第36話 夜の不法侵入者

 しかし休みたいと言っても化粧はばっちり、見えない箇所では汗もかいている。着替えてベッドに直行というのは気持ち悪くて寝られやしない。この日ばかりは湯船を使ってお湯を浴びる。


「お疲れ様でしたー。奥様、とっても似合ってましたよぅ」

「ありがとー。……ねえ、綺麗にするのは悪くないけど、毎晩のようにああいう夜会に出席してる人って、肩が凝らないのかしら」

「そういう方は知らないのでなんとも言えませんけど……楽しいからやってるんじゃないですか?」

「楽しいのかなぁ。贅沢って慣れすぎると怖くない?」

「変なこと気にされるんですね。お貴族様が贅沢な暮らしをするのは当然のことですよぉ」


 優しい手つきで髪を洗い、お湯を流してもらえるのが気持ち良かった。最近はニコの手を借りてお風呂に入ることに抵抗がなくなってきている。これが慣れだ。


「ライナルト様は早く帰ってしまうかもしれませんよ、ゆっくりしてていいんですか?」

「いいのいいのー。お風呂ですっきりする方が先です」

「もう。そんなのだといい人を逃しちゃいますよ」

「あの人をお相手として考えるのが無謀なの。こんな小娘なんてお相手にすらされませんよー」

「そんなことないです。奥様を見る眼差し、とっても優しいんですから。……先に髪を拭きますね」


 ニコは憤慨しているが、その言葉のおかしさに気付いたのは一拍おいてからだ。不思議そうに顔を上げると、私の侍女が呆れ顔でタオルを広げていた瞬間だった。


「スウェン様にぜーんぶ聞きました。……できれば奥様からちゃんとお聞きしたかったなー」

「う……ごめんなさい。なんとなく話す機会を逃してしま……あっ、強い、力が強いっ」

「まあね、ニコはおしゃべりですから、前だったら誰かに話してたでしょうけど」


 喋ってたんだ。


「……いまはそういう気はありません。だから心配しなくても大丈夫ですよーだ」


 ただ面白くはないらしい。強い力で頭部を拭かれるのは拗ねている証拠か、無言の抗議は大人しく甘受するしかない。風呂が終わる頃にはなんとか機嫌も回復し、ドレスを抱える彼女に休むよう伝えた。


「あとは自分でやれるから、ニコも早く寝てちょうだい」

「でも、まだお着替えが……」

「子供じゃないのだからそのくらいできますって。それに私に付き合って遅くまで仕事してたのだし、疲れてるでしょう」

「むう。……夫人もお疲れみたいだからお休みしてるんです。いざ手伝ってって言われてもなにもできませんよ?」

「大丈夫ですって。それより、ヘンリック夫人はもう休んでるの?」


 咎めているのではなく、珍しいと思って尋ねたのだ。こういったイベントがあった日に、夫人が使用人より先に休むのは珍しい。これはニコも同感だったようで、ええ、と心配そうに頷いていた。


「今日は登城した時からずっと具合が悪そうでした。……奥様が帰ってきたときも口数が少なかったでしょ?」

「そういえば……」


 いつもならお風呂の前くらいには部屋にやってきて、お小言の一つ二つはありそうなものなのに。明日は夫人の様子を確認しないとね。


「奥様、ニコは本当に下がりますよ。いいんですね?」

「平気よ、だからあなたもちゃんと休んでね。今日はありがとう」


 本当はドレスの片付けだって明日でいいくらいだ。でもこれが彼女の仕事だから、そこまで止めるような野暮はしない。ライナルトもとっくに帰っただろうし、たとえ帰ってなかったとしてもお言葉に甘えて見送りは遠慮させてもらうつもりだった。

 ニコが去ったのを確認すると、寝室のベッドに転がる。調えられたシーツを皺くちゃにしながら、ごろごろするのは気持ち良かった。


「あー……当分堅苦しい服はいいや」

  

 寝巻に着替えるのがすでに面倒くさい。ランジェリーとはいえ裾は長めだし、このまま寝ても構わないのではないだろうか。

 転がって五分も経っていないだろう。ベッドにいたのが運の尽きか、半乾きの髪もそのままにうとうと眠ってしまったのだが――扉をノックする音に意識が覚醒した。

 眠たかったはずなのに、急激なまでに眠気が覚めたのだ。もう一つの部屋に繋がる扉からは、トン、トンと相変わらず控えめなノックが続いている。


「ニコ?」


 忘れ物でもしたのだろうか。身を起こして隣の部屋を見るも……誰も居なかった。机の上には置きっぱなしの装飾品が乗ったままだ。灯りを消し忘れていたらしく燭台に近寄ったが、蝋燭を消すのは躊躇われた。

 部屋に誰もいないのだ。寝室に繋がる扉はこの部屋にしか存在しない。薄気味悪くなって室内を見渡していると、ソファの上に奇妙なものを見つけてしまった。


「やぁ」


 驚きすぎて声を失った。扉や窓が開いた様子はなかったし、さっき通りかかった際には誰も居なかったからだ。


「こうしてお会いするのは二度目だね」


 シスだった。

 悠々とソファに腰掛け、足を組む男はこちらの驚愕などものともせず、にこやかに話しかけてくる。


「本当は城にいるうちに話をしておきたかったのだけど、エル君が怖くてさ。おまけに……悪戯されないためなのかな、きみに妙な保護まで仕掛けてる。ほんと賢しい子だよ」


 保護? 悪戯?

