第14話 危機/前
早速支度を始める私に、珍しくまともに狼狽したヘンリック夫人が訴えた。
「奥様、ですがスウェン様やニコが人様に危害を加えるなどあるわけが……」
「それはわかってます。たぶん何かの間違いか事故という可能性ではないかと思うのだけれど、二人はまだ子供よ。拘留されているというのなら不安で仕方ないでしょうし、先に保釈金だけ払って連れ帰るのを優先したいの」
私だってあの二人が意図して誰かを傷つけられるとは思っていない。そりゃあほんの少ししか一緒に過ごしたことのない相手だが、スウェンの素直さとニコの明るい朴訥さは知っているつもりだ。大人しかいない詰所で拘留などという目に遭い、怖い思いをしていないわけがない。
「お金は多めに用意してください。護衛と御者が戻ってきていないのだから、スウェン達を守ろうとして拘束されたかもしれない。一緒に連れて帰ります」
「わ、わかりました。そうなると結構な金額になりますが……」
「金品になりそうなら手持ちいくらでも積んでください。スウェン達のために使ったのなら怒る方ではないでしょうし、私が責任を取ります」
夫人はこういった事態に不慣れなようで、私も慣れているわけではないけれど、スウェンとニコを連れて帰らなくてはならないという使命だけが両足を支えている。
「……先に保釈金を払う行為が虚偽の認知に繋がらなければいいけど、そこは仕方ないでしょう。伯に……最悪姉さんに相談するしかないか……」
あまり考えたいパターンではないが、状況は知れずとも無力な子供二人を拘束した相手だ。おまけに届いた文にはご丁寧に保釈金の金額まできっちり記述されている。権力を使うのが嫌だとか言ってる場合ではない。使えるものは使えの精神だ。
「奥様、わたくしも同行いたしますが、他にやるべき事はございますか」
「…………キルステンに使いを出してもらえますか。長男のアルノーか、従騎のアヒムに事情を話してください。伝言は、私たちは先に詰所に向かうからと念のため来てほしいと」
「かしこまりました」
ヘンリック夫人は準備のために一度退散、私もその間に着替えを済ませて確認のために部屋を出ようとしたのだが、そのときに机の上に置いた小箱が目に入った。昼頃までなら素通りしていたが、このときの私は金目の物が必要という意識があったのだろう。経緯はどうあれお気に入りの一品、誰かに売り渡したいわけではなかったが、役に立つかもしれないと中身を取り出し左手首に身につけた。
「ヘンリック夫人、私も準備を手伝います」
金貨を入れた袋を携え馬車に積み込む頃には太陽も沈み、空は藍に染まり始めている。馬車に揺られる私の付き添いはヘンリック夫人と護衛の二名だ。本当はもっと人が欲しかったのだが、護衛として腕の立つ者が都合悪く外出していたせいもある。国外に出るわけではないし、二人を引き取りに行くだけだから問題はないと思うが……。
「兄さんかアヒムもそう遅れずに来てくれるでしょうし……」
そう思うのだが、なぜか胸騒ぎがおさまってくれない。本格的に夜の帳が下りる前に迎えに行きたかったのだが……。
「奥様、顔色が優れませんがよろしいのですか。なんでしたら馬車に残っていてくださいませ。引き取りにはわたくしが向かいますから……」
「状況がわからないから、国内の厄介事なら私がいた方がいいと思うの。……ええ、まだ頭痛がするけど帰ったら休ませてもらうから、大丈夫」
「でしたらせめて温かくしてくださいませ」
薄暗い馬車の中。夫人は自分の羽織を私の肩にかけると、体調に問題ないか見極めようと目を細める。そんな中で私は送られた文をもう一度改めていた。紙は羊皮紙、封筒に接着された蝋や詰所責任者のサインにも問題はなさそうに見える。手紙を持ってきた兵士も身なりのしっかりした者であるのは夫人から確認が取れているから偽物ではなさそうなのだが、引っかかるのはある一点だ。
「西地区の詰所って、あまり聞いたことがないのよね」
西地区といえばほとんど市街に近く、田畑が主に広がる一帯だ。城や街を見回る衛兵の詰所とは役割がまったく違うだろうし、西側にも一応国外に通じる門はあるのだが、広大な森と山岳地帯が広がっているせいか人も滅多に通らないという印象。正直、そんなところに詰所があったのかとすら首を捻りたくなる有様だ。
夫人も同様の疑問を抱いたようで、不思議そうに口元に手を当てた。
「昔はこのような郊外に大規模な詰所などなかったはずですが……。それに、街にいたはずのスウェン様とニコが何故……」
「………………ん?」
……郊外?
