第2話 婚約者候補。片方は美形、片方はおじいちゃん


 出立前、姉には一度再会している。


 国王の側室になるのが決定した姉だが、彼女は城住まいにはならない。もちろん側室になった後もだ。普通に考えるなら後宮に入るのが常と思われるだろうし、警護の観点からも本当なら城住まいの方が良いのだろう。

 だが姉は後宮入りを蹴った。

 理由はこうだ。

 

「疲れるからよ。どうせ四六時中張り付かれるのなら、住まいくらい好きにさせてもらうわ」


 2年前よりも美貌に磨きがかかった姉は、緩いくせっ毛を揺らして堂々と言ってのけた。気の強さは相変わらずか。言動の一つ一つが溌剌としており、その様は自信に溢れているが、それは決して相手を不快にさせるものではない。姉は己に自信を持っているが、その自信に見合うだけの努力を怠らない人だった。

 私が訪れたのは城から約十分程度の距離にある館だ。塀に囲まれたその館は緑に溢れ、色とりどりの花が植えられている。姉は陛下にお願いして、この館を用意してもらった。「わたくしに会いたいときは、どうぞこちらに通ってください」と言って。

 側室になるのはこれからだが、陛下が私の名誉回復を約束した時点でこちらに住居を移したのだ。私が姉を訪ねると、それはもう大喜びで玄関を出てまで出迎えてくれた。私たち姉妹はたくさんの人の注目を浴びながら抱擁を交わし合ったのである。

 姉は私を自室に招き入れ、そこで手ずから茶を淹れてくれた。


「本当は使用人に任せるべきなんでしょうけどね。この家でくらい構わないでしょう」


 館は、歩いた印象は意外に地味だが、骨董に疎くとも調度品に力を入れているのは理解できた。華美ではないが質素にもなりすぎないよう気を配っているのだろう。外見こそ派手だが、実は化粧も装飾品もさほど必要としない姉らしい家である。側室になるのだから多少なりとも派手になったかしらと案じていたけれど、いらぬ世話だったようだ。

 座るだけで睡りに誘われそうな柔らかい椅子に座ると横になった。ここにいるのは彼女だけだし、実は妹がだらしない人間なのだと彼女は知っている。「人が来たら起きなさいよ」とだけ言って、自分は優雅にお茶飲みポーズである。しばらく雑談に興じていただろうか、私がキルステンを追い出されてからの二年を報告し合うが、私に関する事項は、姉は大して驚かなかった。


「兄さんや皆にお願いして、あなたの様子は見ていてもらったからね」

「あー……やっぱり調べたのね」

「当然よ。私たちの妹を追放して、はいそうですかと従っていられるほど馬鹿ではないわ」


 けれど、と姉は頬杖をついて私を見る。なぜか呆れているようだった。


「カレンが苦労していたのなら、すぐにでもあなたを連れておばあさまの元へ行くつもりだった。なのにカレンったら、淡々と一人暮らしを始めて、楽しそうにしてるというじゃない」


 姉は深くため息を吐くが、当時は姉なりに悩んだのだろう。一緒に逃げてくれようとした思いに感謝だが、ある単語が引っかかり、首を傾げて訊ねていた。


「……おばあさまって、どちらのおばあさま?」

「母さん……お母様の方ね」

 母方祖父母は不倫の子である私を蛇蝎の如く嫌っているのではなかろうか。ところが姉はそんな私を「馬鹿ね」と軽く一蹴し、それは演技だと言ったのである。


「本家の手前、そうせざるを得なかったの。あの時はおじいさまとおばあさまが怒ったから、無難な形に落ちついたのよ。本家に介入を許すだけだったら、あなた今頃田舎に追いやられていたわよ」


