第4話 エマという女医
火傷を負った私を治療しに駆けつけてくれたのはエマという女医だった。四十代程のふっくらとした女性で、とりわけ美人ではないが愛嬌のある顔立ちである。彼女がやってきた当初は桶に汲んだ水の中に腕を浸す私を驚き見つめていたが、すぐに立ち直ると鋏で火傷箇所の衣装を裁ち治療に移った。
「しばらく傷むでしょうが、痕になることはないでしょう。塗り薬を作りますから、あとで息子に届けさせましょう」
痕が残らないと聞くと、私よりも夫人が胸をなで下ろしたようだ。
「ありがとうございます、先生……!」
「とんでもない、夫人の処置が早かったおかげですわ」
「あ、いいえ。それは奥様自身が……」
「まあ」
正確には薬師らしいが、医師の心得もあるのでコンラート伯付きということで職を得ているようだ。夫人とも親しい仲のようで、感謝しきりの彼女に笑顔で応じている。
「火傷の際はまず腕を冷やすことが重要です。よく知っておいででしたね」
「本で聞きかじった知識ですが……」
「知識は重要です。そしてそれを活かす機転もね。……化膿と痛み止めを塗りましょう。少し痛みますよ」
水から出した腕は変色し水ぶくれを作っている。空気に触れると途端に痛み出したが、手ぬぐいで包むように素早く拭き上げ、取り出した軟膏をさっと腕に塗りたくるのだ。
「っ」
「いまはすこしだけ堪えてくださいましね」
触られると痛いが、我慢できないほどじゃない。緑色のでろっとした軟膏は薬草臭く、おまけにざらざらしているから針でチクチク刺すような痛さがしみるが、奥歯を噛んで包帯を巻き終えるまで堪えた。薬が効けば痛みが引くというのを信じるしかない。
「……ありがとう、先生」
「いいえ、若いお嬢さんに大事がなくてよかったわ」
私が痛がるからか、もうすこしここに留まってくれるようだ。私も痛みから気を逸らせるならそれがありがたかった。
「先生は……」
彼女は身なりは綺麗にしているが、所々着古した服装といいそこらの市井と変わりが無い。貴族というわけではないのだろう。私の視線に気付いたのか、恥ずかしそうに笑った。
「気に障りましたら申し訳ありません。こんな田舎ですから、都から医師を招いてもなかなか居着いてくださらず……。カミル様が、薬の心得があった私に声をかけてくださったのです。それ以来、僭越ながら医師の真似事を……」
「奥様、エマの腕は確かです。領の者からも慕われておりますし、正式にではありませんが、都のお医者様の教えも受けております。真似事ではなく、いまでは立派な医者ですよ」
夫人が慌てたのは、都、とやたら強調するのに関係あるのだろう。そう思わせたのは申し訳なかったが、当然私の本意ではない。
「あ、いえ、ごめんなさい。そうじゃなくて、どこで勉強したのかなって……」
「ええと……エマ、どこでしたかしら」
「夫人」
「はい」
「……先生を疑ってるわけじゃないですから。大丈夫です」
学校の女教師然とした夫人があからさまに狼狽えるのだ。この人達はよほど仲がいいのだろうが。……それにしても初対面時の驚いた様子といい、都会からとんでもない癇癪娘がやってきたとでも思われていたのだろうか。額に滲む脂汗に気持ち悪さを覚えていると、エマはハンカチを取り出し額の汗を拭ってくれる。はじめこそきびきびした印象だったが、治療が終わるとおっとりとしたお母さんという感じだった。
「初日から災難でしたね」
「あの子も悪気があったわけじゃないから仕方な……」
あれ、そういえばニコはどこにいった。ぐずぐず泣いていたから水を汲んできてもらったのだけど、途中から姿を見かけない。
「夫人、ニコはどこに?」
「あの子でしたら、旦那様の元へ行っております」
雰囲気が使用人風に戻った。きゅっと眉根を寄せ、やや目元がつり上がった様子からしてニコはお叱りを受けているのだろう。…………やってきたばかりの花嫁に火傷を負わせたのだ。しかも今日はお爺さまも同席しているし、エマに女性の服を切るからと追い返されるまでは青い顔をして私を心配していた。
「……あとでお菓子でもあげといてくださいな」
「お菓子、ですか」
「反省していれば、ですね。相当絞られるでしょうから」
私に火傷を負わせた時の泣くだけの役立たずっぷ……狼狽の激しさを考えれば、緊張の末のドジであるのは明白だろう。あれが演技だとしたら主演女優賞ものだ。反省していないのなら論外だが、落ち込むところに追い打ちをかける趣味はない。
「次は気をつけるよう言っといてください」
私も痛みと汗のダブルコンボで丁寧を心がけた態度が若干崩れてしまっているが、痛いものは痛いし、『若干』程度で済んでいるから及第点である。三十路の私だったら半泣きで火傷に氷嚢当てて、机に倒れ込みながら死んだ顔してるところだ。お行儀良く座ってるだけでも偉いと内心褒めちぎる。
「わかりました。……では、そのように伝えて参ります」
「え? あとで言ってもらえればそれで……」
止めたのだが、夫人は慌てて部屋から出て行ってしまった。そんなにせっかちにならなくても良いだろうに……あっけにとられる私に、エマが教えてくれる。
「奥様、ニコを首になさらないのですね」
……あ、そうか。
いかん、また日本一般市民基準で考えていた。