 シスがなにを言っているのか即座に理解するには無理があった。シスは独り言のように唸っている。


「うん、けれどそのくらい図太くないと帝国ではやっていけないだろうし、いいことなのだけれどね。……まったく、なんであの子といいエレナといい私を嫌うのかな。カレンお嬢さんならわかるかな?」

「え、そんなの当然……」

「まあそんなことはどうでもいいか。私はきみと話をしに来たのだし」


 えっ、どうしよう。すごく勝手なんだけどこの人。

 なぜだろう。シスはやたらとこちらに好意的で、人好きしそうな笑顔だけど、いまはその存在が不気味だった。エルの忠告があったからだろうか、とてつもなく嫌な予感がして、だからこそなにか、この状況を逃れられるものがないかと本能が警鐘を鳴らす。

  

「今日はね、いくらきみを観察させてもらったのだけど」

「き」

「……き?」

「きゃあああああああああああ!!」


 我ながら見事な甲高い悲鳴だったと思う。突然の絶叫にシスはぽかんと口を開いているが、そんなの知ったことではない。


「ええ? こらこら、カレンお嬢さん、人をからかっちゃいけない。きみはこんな程度で……」  

「いやああああああああ!!! 近寄らないでぇぇぇぇ!!!!」


 手に届く範囲のものを手当たり次第に投げつけていく。気をつけていたつもりだけれど投げたインク瓶が額縁に当たって絵画が落下、壺が割れたのはなんのコントか。

 ……が、いまは壺の価格に青ざめている場合ではない。

 シクストゥスになにか言う暇は与えない。近寄ろうとすれば逃げたし、きゃあきゃあ騒ぎながら扉の方へ走って逃げた。


「誰か助けてぇ!!」


 私は彼の被害者ではないけれど、いまこのとき、彼と顔を合わせた状況で『なにか』が拙いのは理解している。彼が困惑している間が一番隙がある、このまま逃げ切ってしまおうとしたとき、丁度扉の向こうで誰かが叫んだ。


「お嬢さん、お嬢さんどうしたんですか!?」


 アヒムの声だった。心の中で全力のコロンビアポーズ、いま世界は私に味方した……っ!

 扉を開けた勢いそのままにアヒムに抱き留められるのだが、彼の判断は速かった。剣を抜くには邪魔だったのだろう。タイミング良くやってきた兄さんに私を押しつけ、部屋の中に飛び込んでいく。


「そうくるかぁ」


 背後から聞こえてきた、シスのぼやけた声がやけに耳に残っている。アヒムの振るったであろう剣は何者も捕らえることはなく、風切り音だけがむなしく響く。


「くそ、逃げられた。どんな奇術を使ったんだ、あの男」


 悔しそうなその声でシスは去ったのだと理解すると、安堵で大きく息を吐く。この頃になると他の人たちも姿を見せ始め、その中にはまだ帰っていなかったらしいライナルトの姿もあった。


「カレン、大丈夫か」

「大丈夫……けど、驚いて……」

「坊ちゃん、お嬢さんに上着貸してあげて!」

「は……そ、そうだった!!」


 妹があられもない姿を晒していると焦った兄さんが上着を貸してくれる。……膝丈まで長さのあるキャミソールだから気にならなかったが、男性陣は気が気じゃないようだ。

 駆け寄ってきたウェイトリーさんの手には毛布があり、すぐさま全身隠してもらえたのも僥倖だった。


「これは一体なにが……」

「侵入者です。妹の部屋に……」


 ウェイトリーさんは驚くも切り替えは早かった。主人たる辺境伯達の身辺を守るべくすぐに指示を走らせようとしたが、すかさず兄さんが止めたのである。


「いや、もう大丈夫だと……思います。それより妹を頼めませんか。私はライナルト殿に話が……」

「は、しかしわたくし共は主人を守らねばなりませんので」

「事情はすぐにお話しします。ただ、私としては大事にしない方がよろしいと思うのです」

 

 ウェイトリーさんはこれでなにか察してくれたようだ。叫んでしまった側としては、被害者に徹するべきなので沈黙を貫いているが……。アヒムがくまなく私の部屋を探し回り、侵入者がどこにもいないとわかると剣を収めて戻ってきた。