 まったく、と頭痛を堪える面持ちだった。


「なのにあなたときたら、こちらの心配など気にもせずにのびのびと……いえ、いいわ。これ以上は愚痴になってしまう。……元気でいてくれただけで充分よ」


 そう言って昔のように膝枕をしてくれるのが懐かしい。

 しかし、おじいさま達の話を聞いてしまうと事情が変わってくる。まさか父も知っていたのかと尋ねたが、そちらは苦虫をかみつぶしたような表情で首を横に振られた。


「おじいさま達の意図は気付いていたでしょうが、あの人はよくわからないわ。母さんがああなってから、私たちにもなにも話してくれなくなったから」


 親子仲は微妙なままらしい。この辺、私にはなんともできないので放置である。姉の表情に陰りが見えてきたのもあり、話題を変えた。話は勿論、姉の人生を変えた陛下からの求婚だろう。どうやって陛下を射止めたかと問うたが、これは本人が首を捻った。


「陛下主催の宴に出てからお話するようになって、そうしたら何度目だったかしら……側室になって欲しいといわれたから」

「……ん?」

「うん?」

「それだけで五十過ぎのおじさ……んんっ。三十以上も年の離れた男性の求婚を受けたの?」

「その悪いお口は社交場に出るまでに直しなさいね」


 おじさんという言葉に苦笑したものの、年の差に関しては否定しなかった。


「陛下のお言葉だもの。断れなかったというのもあるのだけど」

「そんなの、本当に嫌だったら……」

「あなたは貴族社会の繋がりを軽視する考えもどうにかなさい。そのままでは足を掬われますよ」

「でも、姉さんなら私の言いたいこともわかるでしょう?」

「もちろんよ。心配してくれてありがとう」


 姉が言うこともわかる。どうも根が日本人なせいか、こんな話を聞かされると安易に「断ってしまえばいいのに」と思ってしまうのだ。この世界じゃこんな考え方は不敬なのもわかるのだけど……。

 姉はうっすら微笑むと、安心なさいと力強く言い、上体を倒すと耳元に唇を寄せてきた。血を分けた姉ながら、美人の迫ってくる姿はどきりとさせられる。


「けどね、もし私が陛下のお子を生めるのなら、それって素敵な話だと思わない?」


 ふっくらと艶やかな唇と、蠱惑的な笑みを浮かべたものだ。


「え? 姉さんそんなこと企んでるの」

「企みなんて人聞きが悪いわね。確かに既に殿下が二人もいらっしゃるし、たとえ私がお子を生んだところで、王位なんて遠いでしょう。それは重々承知しているのよ」

「……そう、ね」

「けれど世の中まだまだわからないわ。近年は帝国からの干渉も増えてきて、戦が起こらないとも限らないと噂されているじゃない」


 妖しく笑う瞳は、私の知らない彼女の一面だ。

 なんてことだ。姉は意外に野心家のようで、急いで話題を変えた。

   

「姉さん、ここは王城から離れているけど向こうに住まなくてよかったの。他の殿方と通じているなんて噂を流されでもしたら大変じゃない?」

「あら。まだまだ子供だと思ってたのに、しっかりしてるわね」


 正妃とその他王位継承者らに聞かれたらマークされるような話はカットである。


「側室だもの、その手の噂はいつだって流されるものよ。それにあんな環境じゃ気も休まらないわ。噂では夜まで監視されると言うし、絶対に嫌よ」

「あ、そこまで考えてるんだ……」

「まあね。……あなたも、そのあたりの知識がちゃんとあるようでよかったわ」


 そりゃ没年齢が三十路ですしー。


「……もう十六だもの」

「そうね、もう十六歳。……お誕生日をなにも祝ってあげられなかった。ごめんなさいね」

「それはいいの。姉さんにも立場があったのはわかってる」

「もうちょっと聞き分けが悪くても大丈夫よ? これからは融通を利かせてあげられるのだから」

「姉さん、あまり目立つのは駄目よ」

「大丈夫よ。私は政治に口を出さないし、ここで陛下をお迎えするだけだから安心なさい」


 姉は正妃と自身の役割の違いを理解しているようだ。政治に口を出すつもりはないのもきっと本当。いまのところはひたすら寵愛を受ける事にのみ力を注ぐようである。

 いままで側室を置かなかった国王だ。新たな側室が寵愛されるのは目に見えており、それは周囲の環境も変化していくことを示唆している。そしてそれは、彼女の妹である私にも当てはまる。


