第15話 15、危機/後+挿絵

「……ったく、婆が賢しい知恵をつけやがる」


 その呟きが男の本性だった。

 …………ライナルトの名前を出さなかったのは、口封じが怖かったのだ。

 家名を使った脅し文句が通じるのは、相手とこちらが五分五分、気持ちせめて四対六くらいの時。護衛はいても人数的には不利、たかだか小娘と侍女だと舐められている現状、逆上して脅迫に移られるのが怖かった。

 本当に、もしもの想像だったのだけどそれは正解だったみたいだ。


「あー……お嬢ちゃん、びっくりしてるだろうが騒ぐなよ。やかましくしたらそこの婆の首が飛んじまうからな」

「なんということを!!」

「うるせえ」


 男の一声で、姿が隠れてしまった護衛達の方から鈍い声が響いた。夫人は悲鳴を上げかけたが、自身の口を押さえるとブルブルと肩をふるわせている。

 断言するが夫人は悪くない。護衛達も悪くない。多少迂闊だったかもしれないが、まさか詰所でこんな暴挙に出られるなんて思いもよらないだろうし、通常であればあの発言は有用なのである。椅子の背で見えなかった男が立ち上がり、困ったような表情でラングに問いかける。


「合図されたからやっちまったがどうするんだ。おれたちは知らねえぞ」

「ああ、構わん構わん」

「しかしだな、ローデンヴァルトの名前が出たのは……」

「やっちまってから言うんじゃねえよ。嘘でも本当でも黙らせりゃいいじゃねえか」


 そういうと、こちらに向かってにんまりと笑いかける。


「なあそうだよなお嬢さん、あんたまだ年若いし、自分が不名誉な扱い受けたなんて口外できんもんなあ?」


 ……あ、これまずい。

 殺されるわけじゃなさそうだが、それ以上に致命的な傷を負う案件が迫ろうとしている。それは夫人も同じだったらしい。自分よりも体躯の大きい男に掴みかかろうとするが、腕を一振りするだけでいなされてしまった。


「お逃げください!!」


 奥様、と繋げたかったのだろうけど、男達に口を塞がれる方が早い。


「……一応そこそこの外見だがどうする?」

「婆だぞ、だれがやるか。おれの息子だって嫌がらぁ」

「そこのをラングの後に回してもらえばいい、あっちの方が器量がいいだろ」

 

 絶賛最悪の会話を繰り広げられている。大人しくしていられないので、身体を押さえつける腕を剥がそうと爪を立てるが、兵士特有の鍛えられた腕はびくともしない。


「暴れると痛いだけだぞ」


 暴れなくても嫌な未来しか待ってないなら同じである。抵抗をやめなかったためか、頭に衝撃が走ると視界がぐわんぐわんと揺れ、夫人の喉の奥から放たれる悲鳴が響く。

 殴られた、と理解したのはしばらく経ってからだった。衣類に手をかけられたところで、腕を掴まれ引っ張りあげられた。男の歩幅は広く小走りにならざるを得ないのに足取りはおぼつかず、抵抗してもまるで適わない。

 連れて行かれたのはすぐ隣の通路と地下だった。湿った空気と臭気が鼻をつき、陰鬱な雰囲気が視界に飛び込む。仲間に鍵付き格子を開けさせた男はある牢屋の前にやってくると、冷たい格子に私を押しつけた。


「……カレン!?」


 聞き覚えのある少年の声はスウェンだった。駆け寄ってきた少年は私を掴もうとするが、今度は強い力で引き剥がされる。どれも突然だったせいで強く舌を噛んでしまった。


「一応、坊ちゃん達がいるってことは見せなきゃならんからな」


 鼻歌交じりの男はご機嫌で、だからこそ薄気味悪い。


「ごめ……」


 ずるずると引きずられるしかない私は謝るくらいしかできなかった。薄く暗くてわかりにくかったが、スウェンの片頬は痛々しく腫れている。鼻を啜る音がして真向かいの牢屋に目を向けると、涙をとめどなく溢れさせる侍女服の女の子が私を見ながら泣いていた。紫や赤のあざを作った顔をぱんぱんに腫らしていたから、一瞬誰か見分けがつかなかったけれど、その娘はニコだった。