あれ、郊外の詰所って、どこかでつい最近聞いた覚えがあるよう、な……?
「……夫人。確認したいのですが、他の郊外と呼べそうな場所に詰所はありますか?」
「郊外にでございますか? ……いいえ、わたくしの記憶の限り、そのような場所はありませんが」
「あっ」
まずい。
すっかり忘れていたが、眠りにつく前にアヒムと話した内容をはっきりと思い出した。帝国出身の兵がつめる郊外の詰所……。どう考えてもこれから向かうところだ!
「奥様?」
「ちょ、待って! 馬車、馬車を止めて!」
馬車に乗って結構な時間が経っている。これは他の……例えば兄さんやアヒムといったはっきりと身分を立証できる男性を立てるべきだ。認めたくはないが兵士相手だと、小娘がメインで対応したんじゃまともに取り合ってもらえない可能性がある。名前を出せばいけるかもしれないが、私自身の顔はまったく知られていないから過信はできない。
御者に向かって叫ぶとなんとか馬車は止まってくれたが、その場の全員が青い顔をした私に釘付けだ。
「一度ここで引き返して、兄さん達との合流を優先します。私たちだけで行くのは待つべきです」
「ですが奥様、スウェン様が」
「わかってる、わかってるの。だけど郊外の詰所よね? ちょ、ちょっと良くない話を聞いた覚えがあるの。私たちだけで行ってしまうのは……」
悪手かもしれないと伝えようとしたときだ。小窓越しの御者が申し訳なさそうに「そのぅ」と切り出したのである。
「申し訳ありません……。詰所ですが、かなりとばして走りましたので……もう見える位置に来てしまいました」
「えっ」
「で、ですね、向こうから馬が来てるようなんですが……」
私は間が悪いタイミングに飛び込む呪いでもかかってるんだろうか。私の発言で察してくれたのか、ヘンリック夫人や護衛の二人も背筋を伸ばして気を引き締めたようだが、あくまでもそれだけである。
しばらくして外から声をかけられたのでヘンリック夫人が回答するのだが、こちらの用件は既に伝わっていたようだ。相手は穏やかな声音の男性で、物腰も穏やかそうだったから少しは安心したのだが……誘導すると言われてしまうと「やっぱり帰ります」とも言えない。物言いたげな夫人には無言で頷いた。
「奥様、やはり奥様は馬車に残った方が……」
夫人はそう言ってくれたのだが、扉が開かれた瞬間にその意志はなくなった。馬で案内をしてくれた男性はともかく、建物前に立っていた中年の男性が口角をつり上げてこちらを見つめていたからだ。夫人もその無遠慮な視線に気付いたのか、男から私を隠すように立ちはだかると、決して自分から離れないよう小声で注意したのである。
「二人とも、決して奥様を傷つけさせてはなりませんよ」
護衛の二人にもきつく言い含めるのだが、私としては夫人自身の身も大事にしてもらいたい。周囲は暗く、あちこちに焚かれている松明の炎だけが頼りなのだが、詰所というのは流石に厄介だ。周辺は薄汚れた塀に囲まれており、中心部に立つ石造りの建物も実用一辺倒なのか飾り気が一切ない。どこもかしこも兵士ばかりだ。この間出会ったライナルトの部下、ニーカさん達と似たような服装なのだが、人が違えば印象もがらりと変わる。凜とした雰囲気を備えたあの女性とは違って大半が口元をにやけさせ下卑た笑みを浮かべているし、髪や服の手入れも行き届いていないから薄汚れた風に感じてしまうのだ。目の錯覚だったと思いたい。
無精髭を生やした四十程の男が進み出ると用向きを確認されたのだが、その男がまあ声が低くて威圧的なこと。笑みを浮かべているのに目は笑っておらず、夫人の声はすっかり上ずってしまった。それだけで? と思うかもしれないが、体格に恵まれた男性が腰の得物の柄を持ち上げては落とし、持ち上げては落とし……。剣の音をならしながら話しかけてくる姿は充分恐怖に値する。
護衛の二人は男性だからか代わりに発言しようとしてくれたのだが、うん、ここまで任せてしまっては立つ瀬がない。
片手で二人を制すると、随分と上方にある男の頭を見上げてしっかり目を合わせた。
「そちらからスウェンとニコという若者二人を拘留しているという知らせをもらったのです。二人の保釈に必要なお金を持ってきたのですが、責任者はどなたでしょう」