「ところで、縁談があったって本当?」


 感傷に浸っているところにストレートをぶち込まれる。

 この質問、どこかで来るだろうとは予測していた。実のところ、姉を訪ねたのはこの件もあったからだ。


「姉さんそれ。それなんだけど」

「縁談は強引だけど、相手はローデンヴァルトの次男だし悪い方ではないはずよ。候も是非にと言ってくださったようだし、悪いようにはならないはずよ」


 嘘でしょ。私それ断っちゃったんだけど?

 とはいえ、姉さんはその事実を知らない。私はもう片方を選んでしまった後なので、キルステンの面々は頭を抱えている最中だからだ。

 

「姉さん……。気持ちはありがたいけど、婚約しろとはやりすぎだと……」

「ええ、最初は私もそう思ったのだけど、あなたの将来を考えると縁組みが良いだろうって」


 なんて断りにくい……。

 姉は妹の縁談にはしゃいでいるようで、なんとも口出ししにくいのだが……。私は上体を起こし、おそるおそる尋ねてみる。

 縁談が二つあった理由。それを私は聞きたかったのだ。

 

「姉さん、あの、その方以外にもう一つ縁談があったみたいなんだけど……」

「もう一つ? ……ああ、もしかしてあれかしら、本家が進めてたっていうあなたの縁組。辺境だしとんでもない人選だったって兄さんが怒ってた覚えがあるわ」

 

 なるほど。つまりおじいちゃんの方が本来、私にあてがわれるべき縁談だったのだ。辺境だと言っていたし、国内だけでは飽き足らず遠くへ追いやろうとしていたのだろう。本来なら兄に聞くべき話だったのだが、あの選択の日以降は忙しいようで、家にも戻っていない有様なのだ。使用人に話を聞こうにも箝口令が敷かれているらしく、使用人になんとか聞き出せたのも「ご老人は方々に顔が利く方みたいで……」くらいである。

 本家が勝手に縁談を進めて、引くに引けなくて話を出さずにはおけなかった。どうせ若い男性を選ぶだろうと思っていたがというのが妥当な線だろうか。


「へー……結構な人が絡んでるん――」

「そうね、やっぱり私のお願いがきいたのでしょうね…………カレン?」

  

 あれ。これまずくない?

 もしかしなくても、これ国王陛下とローデンヴァルト候の顔に泥を塗っている。


「……姉さん」

「なぁに?」


 返される声は優しく、この声音で思い出した。姉さんは私が母に忘れられ追い出されるまで、ずっと一緒に寝てくれた。あの日まで喧嘩も多かった姉妹は、いまじゃすっかり仲良しである。


「……お気に入りの耳飾りをいくつか分けてくれると嬉しいな」

「構わないけれど、なんでまたそんなものを」

「見たら元気出そうだから」

「あら! ちょっと待っててね」


 姉は慌ただしく別室へ移動し、私はと言えば両腕を組んで頭を捻らせている。

 よろしくない、これは大変よろしくない。なんかこのまま放置していたら大人にいいようにされてしまう、そんな悪寒がしてたまらないのだ。

 夕食まで一緒に過ごす予定を切り上げ、途中で退散させてもらったのだが……帰りがけ、姉はわざわざ玄関先どころか、門まで見送りにやってきた。そこまでされると名残惜しさもあって多少なりとも心が揺れる。


「……それにしても、馬車遅いなあ」

「そ、そうね。遅いわね、一体どうしちゃったのかしら」

  