 スウェンが必死に叫ぶけれど、声はむなしく地下室に反響するばかり。鍵が閉じられると男達はせせら笑いをあげ、私の身体は背中から力任せに壁に投げられた。

 ここでやるのか、と誰かが嗤った。

 衿を乱暴に掴まれるとボタンがいくつか弾け飛んだ。ぞわっと全身が総毛立ち、ざあざあと血の気が引いていった。


「やめ……!」


 冷静にならなくてはいけないのに、頭はほとんどパニック状態だ。股間を蹴ろうにもスカートに手をかけようとされると押さえてしまう。ならばと近づいてくる顔が気色悪くて、両手を使って顔を押しのけた。

 下がりたいのに、後ろに壁があるせいで逃げられない。

 こちらをいたぶりたいのか、愉しむ余裕すら見せる輩のせいでジリジリと追い詰められていく。立っているのもままならず尻もちをついてしまうと、とうとう絶望がすぐそこまで訪れてしまったのだ。

 ……ニコは暴力を受けたようだが着衣に乱れはなかった。だからせめて、彼女が被害に遭わなかっただけでも良しとするべきなのだろうか。

 胸元の下着を掴まれた瞬間、がむしゃらに暴れて何度か叩かれた。それでも抵抗は止めなかったから、爪を立てようと指を突き出した際に、指先がなにか柔らかいものを抉った感触が伝わった。


「が、ああああああああ」


 汚い悲鳴が地下にこだました。男は顔を押さえながら絶叫しており、ぽたりと垂れた血液がスカートに染みを作る。指を汚す液体で、自分が何を抉ったのかを理性より早く感覚が理解した。


「あ」


 男は離れたが、身体が言うことをきかなかった。逃げなくてはと思うのだけど、無意識とはいえ人の眼球を抉ったのだ。脳は警鐘を鳴らし続けても、ただただ心臓がばくばくと脈打つばかり。逃げよう、逃げなきゃいけない。膝が曲がって足先が言うことをきき始めた瞬間だった。

 お腹に衝撃が走って、今度こそ息苦しさで視界が閉じかけた。床に頬を擦り付けながら身体をくの字に折り曲げて咳き込むが、私にできたのはそればかり。頭上でおどろおどろしい男の声がしていたけれど、なにを言っていたのかは覚えていない。

 浅い呼吸を繰り返していると、脚を触られた。今度こそ抵抗できない、血が混じったつばを飲み込んだときだった。

 どれだけ経っても男からのアクションがなかった。なにかが落ちる音がして、ぼやけた視界を凝らしてみると、目の前に塊が落ちていた。

 ……肘から上を消失した腕だ。

 いったいなにがあったのかが理解できない。痛む身体を押さえながら身を起こすと、そのときになってようやくその人が目に入った。


「ご無事ですか」


 女性の声だった。傷だらけのほっそりした指が頬にかかった髪を掻き上げてくれる。黒がかった赤毛を結わえたその人は、ニーカ・ザガノフというライナルトの配下である。


「もう大丈夫です。無理に喋らず、呼吸をしてください」


 彼女の手には抜き身の刃があった。助けを借りながら身を起こす頃には周囲はすっかり騒がしい。まだ立ち上がるには至らずうなだれていると、金糸と見まごうばかりの長髪が近くにあった。

 のろのろと顔を上げれば、端正に整った顔立ちの男性が膝をついていた。


「まだ意識が定まらぬ様子で……」


 耳鳴りがしているが、ニーカさんが状況を説明してくれているのはわかる。おかげで説明の手間が省けるのはありがたい。舌を動かすと口内が痛んだが、喋れないほどではなかった。


「……いちおう、起きて、ます」


 深呼吸が苦しいのは肋骨を傷めたせいだろうか。彼らがここにいるのなら助かったのだろうか。このまま気絶したい気分だが、泣き叫ぶ男達の声が耳に障る。


「すみません。助けに、きてくれて……」


 呂律はちゃんと回っているだろうか。ライナルトがニーカさんに指示を下すと、剣を戻した彼女は私の膝裏に腕を差し入れる。


「まって、スウェンとニコが」


 二人と、二人と一緒に拘留された御者と護衛を連れ帰らねばならないのだ。弱いながらも抵抗を示すと、ニーカさんとは違う手のひらが頬に触れてしっかりと目線を合わせてきた。


「カレン嬢、二人はそこにいる」


 ライナルトの声ははっきりと届いた。彼の視線の先にはそれぞれ武官に抱きかかえられたスウェンとニコがいる。少年はこちらを見て指をさしており、少女は泣きじゃくってはいたが私よりは軽傷だ。毛布を肩からかけられた大人はほっとした表情で武官達と話をしている。


「ニーカ、カレン嬢達を上へ」

「は、閣下は如何なさいますか」

「私は彼らに話がある。……息はあるか」

「腕を落としただけですので、まだいくらかは保つかと」


 ……閣下?