使用人が主人に傷を負わせたのだ、情があるならともかく初対面時にこれは大失態だろう。所属を離されるか、職を奪われても仕方ない。コンラート伯の笑顔を見るにないと思うが、使用人の失態に鞭を振るう貴族は少なくないからだ。
「大事なかったのですし、それだけで職を奪うのは酷でしょう」
「……そういっていただけてよかった。ニコの両親は、わたしの友人でもあります。あの子も少しあわてんぼうなだけで、悪い子ではありませんから……」
なるほどなるほど。となると、やはりあの娘を叱らなくて正解だったのだろう。やるつもりはなかったけれど、この領で慕われている人物の機嫌を損ねるのはよろしくない。
「……そういえば、先生はこちらに駆けつけるまで随分早かったですけど、近くにお住まいなのですか?」
伯付きとはいえど、館に住んでいるわけではあるまい。素朴な疑問だったのだが、エマはそれまで浮かべていた笑みを固め、やや高めの声で何度も頷いた。
「た、たまたま近くにおりましたの。庭師のベンが怪我をしたと聞いて……」
「あちこち駆け回るのは大変ですね。おかげで私は素早く治療していただけましたが……」
「ほんと、偶然ですがよかったですわ。あ、そうだわ、軟膏ですが、あいにく予備を切らしているのです。ですがすぐに作りますので、夕方頃には夫人にお渡ししておきます」
「本当にありがとうございます」
……おじいさまも来る様子がないし、向こうはなにか話し合いしてるのかなあ。
エマがお茶のお代わりを用意してくれて、私も腕の痛みになれだした時、部屋の扉をノックする人が居た。どうぞ、と声を掛けると入ってきたのは私と同い年か、下くらいの少年だ。
この子が誰なのかはすぐにわかった。やや着崩したシャツに、履き古したズボンと、やはり貴族ではないが聡明そうな相貌と、雰囲気がエマにそっくりなのである。男の子は唇を真一文字に結んだ緊張の面差しだ。視線は私を素通りし、まっすぐにエマを見つめる。
「母さん」
「スウェン」
エマが席を立ち、息子の傍に駆け寄った。彼女は何故か青ざめた表情なのだが、その理由は一目瞭然である。
「いつまでそんなところにいるのさ、こっちも用事終わったんだから早く戻ってきてよ」「スウェン!」
エマの息子と思しきスウェン少年、どうやら私の事が嫌いなようである。挨拶どころか露骨に敵を睨み付ける表情は苛烈で、殺してやりたいと憎んでいる様子まである。
が、私はこの子とは初対面だ。嫌われる理由がわからないので、ひとまず様子を窺っているとエマが息子を叱りつけた。
「あんたなんて失礼な態度を……! こら、カレン様に挨拶なさい。あんたって子は!」
エマも息子の前では母親の顔になる。ぶすっとむくれる少年の頭を掴み、力尽くで頭を下げさせるようだった。
「だって……」
「だっても何もありますか! ……奥様、すみません。この子はわたしの一番上の息子です。普段はこんな失礼な子じゃないんですが……!」
こっちが申し訳なくなるくらいの形相でエマが慌てるので、私も怒ってないのアピールのために苦笑いで対応する。
「事情はわからないけど、無理もないですから……」
「本当にすみません……!! よく言って聞かせます」
息子がこんな態度だから、エマもこれ以上滞在するわけにはいかない。子をひきずるように退散するのだが、出て行く間際、少年がチラリとこちらを見たので軽めに手を振っといた。
……睨まないでほしいなあ。
二人が出て行ったのを見届けると、隣の部屋に移動してベッドの縁に座った。これがキルステンの家なら入れ替わりで違う使用人がやってくるのだろうが、ここにそれだけの人的余裕はないらしい。おかげで一人でゆっくりできるので、大歓迎ではあるのだが。
コンラート領に問題が無いとは思わなかったが、やはりすんなり受け入れてもらえる、というわけではなさそうだ。
こればかりは時間を掛けて受け入れてもらうしかないだろう。
ほう、とため息をつきながら包帯を巻いた腕を持ち上げる。
「……いやー……怪我の功名ってこのことね」
どたばたするだろうから、伯がよほどの好き者ではない限り今日の夜はなにもないだろう。案の定、その日は会食だけというのが夫人から伝えられ、お爺さまと私と伯とでお食事と相成った。普段使っていなさそうな部屋で老人二名プラス若い娘。私はほとんど聞き役だったが、お爺さまもカミル氏も話し上手なためか飽きはしなかった。ほとんどが若い頃の武勇伝ではあったけれど、夫となる人が「悪い人となりではない」と知れたのが一番の収穫だっただろう。事実、この日の夜の訪問はなかったし、ぐっすり寝ることができた。
ニコは丸一日戻ってこず、代わりに夫人が世話を焼いてくれた形だ。
朝になると涙目のニコの訪問と謝罪を受け、これを了承。改めて自己紹介して主人と召使いの関係となったわけである。
「えと、奥様。旦那様なのですが……」
朝の着替え。ドレスじゃない限り一人で着替えられるので支度の手伝いを断り、代わりにお茶を淹れてもらっていると少女は言いにくそうに視線をそらしていた。
私が怒っていないと知ったので、昨日のような緊張はない。
「言伝を預かっているのですがぁ……」
「なに?」
「本日はキルステン様を見送った後はお出かけだそうで……明日まで帰ってこないそうです……」
「あ、そうなの。わかったわー」
……お爺さま、三日は滞在する予定じゃなかった?