 馬車がこない。姉さんはわざとらしい会話で時間を稼ごうとしていたのだが、このときはまだ、この行動に意味があるとは思っていなかった。

 さらに十分は待たされただろうか。痺れを切らして御者を探しに行こうとすると、なんと馬車が壊れたと告げられたのである。


「仕方ないなあ。姉さん、私歩いて帰るから」

「え? あ、歩いて帰るの?」

「うん、少し行けば人通りも戻ってくるでしょう。不審者もいないだろうし、危険はないわよ」

「だ、駄目よ危ないわ!」


 平民時とほとんど変わらない簡易な装いだ。装飾品なんて身につけていないし、近辺は安全性も確保されている。少し歩けば人通りも増えるし、本当に心配いらないのだが……。


「姉さん、何か隠してない?」


 あからさまに肩が跳ねた。あっこれ本当に何か隠してるな?

 こういうとき、姉の企みには乗らない方が吉である。そもそもにおいて、私に隠しごとをしている時点でだめだ。咄嗟に手を握ってこようとした指から逃げ、それじゃあ、と足早に去ろうとしたときだ。


「……いえ、もう遅いわカレン」


 姉はニヤリと二枚目な笑みを浮かべ、彼女の視線を追った私は貴族らしからぬ声を出す。まだ大分遠いけれど、視界の端に黒い物体が入り込んでしまったからだ。

 家紋はわからないが、御者の格好や馬車の作りから、なにより立派な栗毛の馬からして、相当なお家の馬だと予想された。


「姉さん、一体なにを企んでくれたの。ほんとになにしたのよヤダ怖い」

「心配しなくていいわ。ちょっとお話してもらおうと思っただけだから」


 私は素になり、姉は興奮気味に拳を握った。あっこれほんとにろくでもないこと企んだな?

 予想は的中した。ご立派な馬車は数騎の護衛付きで、その護衛は対峙しただけで子供が泣き出すこと請け合いの、圧感抜群の軍人さんたちである。中には女性もいたけれど、柔らかさなど欠片もない。

 もうちょっとわかりやすく言えば、にこりともしない職業軍人っぽいナニかが群れていて、すっごくこわいのだ。

 姉さん、ほんとになにしてくれたの。

 馬車の戸が開き、そこから出てきた人物を目にして私は瞑目した。

 姉さん、あなたはサプライズの意味を考えるべきである。私に悪意があって企画したという意味でなら大正解だが、おそらくあなたは私が喜ぶと思ってこの人を呼んだのだろう。艶やかな金の長髪が眩しい麗人は、艶然と微笑む姉の手を取り指先に口づけた。


「どうやら遅れてしまったようだ。サブロヴァ夫人、遅参をお詫びする」

「間に合ったようでなによりだわ、ライナルト。ローデンヴァルト候はお元気かしら」

「元気にしておりますよ。本日は所用とのことで、夫人に会えず残念がっていた」

「わたくしの機嫌などとらずとも結構ですよ。王妃様の御用と比べれば、わたくしの用事など道端の石のようなものでしょう?」

「これは手厳しい。しかしながら夫人を思う気持ちは本当ですよ」


 サブロヴァ夫人とは、第二妃もとい側室になる姉に与えられた家名だ。男性は姉の機嫌を取り、姉は「私の事なんてどうでもいいんでしょう」なんて拗ねた振りをして遊んでいる。

 うわあ、面倒なのが来ちゃったぞ。

 名前からお察しの通り、これが本来宛がわれる予定だったもう片方の夫候補である。私と十も離れていなかったはずだが、実物を前につい恐れおののいた。

 うわ怖い、やだなにこれ怖い。

 観賞用ってレベルじゃなくて、顔の造形が神がかっている。体躯からして鍛えているのは明白で、背筋も伸び佇まいは凜としている。男性にこれだけの美貌を与えたのだから、神様は随分不公平がお好きなようだ。

