第32話 知らない過去+挿絵

陛下がおいでになった、とは誰の言葉だったか。

 前方から発された言葉は静かなさざ波となって人々を伝い、私たちの元へとやってくるが、古風な楽器の調べが一同の背を正させた。

 端に控えていた老年の男性が声高に叫ぶ。


「我らが父にして偉大なる賢王、公平なる秩序の守護者、ファルクラム国王陛下、御入場!」


 皆が一斉に、首を押さえられたかのように頭を垂れた。最前列に立つことを許された私の視界の端では幾人もの人が目の前を通り過ぎていく。足音がしなくなったところで数秒数えて顔を上げた。

 目の前には円状の空間が作られており、段差が設けられた上段には一組の老年の男女と、それに追随するように一人の女性が佇んでいる。

 前者が国王夫妻、後者は血を分けた私の姉である。

 普段は声高らかに主張を崩さない姉さんもこの時ばかりは貝のように口を噤み、嫋やかな微笑を携えていた。そうしてみると気の強さはなりを潜め、まるで優雅な貴婦人として映るから不思議である。

 国王夫妻は皆の視線を一身に浴びながらもまるで揺るぐ様子がなかった。国王は五十半ばの中肉中背で、以前出会ったダヴィット殿下と目元が似ているだろうか。そのままではこれといって特徴が見当たらない人だったが、蓄えた髭が多少の威厳付けに一役買っている。目立たないが近くには二人の男性も立っており、そちらはダヴィット殿下と、柳のように細い男性が立っていた。こちらが弟のジェミヤン殿下である。

 陛下は満足げに招待客を見渡すと、皆に告げた。


「わが愛しき臣民よ。今宵はよく集まってくれた」


 よく響く声だった。観衆の前で話し慣れている、威風堂々とした態度である。全員が陛下の御言葉とやらを拝聴していると、どこからか「ファルクラム万歳」と声援が響き、拍手を鳴らす。一人また一人とその動作を倣(なら)うのだが、こわばりそうな笑顔を隠すので精一杯だった。

 陛下の挨拶が終わると各自思い思いにパーティーを楽しむ。ある者は交流を、ある人は出会いを探して会話を楽しむわけだが、前列にいる人々は立ち去ろうとしない。陛下から声がけの可能性がある人、目に留まりたい人はその場に留まる必要があるからだった。

 挨拶後の陛下に付き添ったのは正妃……ではなく第二夫人であるサブロヴァ夫人だった。国王夫妻は一切顔を合わすことなく二手に分かれ、それぞれの賓客をもてなすようである。

 私たちに国王から声がかかったのは、待機中暇だからと配られたお酒に舌鼓……を打とうとしたところであった。慣れない葡萄酒の味にたまらずしかめっ面を作り、ライナルトに笑われていたときだ。


「ゲルダの妹か」

「はい。お目にかかるのを楽しみにしておりました」


 自己紹介と夫人に習ったとおりの口上を述べようとしたところで、陛下は笑って片手を振った。私とライナルトにそれぞれ目を合わせると、悠々とした態度で頷いたのである。


「よい、そなたのことはゲルダからきいておる。若き身で苦労の多い生を歩んでいるとな」

「……陛下、妹に挨拶くらいさせてあげてくださいまし」


 姉さんが恨みったらしく陛下を見つめるも、相手は口角をつり上げるだけだ。

  

「皆から長ったらしい口上を毎度聞かされねばならぬわしのことも考えろ。それにそなたの妹は愛らしい娘ではないか。緊張に強ばった顔よりもこのように笑っている方が、わしも気分が安らぐ」


 ……聞く人によっては怒りを買いかねない発言だが、いやいやまあ構わない。敬愛する我らが国王陛下などと歯の浮くようなお世辞を言わなくて済むのはありがたい話である。


「そなたコンラート辺境伯に嫁いだのだったな。あれは良い男だろう」

「はい、夫を含め皆様大変良くしてくださいます」  

「わが敬愛する兄、コンラート辺境伯の妻でもあるとは奇妙な繋がりだ。どうだ、辺境伯、いやカミルは元気にしているだろうか」


 兄?

