
代わりに、自らが命を落として。
「旦那様は酷く後悔なされた。怪我を押してでも自分が警護に立つべきだったと……あの頃はクリスティアン様の後を追ってしまわれないか、我々が危惧していたのは旦那様の方です」
「でも、亡くなったのは夫人のご息女だったのですね?」
「そうです。そして我々はリズの娘とクリスティアン様が恋仲であったことを知りませんでした」
知っていたのは父親である伯だけであった。夫人の娘は母親にすら黙っていたのだ。
ただ、当時のコンラート辺境伯は夫人の娘との恋を認めていなかったようだ。
夫人はかつてさる貴族の妻だったが、夫が亡くなってから家は落ちぶれた。わけあって身一つになってしまった所、亡き辺境伯夫人と知り合いだった縁でコンラート領で働けることになったらしい。夫人、と呼ばれているのもそこから来ているようだ。
「いまにして思えば、クリスティアン様が武功を欲しがったのは、リズの娘との仲を認めて欲しいという一心もあったのでしょう」
息子亡き後、伯は落ち込んだ。戦で鳴らした覇気はどこへやら、すっかり気力が抜けてしまったらしい。それでもしばらくするとなんとか立ち上がった。カミルという父親としては心を痛めてならないが、辺境伯としては、主を守った誉れ高き子として息子を称えねばならなかった。陛下もクリスティアンの活躍に胸を痛め、彼を誉れ高き騎士として称えた。異例の報奨すら与えたらしい。
そこまでは良かった。父親の中には誇りある息子の存在がある、それだけが支えだったのだ。
コンラート辺境伯は変わらず城に勤め、娘を失ったショックのあまり伏してしまったヘンリック夫人の面倒もみた。二人の間では、ウェイトリーさんすら知らない話し合いもあったらしい。
クリスティアンが亡くなって一年後だった。命日を控えたある日、伯はこんなことを陛下に尋ねた。
「息子の命日が近づいております。陛下、どうか我が息子に一言くれてやってはいただけないでしょうか。私から息子に伝えたいと存じます」と。
これに対し、陛下は驚いたように目を丸めた。
「そうだったか」とだけ言い残して、その日の業務に移った。
それだけ。
たった、それだけだ。
他の人にとってはなんのことはない、変哲のない会話。けれど息子を亡くした父親にとって、この一言は心を打ち砕くのに充分な破壊力があった。
陛下がコンラート辺境伯を兄のようだと伝えたように、コンラート辺境伯にとっても陛下は弟のような存在だった。そこまで敬愛した相手のために息子まで喪ったというのに、その存在は容易く過去の存在とされてしまった。
きっと、それが限界だったのだとウェイトリーさんは語る。
コンラート辺境伯カミルは剣を捨て、代わりにペンを手に取り城を去った。故郷へ戻った後はわずかながら人柄も変じていた。多少なりとも荒かった気性はすっかり消え失せ、穏やかな立ち居振る舞いをつとめたから、親しかった人たちは多少ながら困惑したという。それまでも多方面への援助を行ってはいたが、いっそう人との繋がりも大事にするようになった。すべては亡きクリスティアンが父へ行っていた助言であった。
「以後、登城は極々最低限に。お年を召してからはすっかりと……」
「……それで陛下とは、仲違いを?」
「そのようです。ただ喧嘩をしたとは聞いておりませんので、旦那様が去られてからはそれっきりかと。しかし陛下も思うところがあったのでしょうね。幾度か文をいただいていたようですが、一度拗れてしまった糸は如何様にも……」
大事に育てた息子の命だったのだ。そう易々と解ける糸ではないだろう。伯は陛下からの話し合いを、実質放棄という形で断り続けているらしい。
「……伯がスウェンとニコの仲を反対しないのは、過去の経験からですか?」
「おそらくは。それにお年もお年ですから、後を継いでくれるだけでも十分だと」
「…………事情はわかりました。お話ししてくださったこと、ありがたく思います。けれどそれを聞いてなおお尋ねしたいのですが、夫人は、大丈夫なのでしょうか」
「数日内には回復するでしょう、リズは昔からそうです」
ウェイトリーさんはこの点に関しては自信があるようだ。
「奥様のお世話がありますからね。参っているわけにはいかないと立ち上がるでしょう」
「気持ちは嬉しいのですけど、私の世話程度では……」
「いえ、そうではなく、貴女様を放っておけないのです。なぜならあの娘が、リズの娘が命を絶ったのは、ちょうど奥様と同じくらいの年齢でしたから」
ウェイトリーさんはゆるゆると首を振り、少し寂しそうに笑った。
「リズは奥様に段々と遠慮がなくなってきていたでしょう。ご不快でしたら詫びねばなりませんが……。ですがきっと、そういうことなのです」
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