「アヒム、私はいま見た者について先方に話がある。伯へのご報告もせねばならないし、護衛を頼む」

「了解です。……次は斬りますが、構いませんね」

「構うといってもやるんだろう、お前は」


 段々と人が増えてきた。私はアヒムに押しつけられ、遅れてやってきたヘンリック夫人やニコと一緒に別室に預けられたのである。

 兄さん達の間でどういった話があったのかはわからない。どこかのタイミングでライナルト達は帰ったようである。翌日になるとアヒムを残して兄さんは帰り、入れ替わるようにやってきたヘリングさんとニーカさんが冷や汗を掻きながら平身低頭謝罪しっぱなしだった、ということだ。


「ご婦人の部屋に侵入するなど、男として、いえ人としてあるまじき行為を……!」


 特にヘリングさん。こちらが恐縮するくらいの勢いである。


「あの、私も騒ぎすぎたのがいけませんでしたから……」

「我らの目が行き届いておりませんでした。主も誠に申し訳ないことをしたと深く反省しております。この件については必ず責任を取らせると約束いたしますので、何卒、今回の件については目を瞑っていただけないかと……!」

 

 伯にはモーリッツさんが謝罪済みらしい。ただ伯は体調が優れなかったらしく、挨拶もそこそこに切り上げてしまったようだ。「貴公らの気持ちは充分に受け取った。故に謝罪なら妻に伝えてくれたまえ。お互いの今後のためにもそうするべきだと私は思うね」と言い残して籠もってしまったため、こうして必死に懇願されているわけである。


「もう二度とあんな真似をしないのであれば、もういいですから……」

「勿論です、絶対にさせません」

「シスの人格の問題なのでしょう、皆さんは悪くありませんから、どうか頭を上げてください」

「いいえ。あのような痴れ者とはいえ、同じ軍に所属する以上、我らにも責任があります」

「言いたいことはわかります。けれど本当に何事もなかったのですし……」

「あってからでは遅いのです」


 ニーカさんは断言してくれるが。彼女に謝らせたいわけではないのだ。それに二人のこの顔! 謝罪の仕方からして、一度や二度では無いといった様子だ。エルも言っていたし、シスは絶対、他にもやらかしている。

 ともあれ、私にライナルトを訴えるつもりはない。キルステンにも口出しさせるつもりはない旨を伝えると、ほっとした面持ちで帰ったのである。エレナさんも付いてきていたのだが、こっそりと耳打ちされた。


「今度こそ殺っておきます。本当にすみませんでした」


 表面上落ち着いてはいたものの、声はぶち切れ状態である。シスは現在も見つかっていないらしく、捜索中とのことだった。

 午前は慌ただしく、ようやくお昼にありつけようかという頃、物言いたげなアヒムにようやく言い返せた。


「……で、アヒムはなにが言いたいのかしら」

「お嬢さんは連中に甘すぎます」


 私の身を心配した兄さんが最も信頼できる腹心を置いていったのだ。気持ちは嬉しかったが、当の本人は私に不満たらたらである。


「なによう。だって相手は魔法使いよ、あの人達が悪くないのは本当じゃない」

「悪い悪くないの問題じゃありません。あの男が軍の管轄下にある以上、ローデンヴァルトが責任を負うのは当然の話なんです」

「わかってるけど」

「わかってませんね」

「私は軍人ではないし、政治に関わっているわけではないの。…………ローデンヴァルトに貸しを作ったくらいに考えればいいじゃない」

「それ、いま思いつきで言いましたよね」

「聞こえなーい」


 アヒムは私がローデンヴァルトに近しいことを危惧しているのだろう。珍しく遠慮のない物言いにニコやヴェンデルが目を丸くして驚いている。


「ほら、ここは私たちだけじゃないのよ。二人が驚いてるじゃない」

「二人を言い訳に誤魔化さんでください。あんたは昔っからこの手の認識が甘すぎるんですよ。それでどんだけ痛い目見てきたか忘れましたか」

「……鞄なくしたくらいだし」

「使用人に誕生日の祝いを盗まれたんでしょうが。しかもそれを黙って見逃した」

「穏便に返してもらおうと思っただけです」

「話し合いでしたっけ? そんなことしようとしたから逃げられたんでしょうが」


 お嬢さんからあんた呼びになった。いよいよ本格的に怒りだしている。

 ……昔の件については、ここで蒸し返されなくたって反省している。私の出方が遅れたせいで事が発覚してしまったのだ。

 聞かせなくても良かった話を聞かれてしまった。苦々しい思いを抱えてお茶を啜っていると、そこに飛び込んできたのはスウェンである。


「大変だ、ヘンリック夫人が倒れた」


 これには一同吃驚である。

 コンラート伯邸において、女主人であるエマ先生や私よりもある意味実権を握っている夫人の不調は全員の腰を浮き上がらせたのである。

 エマ先生が診ているかもしれないが、容体は気になるところである。話を聞くべく立ち上がったところで、スウェンに肩をつかまれた。


「夫人はこっちで見ておく。お前は父さんがお呼びだから、そっちに行ってくれ」

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