 いや国王に兄弟はいなかったはずだ。

  

「もちろんでございます。陛下のご威光を持ちまして、本年もコンラート領は豊かな実りを得ることがかないました。辺境伯を含め、一同心安らかに過ごしております」

「ふむ? その割に、わしの前には相変わらず顔を見せてはくれなんだが」

「今回はと陛下のご尊顔を拝すべく張り切っておいででしたが、なにぶんお年のためか……。今朝方熱を出されておしまいになり……まことに残念がっておりました」

「……そうか、それならば仕方があるまいよ」


 さほど感情のこもってない声。伯は長年出席を拒んでいる。そして、それを国王が問い返さないというのなら、彼らにしかわかり得ない事情があるのだろう。

 ここで姉さんがそっと首を傾げ陛下に尋ねた。


「陛下、先ほど辺境伯のことを兄と仰いましたが、どういった理由でお兄様と仰っているのです?」

「話したことがなかったか。なに、わしには血を分けた兄弟はおらぬが、それに代わる者がいてくれたという話よ。カミルには幼き頃より縁があった故に剣の指導を受け、戦の術を習った。時には身を挺して我が身を救ってくれたこともある友だったのよ」


 カミル氏からは色々な話を教わっていたが、聞いたことのないエピソードだった。きっと意図的に黙っていたのだろうが、私が初耳です、なんて顔をするわけにはいかない。訳知り顔で笑顔を作っておくに留めていた。

 姉さんに伯との関係を語ってくれた陛下だが、すぐにこちらへ向き直ると穏やかな笑みを浮かべて言った。


「ゲルダの妹でありカミルの妻ともなればわしの身内も同然だ。困ったことがあればなんでも言うといい。できうる限り力になろう」

「なんと勿体ない御言葉、感謝にたえません」

「カミルにはなにか土産でも寄越そうか。……そなたからも、せめて手紙くらいは寄越すよう伝えてくれるか」

「かしこまりました。陛下のお心遣いに夫も感謝することでしょう」


 うむ、と鷹揚に頷いた陛下は機嫌が良さそうだ。ライナルトとは見知った間柄なのか、仰々しい口上はなく、気軽に話しかけている。

  

「ライナルト。ザハールから聞いたが、そなたもなかなか苦労しているな」

「痛み入ります。どのような聞き苦しい話がお耳に入ったかはわかりかねますが、すべて杞憂でございます」

「だろうな。あれとちがってそなたは賢い男だ。ゲルダの妹は確かに可憐で将来も美しい女になるだろうが、我が兄といっても差し支えない男の妻だ。……間違えてくれるなよ?」

「ご冗談を。私はただ兄に請われた立場、コンラート辺境伯に代わり夫人を守るのみでございます。……それよりも、陛下が私を褒めるものですから、兄が向こうで恨めしそうにしておりますよ」

「うん? ……ああ、ザハールめ、相変わらずとんでもない耳を持っておる。……カレン、ライナルト、本日は楽しんで行くがよい。今宵はそなた達のような若者を労るための宴でもある」


 聞きようによっては相当危ない内容なのだが、当人達、茶目っ気たっぷりに笑い合っているのでただの笑い話くらいのつもりなのだろう。

 向こうにいるのはザハールと兄さん達か。そちらの対応もせねばならないらしい陛下は姉さんを連れ立ってこの場を離れる。

「またね」と言いたげな姉さんとのアイコンタクトを終えて、主催との挨拶を想定よりも早く終えられた安堵に胸がいっぱいだった。

 陛下達が離れ、衆人の注目が逸れたところでそっと隣の人に話しかける。長話にならずにすんだのはライナルトのおかげだった。

 