「かわいいお嬢さん、たしかにこちらでコンラートという貴族を名乗るご子息と侍女をお預かりしているが、身元引受人に指定したのは彼らの保護者だ。見たところその要件を満たす人物がいらっしゃらないようだが、お父上かお母上はどこにいるのかな」
「身元引受人が必要ということでしたら、私になります」
「あん?」
「私が二人の保護者だと申しております。親類であると言えばよろしい?」
「親類……。ああ、もしかして侍女さんの主人になるのかい。じゃあご子息の兄妹かなにかか」
スウェンの義母でもあるのだが、ややこしくなってしまうので黙っておく。男は髭を一撫で、なにか思案するように視線を彷徨わせたが、それも一瞬だ。
「保釈金といったが、金はきちんと用意されてるだろうか」
ここで護衛の片方に持たせている革袋を指さした。腕を振ってもらうと硬貨がぶつかり合う特有の音が鳴り、男は口笛を鳴らしたのである。機嫌良さそうに後ろへ振り返ると、見張りの仲間に向かって声を弾ませた。
「おい、手続き取るから中にお通ししろ。くれぐれも失礼のないようにな!」
そして私にはわざとらしい大仰な礼の形を取ったのである。
「中で手続きしてもらなきゃならないんで、ま、中へどうぞ」
断言するが礼儀を尽くしたのではない。余裕綽々の態度からして、相手を侮るが故の小馬鹿にした態度である。その証拠にこの男、夫人や護衛には一切目を合わさないどころか無視である。
……正直、中には入りたくないが、釈放手続きのためならば致し方ない。男に続いて木戸を潜ったのだが、入った瞬間後悔した。臭いからだ。
なんというか、汚いわけではない。ないのだが数日風呂に入ってない人特有の体臭と汗の臭いが混ざってとんでもないエッセンスを作り出している。ほのかに香る程度だからいくらか我慢できるが、それにしたってもう少しなんとかなるはずだ。私のみならず夫人が眉を顰めたのもあってか、男は鼻を鳴らして笑っていた。
「高貴なお人にゃ厳しいかもしれませんがね、ま、我慢してくださいよ。お宅の坊ちゃんがうちの同僚の骨折らなきゃこんなことにはならなかったんですし」
「それですが、スウェンがお相手に怪我を負わせたとはどういうことでしょう」
「ああはいはい。奥で話しますから」
振り返りもせず片手だけを振って相手をいなす……完全に人を舐めた態度である。この時点で私の中の不快指数が八割を超えていたのに、相手はさらに失礼を極めた。
てっきり客室か談話室なりに通されると思っていたのに、男の足は階段を上がるわけでもなく、さりとて一階のどこにも向かわなかったのだ。
「人数が収まりきらん関係で、二階と一階は兵士の宿舎になってるんですわ、とてもじゃないが客室なんて用意できなくてですね」
スウェンとニコを取り返す目的じゃなきゃいますぐ帰ってるところである。
角を曲がったかと思えば奥へ奥へと進んで行くし、足下には赤黒く汚れた藁や汚れた布きれが散らばりだす。鉄格子を視界に収める頃には鉄錆の臭いが鼻腔を刺激しはじめる有様だ。さらに地下へ続くであろう一本道の暗い廊下を前にすると流石に足が止まってしまった。
「ご安心を、地下に降りろとはいいませんとも。この横の部屋ですよ」
質素な扉の奥は……一応形だけが整えられたといいたげな質素な執務室だった。中には既に数名が待機しており、男は私に座るよう顎を傾ける。
媚びを売って欲しいとは思わないが、かといってぞんざいに扱われて良い気はしない。
「我が国の武人はいつからご婦人に無礼な態度で接するようになったのですか! 失礼にも程があるでしょう!!」
これには私が異論を唱えるより早く夫人が怒ったのだが、男はまったく揺らがない。それどころか泰然と言い放ったのだ。
「気に入らなきゃお帰りくださって結構。……その代わりお宅のお坊ちゃんにはしばらく臭い飯食ってもらいますがね」
「……!!」
「夫人、落ち着いて」
挑発的な態度に夫人と護衛二人の怒りがすさまじい。ヘンリック夫人もそうだが、護衛の二人もスウェンやニコとずっと付き合いがあるらしいから当然と言えば当然だ。だというのに、私がいる手前、なんとか落ち着こうとする夫人に対し男はさらに余計な一言を付け足した。