 男性は私に向き合うと、姉にそうしたように私の手を取った。……人生、指先にキスなんて経験は数回でいい。あまりに洗練された仕草だったから頬が紅潮したけれど「ひえっ」と声を出さなかったのは及第点だろう。

 姉は「ま」と口元を扇子で覆ったのが若干余計である。


「カレン嬢とお見受けする。私はローデンヴァルトが第二子、ライナルト。すでにお聞きだろうが、貴方の婚約者として紹介されていると思う」


 彼は女性の赤面なんて見慣れているのだろう。うっとりとため息を吐いてしまいそうな甘い笑顔を浮かべ、優しく話しかけてくるが、私は聞き逃さなかった。

 婚約者ってなんのことよ。

 もしかしてだけど、私がおじいちゃんを断って、こっちをオーケーすると思って返事しちゃってたのかな! それは本家も頭抱えるしなにしてくれてるの馬鹿!!

 あっはっは! とヤケクソに笑ってやりたい気分だけどそうもいかない。

 これは、本格的にまずい。

 なにがまずいって、早く帰らないと私の意向を無視しておじいちゃんの方を断る可能性が出てきている。

 ひくつく頬がばれぬよう俯いていると、姉と自称婚約者殿は盛大な誤解をしてくれたらしい。姉が私の帰宅を説明し、この人に送ってもらう手はずが整ってしまった。

 嫌とは言えない。ここでごねるのはただの恥知らずである。

 別れ際、姉には「覚えてろ」の意を込めて微笑んだが、姉は「頑張れよ」と言わんばかりのスマイルだった。姉妹といえど所詮は他人なのである。

 ライナルトの手をかりて馬車に登るのだが、意外にも内装は簡素だった。椅子は革張りで多少固めの作り、無駄な装飾もなく実用優先の仕様である。

 会話に困ると思いきや、ライナルトは話し上手だった。柔らかな物腰だし、私の年に合わせてくれるようで難しい話はしてこない。納得の美形だし、日本人の頃だったらキャーキャー叫び撮影していたのではないだろうか。選りすぐりの美形百選堂々の殿堂入り間違いなしの人物が自分の夫候補だなんて思いもしないのだから、他人事でいられる。

 かくいう私は、相手の顔をろくに見もせず「はい」「ええ」「まあ」の使い回しである。相手の顔面にひれ伏したくなるのは事実だが、それよりもなによりも自身の置かれた状況を危ぶんでいたし、彼やローデンヴァルト候の顔に泥を塗ろうとしているのである。かといって意志を曲げるつもりはなかったから、まともに顔を見られなかった。

 相手の経歴に「婚約者から逃げられた男」なる肩書きをのせるのは、両手を合わせる勢いだ。


「カレン嬢?」

「え、あ、はい。すみません、ちょっと疲れが溜まっているようで……」

「なるほど。御身はキルステンに戻られたばかりでしたね」


 キルステンに戻ってからはのんびり生活してただけだけど、そこはそれ。

 結局家に帰るまでの間、私たちは会話らしい会話もろくにせず、なんともつまらない逢瀬を交わしたのである。

 キルステンの方は、姉から連絡が入っていたのだろう。父も兄もすでに玄関で待機しており、ライナルトと挨拶を交わす始末である。兄の方はこころなしか平静を装っている風だったが……。

 最後の挨拶の際、私は彼に恭しく頭を垂れた。


「ライナルト様、送ってくださったというのに、ろくにご挨拶もせず申し訳ありませんでした」

「気にされる必要はない。これから互いを知る機会は何度でもある」


 普通はそう考えるだろう。普通はね。


「……申し訳ありません」


 麗しき婚約者(仮)と怖い護衛達はこれでさようならだ。兄さんは「どうかな?」と期待の眼差しを送れど、どうもこうもあるわけない。私は早々に自室に篭もり、せっせと筆を走らせたのである。