 ライナルトの指は頬から擦れた額や切れた唇をなぞっている。髪を一房持ち上げるとピリリとした痛みが走りたまらず顔をしかめてしまった。傷口を確認しているようなのだが、感覚が鈍っているのか不思議と嫌悪感は感じない。ひとつ気にかかったのは、その眼差しに森で話していた時のような穏やかさは皆無であったということだろうか。

 ……このような状況でこんな感想を抱くのは場違いかも知れないが。なぜだか、学者めいた観察眼を向けるライナルトは自然体で「彼らしい」と捉えてしまった。

 今度こそニーカさんに横抱きに抱えられて運ばれる。

 女性に運ばれているためか安心感が強く、一階に戻るための暗く細長い階段では労るように声をかけられた。


「我らが来たからには安全ですので、お休みになられても問題ありませんよ」


 腕や体幹がぶれる様子はない。途中で彼女を「隊長」と呼ぶ女性が駆け寄ってくると薄手の毛布をかけてくれたのが嬉しかった。建物の外は既に騒然としており騒がしい、私を見るなり駆け寄ってきたヘンリック夫人が悔し涙を見せながら顔の汚れを取ってくれる。ニーカさんは私を豪奢な馬車前に降ろすと毛布をくれた女性と去ってしまったのだが、お礼を言い損ねてしまった。

 外の風は冷たかったが、優しくそよぐ風が気持ちよかった。手ぬぐいを水で濡らした夫人の髪は乱れてしまっている。


「けがは、ない?」

「わたくしの心配より、ご自分の心配をなさいませ!」

 

 叱られてしまった。

 スウェンとニコの状態を確認すると、すぐ後ろの馬車にいると教えられた。中をのぞきこむと、幼馴染みに肩を貸したスウェンと目が合った。ニコはすっかり寝息を立ててしまっているから声を出せなかったのだろう。大丈夫か、と唇を動かすスウェンには、ぎこちないながらも笑顔を返せたと思っている。

 遠くから夫人を呼んだのはライナルトの配下だった。暗がりに荷車が置いてあり、そこには二つの人型の形をした毛布が置かれている。痛々しい表情で佇むのはスウェン達と一緒に解放された御者達だった。


「まもなく治療道具が届くそうです、奥様はそこでじっとしていてくださいませ」


 ……あのとき、ソファの裏でなにがあったかは見えなかったけれど、おそらくそういうことなのだろう。涙声になった夫人は私に顔を見られないように遠ざかり、彼らの肩を抱くように腕を広げていた。

 じわりと感じる痛みと共に、ようやく助かったのだと実感がわいてくる。落ち着いてくると自分の置かれた状況を鑑みることができた。ブラウスが破られたのまでは知っていたが、このときようやく気付いたのだが靴は片方なくなっていたらしい。ライナルトに触れられたあたり、側頭部がひりひりするので指を這わせるとぺっとりと血が張り付いたのは驚いた。額は皮がむけたようだし、視界もやや塞がり気味だ。お腹もまだ痛いままだし…………あれ、もしかして結構重症なのかとようやく至る。

 でも自分の体格の倍ある男性に殴られたり蹴られたりしたらそうなるか。よく気絶しなかったなと、我がことながら感心してしまった。


「つめが……いったぁ……」


 がむしゃらだったせいか爪先もひどいことになっている。これはどう治療したら良いのだろうか、悩んでいるとなにも身につけていない左手首が視界に飛び込んだのだ。

 館を出る際に身につけたはずの、姉さんからもらったお気に入りの腕輪がなくなっていた。

 うそだ、どこでなくしたのだろうと周囲を見渡せど、転がるのは石ころばかりでなにもない。そういえばあの男に散々腕を掴まれたし、抵抗のために腕を振っていた。鎖は繊細すぎて、乱暴に扱えばすぐに千切れてしまうのは明白だったのだ。