「……まったく、頭でっかちな田舎貴族はこれだから好かん。犯罪者なんぞに恩恵かけてやるだけありがたいと思ってほしいね」
……私も怒ってないわけではないが、他三人の憤怒の表情に逆に冷静になるしかない、といった状況である。
部屋の中には男を除き四名の屈強な男達が詰めていた。ソファの前に置かれた低いテーブルの前に投げ出される書類、茶が注がれた薄汚れたカップは一つだけだった。
とりあえず書類を一枚とって目を通すが……いやなんだこれ。
「…………お尋ねしたいことは多々ありますが、まず確認したいことが」
「ああどうぞ?」
……あの、私が小娘で舐められやすいのは自覚しているのだけど、この扱いはなんかもう逆に凄い。この人達は誰に対してもこんな態度なんだろうか。それとも私がいかにもお嬢さんって感じでお金を持っているから、ましな扱いなんだろうか。
……確信があるわけじゃないけど、後者のような気がしないでもない。
「……保釈金については承知の上で金貨を持ってきましたが。この国の保釈金というのは一般家庭が半月はゆうに遊べる程の金額が必要でしたか? それにこの書類に書いてある当家による治療費の負担と随従二名の保釈金の追加というのは、届けられた文書には載ってなかったはずですが」
「ああそれ、それなんですよ」
男は演技がかった仕草で大仰にため息を吐いた。
「こちらもねえ、加害者とはいえ相手も少年だから家族が心配すると思い急ぎそちらにお知らせしたんですが、骨を折られた仲間が重傷で、医者に診せたら結構な金がかかってしまいましてね。その額をわかりやすくするために載せさせてもらったんですよ」
……ほー。
「こちらは公正な金額を立てさせてもらっただけなんですがね、問題ありますか?」
「ありますね、とても相場の金額とは思えません」
「ああ、ああ。お嬢さん、あなた世間に出たことがないんでしょう」
そうね、この国で働きに出たことはないけど、それでもあなた方に馬鹿にされてるくらいはわかる。男の大仰な芝居がおかしいのか、他の連中が笑っているからだ。「やりすぎ」といった呟きも聞き逃さなかった。
「……保釈金の支払いに、あなたの仰る内容は一切関係ございません」
「ありますよ。いやだってねえ、ほら、あなた方使用人の教育がなってないんですよ。無実だ何だの騒いでこちらに危害を加えようとするせいで、こちらもやむを得ず彼らを拘束するしかなかったんですから」
はいスウェンの無実決定。
無条件で信じる信じない以前に、ここまで来ればはっきりわかる。
「被害者に会わせてください、骨を折ったとのことですが、それはどの程度? それとどこの医者にかかったのですか、名前くらいは覚えてらっしゃいますよね」
「申し訳ないが、あなた方が彼に危害を加えないとは限らないんでね、仲間についてお教えすることはできない」
「あなた方の言い分は一方的です。まず骨を折られた状況をご説明ください」
「馬車ですよ、馬車。前方不注意のお宅の御者が仲間とぶつかったんです。……そちらのお坊ちゃんは誠心誠意謝ってくれましたよ。ですが使用人の罪は主人の罪だからね、ひき逃げなんぞ我々は許せるはずがない」
ふざけているのかと怒鳴りたいところだが、それもそのはず。
これ当たり屋だ。しかもしっかり身分を確立した新しいタイプの当たり屋である。
「…………侍女はどうしましたか。ここには男性しかいらっしゃらないようですが、なんら罪のない彼女だけ別室に?」
「いえいえいえ、お坊ちゃんを連れて行こうとしたら暴れられてしまいまして、頬に傷ができましたが、我々は寛容なので許しましたとも。……ではどこにいるかと? 大丈夫ですよ、お坊ちゃんと一緒に地下牢で休んでますよ」
うっっそでしょ隔離するでもなくニコまで牢に入れたのか。
彼らが新手の当たり屋だとすると、さながらこの部屋は「お話」のための事務所で、彼らの役どころとしてはやくざだろうか。新手の詐欺と思えば少しは冷静に見ることもできるが……。でもさ、こういう当たり屋って普通は自分の身元が割れないように……保険金詐欺はその限りじゃないが、身元がはっきりしている人ほどバレたくないものじゃないの?
ばれたら首どころの騒ぎじゃないだろう。それを普通国所有の建物でやる??