ところが朝食の席になると、なぜか伯とお爺さまの間に流れる空気が悪い。お爺さまは怒り心頭といった様子で、伯はやや身を縮こませて申し訳なさそうに座っている。これじゃどっちがこの家の主人かわからない。
「カレン」
「なんでしょう、お爺さま」
「私は急用ができたのでキルステンに行く、お前はもう数日世話になりなさい」
「わかりました」
もう数日ってなんだ。それじゃまるで少ししか世話にならないみたいじゃないか。
とはいえ、ここで怒りを堪えているのは私に聞かせたくない事情があるからなのだろう。食事を終えるとお爺さまは都へ向かい、私は一日足らずでコンラート領に一人である。エマの薬のおかげで腕はすっかり痛みも引いたし、いまは健康そのものである。
「お、奥様。あたしでよければ話し相手になりますがっ」
「ありがとね。うーん……ひとまず、領のことが聞きたいかしら」
カミル氏も引っ込んでしまったし、夫人も私の相手ばかりしてられない。自然、相手はニコに務めてもらうことになる。
そりゃあいろいろ知りたい気持ちはあるが、わずか二日目にして根掘り葉掘り聞いても口も割ってくれないだろう。
「……とりあえず、館を歩いてみようかしら」
外は難易度が高すぎる。館内部ならばまだ先方の想定の範囲内だろうと提案したのだが、ニコはほっとした様子で笑顔を浮かべた。
「はい、それじゃ各お部屋について説明させていただきますね!」
「お願い。昨日は大雑把にしか聞いてなかったから」
三階はカミル氏の執務室近辺を除いて、上から下へと館内を行き来する。途中すれ違う使用人さんが慌てて頭を下げる姿を見るに、慣れていないのは一目瞭然。おそらくこの領では伯と民の距離が近く、堅苦しい挨拶とは無縁なのだろう。ニコもそうだが、使用人は家令と夫人以外は、いかにも教え込まれた!という型でぎこちなく頭を下げるからだ。
「あの、奥様。みんな戸惑ってるだけなので……」
「ん? ……大丈夫よ、気にしてるわけじゃないから」
ニコはしゃべり方からして多少ぽけっとした部分があるが、人の気持ちを読むのに長けているのだろうか。私が何も言わずとも、それとなく話しかけるタイミングが上手いように感じる。
「……ねえニコ、あなた、お爺さまが怒っていた理由を知ってる?」
「へっ? ……い、いいえ、いいえ! なにも!」
……ここまでわかりやすいと逆にありがたいなあ。
さーてどうしたものかと二階、一階と探索を終えて庭に出る。見栄えの良い花々だけではない、いくつもの野草が花壇には植えられている。キルステンや学校でもお目に掛からない品種だったから、つい膝を曲げて見つめるとニコが嬉しそうに教えてくれた。
「それはですね、エマ先生がお薬を作るのに必要なお花なんだそうです。なんでもご自宅で栽培するだけじゃ足りないそうで、それなら手を貸そうって旦那様が……」
「へー」
ふと顔を上げると、庭師と思しきおじいちゃんが心配そうにこちらを見ており、私と目が合うと急ぎ目をそらした。
……ほおぉぉ? ふーん?
いやいやでも判断材料が足りないからなあ。ほとんど一日ちょっとで判断するなんて早計すぎるしー?
どうしたものかなあと立ち上がり、部屋に戻る前にもう少し庭を歩こうとしていたときだ。正門側からやってきたのは、昨日こちらを睨んできたスウェン少年である。
昨日と違うのは、彼が一人じゃなかったという点だろう。十歳くらいの男の子の手を引いており、その子の容姿はエマやスウェンにそっくりだ。
少年はこちらに気付くとむっと眉根を寄せたが、踵を返すわけにもいかずこちらへ向かってくる。
「おはよう。今日はご兄弟で散歩?」
なので、私から話しかけてみる。サーチ対象からわざわざ来てくれるなんてありがたい話じゃないか。
さあて鬼が出るか蛇が出るか、ちょっとやってみようじゃないの。
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