 取りに行かなくては、と思った。

 頭が浮ついて思考が定まらないが、あれをここに残してしまうのは嫌だという気持ちは強い。誰かに同行を頼みたかったが、手の空いている人はいないようで、皆それぞれに話し込んでしまっている。


「……しかたないか」

 

 大分時間が経った後もこの夜に記憶を馳せることがあったのだが、松明も十分に焚かれていて、それなりの人員も揃っていたというのに、特に隠れもしない私が誰にも見つからず地下まで移動できたのは不思議である。

 せっかく脱出したのにまた戻るとはおかしな話だけれど、壁に手をついてゆっくりと階段を下っていく。

 誰か残っているはずだから、申し訳ないが手伝ってもらおう。そう思って開いた扉に近寄ると、奥から男の声が響いていた。


「閣下、閣下。これはなにかの間違いなのです、わたくしは皇帝陛下を敬愛しております。いわば閣下と同じ志を持つ同士。陛下の忠実な手足でございます。何卒、寛大なお心で閣下のお慈悲を分け与えください」


 悲壮に溢れた声はあの暴漢、ラングのものだ。たくさんの人の背中で中の様子はわからないが、これ以上近寄ると気付かれてしまう気がして動けなくなった。一体なにが行われているかは不明だが、少なくともあの男にとって愉快でない事態なのは確かだろう。


「見苦しいぞ、屑共が」


 吐き捨てるように呟いた後ろ姿は、赤毛の女性のものだったか。

 ラングはつらつらと言い訳を述べている。その内容はほとんどが私を暴行した理由なのだが、しきりに皇帝陛下という言葉を繰り返す。聞き苦しかったのか、誰かが嫌々ながら言っていた。


「醜いにも程があろう……。卿の陛下を敬愛する心はともかくだ。他国の、しかも戦う力すら持たぬ女性をいたぶっても良い理由にはならない。卿は兵を束ねる身でありながら、閣下の力になるどころかそのご威光を穢したのだ」

「たかだか小国の小娘ではございませぬか! 我らが祖国の臣民に比べれば汚らわしい、唾棄すべき悪鬼でございます!!」


 皇帝陛下がなんだ閣下がどうたらはもはやなにも言うまい。酷いな、というのが率直な感想だった。

  

「貴公がファルクラムの民をどう思おうと私の関与するところではないが」


 この人が喋りはじめると、場がしん、と静まりかえる。この声が一番私の知っている人のものだ。陰鬱とした牢屋において場違いなまでに感情が乗っていない、不思議な声色である。


「貴公の訴えはなんら心に響かないな。私が貴公を助ける理由がどこにある」

「同じ……同じ帝国の民でございます!!」

「同郷であるのは認めよう。だが蟲と比べられても困る」


 それが決定だったのだろう。男がうなり声を上げ、それを皮切りに複数人の男性がうなり声をあげている。怒り、悲壮、懇願、あらゆる感情が交ざった呻りだった。


「公平な裁きを!」

「必要ない」


 玲瓏な裁きが懇願をあっさり切り捨てる。

  

「役に立たない兵になんの価値があるのか。諸君は我らの足枷にしかならなかった。……であれば、裁きを下すまでもない」


 悲鳴と、ほとり、というなにかを斬り落とす音。……確かにこの世界は日本に比べたら命の価値が軽いけれど、直に音にして耳にしたのは初めてだった。

 ――こんな現実があるのかと驚くと同時に、合点がいった。

 ライナルトだ。初めて会ったときに抱いた違和感、姉に話した彼に対する感情がやっと輪郭を伴って形になったのだ。

 この人はきっと正道を歩むヒーローではない、むしろその対極にあるヴィランの側の存在なのだ。何故かはわからないが、奇妙な確信がすとんと胸に納まった。

 身動きを忘れていたせいで、赤毛の女性がこちらに気付いたと気付くのに遅れてしまった。

 退出しようとした金髪の男性と目が合う。


「……わすれものを、してしまって」


 身体は痛かったが、あれほど騒がしかった心は不思議と落ち着いていた。苦笑気味だがなんとか微笑む私に、彼が酷く驚いた顔をしていたのは、いつまでも記憶に残っている出来事だ。




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