疑問が次々と湧いてくるせいかつい黙ってしまうのだが、それを相手は都合良く解釈しているようだ。
「…………署名する分には問題ありませんが」
「おく……お嬢様!?」
ヘンリック夫人もおかしいとは感じているようだから、私の態度にはかなり驚かれた。大丈夫、ただ確認したいことがあるだけだ。男はほくほく顔で紙とペンを差し出してくるのだが……。
「ひとつ確認が。…………あなた方、屋敷を訪ねてこられましたが、コンラートが貴族だというのはご存じでいらっしゃいましたよね」
「もちろんですとも」
「……では当然噂も耳にしていらっしゃるようですけど、コンラートにはキルステンから入った娘がいます。ここに署名せよと仰るのなら、都合上、私はキルステンの名で署名しなければなりません」
そんな都合はない。
……が、とてつもない違和感があったのでわざとこういう物言いになったのだ。キルステンの名を聞けば動揺なり誘えると思ったのだが、男は小馬鹿にした表情で頷いた。
「ああ名前くらいは構いませんよ。要はお嬢さんが責任取って保釈金を払ってくれるかですからね」
これには隣の夫人や後ろの二人もだんまり。私は自分の読みが当たったので内心腕組みである。
なるほどー、帝国出身っていうのが本当ならこの国の事情に疎いのも納得はできる……理由にはなったが、今度は別の問題が浮上した。
つまりこの場じゃ彼らにとって私たちはただのカモで、相手にしたら駄目な相手だって事がみえていないのである。この前提が崩れてしまったのは危うい、非常に危うい。入り口でこちらをなめ回すように見ていた男達の視線の意味、その危険度が一気に増したのだ。
「……提示されていない金額です。このような大金はすぐに用意できないのもおわかりですね?」
「もちろんですよ。ですからうちの者が同行させてもらいます。……もちろんきちんと本場で学んだ帳簿係ですから、嘘はつきませんよ。その旨も文書に載せてます」
目の前に書類は細かい文字でびっしりと様々な条項が記載されている。……読む気をなくしてしまうような作り、絶対こちらに不利な内容も載せてるのだろうな。
サインしたくない気持ちの方が大きいが、ここでごねても喧嘩になるだけだ。
…………自分の迂闊さが恨めしい。指定された詰所を確認した時点でアヒムの忠告を思い出すべきだった。或いは馬車を止めた時点で無理にでも引き返すべきだったのだ。
後悔ばかりが押し寄せるが、いまはせめてこの場にいる者が詰所の門を抜け、後を追ってきてくれているであろう兄さん達と合流するのが優先である。
「護衛も含めた四人を解放して頂けるのは保釈金を支払った後なのですね。後で支払うという署名では無理だと」
「そうですよ。うちじゃずっとその方法でやらせてもらっている。……犯罪者に逃げられちゃこちらも困るんでね」
普通であればここで怒鳴るところだが、夫人達も彼らの異常さに気付き始めたためかだんまりである。今後についていくらか案はあるのだが、ここで夫人が口を開いた。
「貴方、お名前はなんですか」
「はい?」
「お名前です。なんと仰いますか」
名を尋ねられて怪訝そうになったが、男はラングと名乗った。夫人はぴんと背筋を伸ばしたのである。
「ではラングさん。確認しますが、お嬢様のご実家がローデンヴァルトと交流があるのはご存じですね。貴方はいま、どなたにそのような口を利いているのかわかっていらっしゃいますか」
彼ら、ライナルトの兵のはずである。彼らの背景を知っているとしか思えない発言には驚きを禁じ得ないが、それよりも先にあったのは焦りだ。
ここでローデンヴァルト……ライナルトの名を出すのは当然考えていたのだ。ただ、それをしなかったのには理由がある。
……と、ラングと名乗った男の顔色がまともに変化した。
「ろ、ローデンヴァルト?」
さあっと血の気が引いていったかと思えば、夫人が口を開くよりも早く頭を下げたのである。
「し、失礼しました!!」
こちらが拍子抜けする勢いの謝罪である。ソファからお尻をどけ、低めの机に頭をぶつける勢いである。他の男性は男の変わり身に動揺を隠せず、頭を上げさせようと近寄っていた。効果覿面だったためか、ヘンリック夫人すら拍子抜けである。
「御大将のお知り合いに無礼を働いた身をどうぞご容赦いただきたい! どうか、この通り!!」
机に額を打ち付けながらの謝罪、あまりの形相に全員ドン引きである。言葉を失った私たち、立ち直りが早かったのは後ろの護衛二人だった。
「しまっ……」
風切り音が耳に届いたかと思えば、背後で大きな音がした。振り返ると護衛が肩や顔を押さえているのだが……それぞれの体には鈍い光りを放つ細長い金属の欠片が刺さっている。
投げナイフだ、と気付いたのはラングを除いた男達が二人に襲いかかってからである。手を伸ばすより早く、背後から引っ張られたかと思えば背中から机に押しつけられた。引っ張られた、といっても勢いよく引かれたと思えば肩口を掴まれ打ち付けられたのだ。勢いを伴ったせいで、衝撃の際は一瞬呼吸がままならなくなる。
「っは……!」
ヘンリック夫人の悲鳴が遠い。
こちらを見下ろしながら、空いた片手で額を押さえるラングは深いため息を吐いていた。
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