「……ありがとう、ライナルト様。それと……」

「気になさらずとも大丈夫ですよ。陛下のああいった物言いは、いまにはじまったことではない。意地の悪い言葉を投げ、相手が慌てふためくのを見るのが好きなのです」

「…………初めてお会いする方は、心臓が持たないのでしょうね」

「わかりますか。……しかしその点で言えば、おそらく貴方は陛下のお気に入りにはなれなかったのでしょうね」

「……残念に思われます?」

「いいえ、個人的には嬉しく思いますよ」 


 私には初対面の陛下の機嫌の良し悪しはわからないが、ライナルトからすれば一目瞭然だったのだろう。どちらにせよお近づきになりたいお人ではないので、気に入られなかったのはなによりだ。

 肩の力を抜こうとしたときだった。すっと目の前に現れた貴婦人の姿に私たちは口を噤む。

 

「これは王妃殿下。気付くのが遅れ失礼いたしました」

「……良い。そこにいるのはサブロヴァ夫人の妹か」


 突然の声かけ。ライナルトはにこやかに挨拶をかわし、私も同様に頭を垂れた。 

 国王陛下と同年代だろうか。頭髪は白髪がちらほら見受けられるが、肉付きがよく、肌にはつやがあり、背も曲がっていなかった。気力も充分に満ちていそうである。

 陛下同様に挨拶をしようと口を開きかけたが、王妃は顔の前で、畳んだ扇子を一振り。


「いらぬ。卑しき身分の娘の言葉など聞く必要はない」


 とのことだったので、黙って口を閉じた。殊の外冷たい言葉と、この場において堂々とした強気な発言。そういった意味で驚きはしたが、ショックと言うよりは納得したという方が正しい。彼女の心情を汲めば当然である。

 陛下は王妃を連れて堂々と入場したものの、いまは若き第二夫人を連れ立って巡っているのだ。正妃の面目は丸つぶれ、長年連れ添った妻の立場からすればたまったものではないだろう。その妹であるという立場だけで私がこの場にいるのも許せないのかもしれない。

 彼女の言葉に周囲は凍り付いたが、すぐにざわめきは戻ってきた。陛下と姉さんを中心に向こう側は盛り上がっているようで、この場を除けば場の雰囲気は悪くない。

 ……つまり、この人だけが蚊帳の外なのだ。


「辺境伯とはよしみがあるゆえ声をかけましたが……。あのようなご立派な方さえこんな……。気分が悪い。わたくしは下がります」


 侍従が王妃を咎めようとしたが、聞く耳は持たないようだった。踵を返す彼女を気遣う視線はあれども、呼び止める者は誰一人としていない。陛下に至っては王妃の姿を探そうともしない。その後ろ姿は怒りに満ちているが、悲しみにも満ちているようで、少しもの悲しい気持ちにさせられる。

 国王の関心はとっくに姉さんに移ってしまったのだ。怒りなど湧くはずもなく、かといってキルステンの娘としては同情するのも違うような気がして、結局溜息だけが零れ出る。


「大丈夫ですか。幸い、いまの会話を聞いている者は少なかったようですが……」

「……あ、大丈夫です。傷ついたわけでもございません。ただ……」

「ただ?」

「……やめておきます。不謹慎と叱られてしまいますから」


 側室を娶るのは自由だが、正妃へのフォローくらいちゃんとしてほしいと願うのは、いくらオブラートに包んで発言しても不敬罪にあたるだろう。


「失礼いたしました。……ええと、わたくしは挨拶しなければならない方が幾人か……ライナルト様もですよね?」

「ええ、お互い似たような状況ですので、早めに対処しようと提案するところでした」

「では参りましょう。……あの件はそれからということでよろしいでしょうか」


 出席した以上は最低限の任務をこなさねば逃げようにも逃げられない。ここからはお互いの知人縁者への挨拶回り開始である。私の方はコンラート伯縁者の顔を知っているわけではなかったが、うろついていれば相手の方から声をかけてくれたので、その点、大変楽だっただろう。