 なぜならあれはもう、こちらが黙っていたら確実にあの人が夫になる。

 あれはもう、こちらが黙っていたら確実にあの人が夫になる。

 それは困る。本当に困るのだ。


 そこからの私は早かった。手紙をしたためると姉にもらった耳飾りの片方を放り込み、相手方に郵送する。夜の間に少ない荷物を纏め、朝焼けの花が開くと同時に「散歩」と称して庭に出たのである。

 そして時間勝負である。庭番の小屋から梯子をとって、塀を乗り越えた。落ちる際に片足首を痛めたけれど、呻いている暇はない。

 街中にくだると辻馬車を捕まえ、とある人の元へと直行である。


「え、なにそれ関わりたくない」

「私に騙されたってことにして! うちにすぐ連絡入れていいから、お願い!」

 

 ある人……唯一頼れる友人エルに頭を下げて小金を借りたのだ。辻馬車を雇って訪ねたのは、郊外に住まう母方の祖父母。彼らは孫の訪問にいたく驚いたが、姉さんの話が本当なら助けになってくれるはずである。「助けておばあちゃん」と某有名漫画の如く涙を零しながら祖母に抱きつき、第一段階クリアである。


「あの方とは婚約できないわ。私、辺境伯に嫁ぎます」

  

 超絶美形より六十過ぎの老人を選ぼうとする孫に彼らは困惑を隠せない様子だったが、相手が美しすぎるという点に祖母は同感してくれたようだ。祖父は納得いかない様子だったが、若い娘の気の迷いだろうというわけで、めでたく祖父母の了承を得たわけである。祖父母から実家に報告が行き、ここで第二段階クリア。

最後が私の送った手紙の効果発動である。

 私は初めに用意した手紙を辺境伯に送っていた。中身は伯の元へ嫁ぐ用意があるというもの。姉さんからもらった耳飾りを添えたので、サブロヴァ夫人も了承済みであると偽装したのだ。言葉は悪いが既成事実を作り上げたのだ。

 後年、私はこの頃を思いかえすようになるのだが、つくづく首を斬られなくて良かったと思う。

 辺境伯から連絡が来て、キルステンは相当慌てたのだろう。祖父母の知るところとなったが、彼らが叱ろうとも私は「辺境に行く」の一点張り。辺境伯に恩があるらしいキルステンは進んでしまった縁組を壊すわけにはいかず、私は無事、六十過ぎの老人に嫁ぐのが決定したわけである。ミッションクリアであった。

 もう色々怖くて実家には帰れないので、朝焼けと共に去ったあの日の光景が見納めになるのだろう。

 祖父母の微妙な笑顔に見送られながら、私は満面の笑みで国外れの田舎へと嫁いでいった。相手方の名前はコンラート。私は十六にしてコンラート辺境伯カミルの妻になったのである。


「いらっしゃい、カレン嬢。遠いところからよくいらしてくださった」

「はじめましてコンラート伯。どうぞよろしくお願いいたします」

 

 ご老体は笑顔で出迎えてくれたが、使用人しかり、全員が困惑を隠せない面持ちだった。当然である。好き好んでド田舎にやってくる令嬢なんていやしないのだから。

 何故、十六の小娘が六十過ぎの……正確には御年六十三歳のお年寄りを夫に選んだのかだが……。

 キルステンに対し反発心がなかったといえば嘘だが、それだけで人生を引き換えにするには微妙なところだ。だから理由は単純、私は私の目的を忘れていなかった。

 おじいちゃんには申し訳ないのだが、この人が亡くなったら国を出る。その一心だけで辺境伯を選択させてもらった。

 私は十四の頃に母に忘れられ、家を追い出された。実家に戻された地点がチュートリアルだったなんて誰が予想しただろうか。

 これこそが、私の波乱に満ちた生涯の幕開けだったのである。

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