 またライナルトがいて助かったのは、男性からの声がけを免れたことだ。

 若い女性一人だと出会いを求めて……というのも少なくない……むしろそれ目当てで参加している令嬢が多いから、どうしても声をかけられやすい。

 不意を突いて声がけされてもライナルトがカバーしてくれるし、風よけになると言った手前、私も同様だ。彼に目を光らせているご令嬢……のみならず女性は結構多かったらしく、はっきりとした敵意に晒されたのは何回だったか。


「そろそろ引き上げ時ですね。思った以上に足を止められてしまいましたが……」

「どうしましょうか」

「ひとまず庭園側に行きましょう。人が来にくい場所を知っています」


 ライナルトがこちらを気遣ってくれたのか、唯一開け放たれた窓から繋がる庭園に移動した。こちらは中の喧噪とは裏腹にひっそりと静まりかえっており、夜会の空気にあてられた人たちが頼りない灯りの下をちらほらと散歩している。

 ライナルトに引かれて移動した先は彼らとは反対のコースだった。出入り口から完全に隠れてしまうような一角。石彫りのベンチに腰掛けて、慣れない靴のせいで疲れた足を休ませる。


「もう普通に話しても問題ないでしょう。ここは滅多に人が来ない」

「意外ですね、過ごしやすそうな場所なのに」

「灯りが届きにくい場所なせいでしょう、慣れていない方は立ち寄らないのです」


 確かにそうだ。今夜は月が煌々と輝いているから十分すぎるほどだが、隠れるような位置になるため、道中は足下も暗く視界も悪かった。ライナルトはどこかに顔を向けており、こんなことを尋ねてきた。


「カレン嬢、少々席を外しても構わないだろうか。部下に少々確認したいことがありまして……。ああ、あと飲み物をとってきましょう」

「どうぞいってきてください。でも飲み物まで……」

「ついでですので。ニーカが付近にいるはずなので、すぐに戻ります」


 ライナルトが姿を消すと、ぐぐっと背伸びをして肩と腕を伸ばした。最初にお酒に口を付けて以来ずっと喋りっぱなしだったので、喉はからっからだ。国王陛下が相手でもない限りは余裕だと思っていたが、予想以上に緊張していたらしい。

 遠くから聞こえてくる音楽を聴きながら、しばらくぼうっと空を見上げていた。夜会はまだまだ続きそうである。これから盛り上がりも最高潮を迎え、招待客はパートナーの手を取って踊り出すのだろう。

 ……ほんの少しだけだが、踊りの練習も受けてみればよかったなと思った瞬間だ。 

 音がした。

 何事かと耳を澄ませば、茂みの方から男女の争う声が迫ってきたのである。


「お止めください、どうか、そのような真似は……」

「抵抗する気か。どこの家の者か言ってみろ、わが寵愛を拒む蛮勇を思い知らされたいか」


 蚊の鳴くような、焦ったような女性の声。どうやら男が女に言い寄っているらしかった。こんな近くでお盛んな……と呆れたいところだが、状況から鑑みるにどうも一方的に言い寄っているようだ。普段ならすぐさま飛び込むところだが、生憎と男性の声に聞き覚えがある。

 ダヴィット殿下め、姉さんに手を出しただけでは飽き足らず余所のお嬢さんにまで手を出しているらしい。

 とはいえ単身飛び込むのも、互いに顔を知っているだけに追い返されるだけ。はたして暴漢に立ち向かえるのか、ライナルトの到着を待って止めに入るべきか。脳裏には以前男に拳で殴られた際の記憶が蘇る。一瞬とはいえ迷ってしまい、彼の姿を求めて視線を彷徨わせた。


「やめ……誰か、誰か助けてください……!」


 こうなったら時間稼ぎだけでもするべく覚悟を決めるしかなかったが、このとき、囁くようだった女性の声が大きくなり出したところで、あれ、と思考が止まった。

 ……女性の方も聞き覚えのある声じゃなかった?

 こんなところにいるはずがないという思い込みが、気付くのを遅くさせたのだろうか。


「エル」

 

 茂みに飛び込むのに躊躇はなかった。

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