第1話 生まれ変わったけどなにすればいいの?
巷では異世界転生が人気です。
かくいう私も好きです。
んで本題はここから。正直望んでない形ではあるけど生まれ変わりました。過労死、事故、誰かを庇って……とか、そんなものではなく、どう考えても不摂生が祟った死に方なので残された人のことを思うと正直頭を掻き毟りたい私です。
で、だ。
……生まれ変わったけど、なにをすればいいの?
おぎゃあ、と泣いてたときには記憶があった。
美しい男女が赤ん坊の誕生に大いに喜び、夫は妻を称えて労った。妻は意識を朦朧とさせながらも歓喜に打ち震え、可愛い娘の誕生に涙を浮かべたものである。
正直、このときまでは「ああ、よかったね」と他人事ながらじんわりと胸を温めたものだ。なにせ赤ん坊視点とはいえ、彼らの喜ぶ姿は私自身も嬉しかったのだから。
母親が顔を寄せ、おぎゃーおぎゃーと泣く私に話しかける。
「XXXX、XXXXXXXXXXXXXXXXXXXX」
おや、と思ったのはこの瞬間からだった。
どうしてこの人達の言葉がわからないのだろう、そういえば、さっきから声は届いているし雰囲気は伝わるのだけれど、彼らが何を喋っているかは全然わからない。
意識がはっきりしだしたのはこのあたりからだった。
そもそも私は独身の三十路である。生まれも育ちも日本で海外に知り合いなどいないし、そんな知り合いがいたら、もうちょっと人生エンジョイしていたはずだ。
ここでしばらく考えて、寝て、母親の乳を飲んで、また寝て、結論が出たのは数日後である。あ、私、生まれ変わっちゃったのだと至った。
「私」はめちゃくちゃ頑張った。ものすごく頑張った。
本来ならごくごく普通に過ごしていれば良かったのだと思う。私は掴まり立ちも早かったし、好き嫌いもしなかった。父母祖父母は私の成長を喜んだが、彼らが喜ぶほど私の不安は加速する。心配したのは、彼らの言葉が特殊だったせいだ。日本語でも英語でもない不思議な発音。父、母、兄、姉。そんな単語はなんとなくわかったが、いざ喋るとなればこれがなかなか難しい。生まれたころから耳にするのだし、中身は大人だ。勉強すればある程度はわかるだろうって思うじゃない?
……そんな簡単にできたら苦労していない。三十路だ三十路、お年を召した方々からすれば充分若い範囲とはいえ、十代と違い、頭は若干固くなっている。日本語しか喋ってこなかった身としては、言葉を覚えるのも一苦労なのだ。
そんな私の第一声は「お母さん」のつもりが母の実名である。喜ぶと思って発音を真似したつもりがまさかの名前呼び。後から判明したのだが、これは父が母を呼ぶときの呼称だったようだ。日本人だった頃の親が「父さん」「母さん」呼びなので、その基準で考えていたのは申し訳なかった。
こういった失敗を繰り返しながら、なるべく子供らしい振る舞いを心がけて新しい生を謳歌していたのだけれど……。
月日が一気飛んで十四の頃、私は母親に忘れられた。
いやあこれがなかなか酷い。なにが酷いって笑っちゃうくらいなにもかもが唐突だった。この日、中流貴族の私は数少ない友達の家から帰宅した。一応お貴族様なので住み込みのお手伝いさんもいて、彼女彼らのお出迎えを受けながら、こう教えてもらったのだ。
「お嬢様、本日は叔父上と叔母上方もいらっしゃっていますよ」
「叔父上達が? そんな話あったかしら」
「お祖父様が突然いらしたようで、皆様方お集まりになられたようです。皆様もうお揃いですよ」
「なら行きまーす」
よい子なので手洗いをきちんと済ませ、身だしなみも整えて扉を叩いた。正直面倒くさいったらありゃしないが、近い将来好きなことをするためには心証を良くしておくに越したことはない。
……それもこれも、自分で掃除洗濯しなくていい余裕があるからなのだけれど。ともあれ、私は子供スマイルで入室したのだ。
そうしたら母親がこちらを見つめ、キョトンとした顔で「どちらのお嬢さんかしら?」と尋ねた。皆が慌てふためき、親しい親類縁者は母の容体を心配するのだ。けれど一向に良くならないから、兄と姉、そして弟が私を抱きしめ、こう言うのだ。
「お母様はなにを言ってらっしゃるの。この子は私たちの妹、カレンでしょう」
「娘? ……私の娘は貴女一人よ、ゲルダ」
「お父様、お母様がおかしくなった!」
「待ちなさい、貴女こそなにを言っているの」
まるで喜劇である。母は医者に運ばれ、私は兄姉や親戚から代わる代わる抱擁を受けた。皆は口を揃えて「大丈夫だからね」と言い、私ことカレンはこの時ほど自分が中身が大人でよかったと安堵した事はない。
だって、まともな子供なら目の前で母親に忘れられるなんてトラウマ必至だろう。私だからこそ「まるでドラマみたい」と呑気に構えていられたのだ。ショックじゃなかったとは言わないけど、それもこれも、どこにいるかもわからないが、日本の母親という存在が心にいてくれたおかげである
さらにさらに、私の人生はまだまだ変わる。
なんと私、父の子じゃなかった。
結論から述べてしまったけれど、順を追って話していこう。
とりあえず母親は記憶を無くした。なにがどうしてそうなったかは知らないけど、私に関する記憶だけさっぱり消え失せ、私が関わった事項はなかったことになっているか、他の兄姉がいる事実だけが残った。家族は母の記憶を取り戻そうと必死になり、記憶のカケラを求めて様々な思い出の品を探しまわるのだ。ある日、クローゼットの奥に隠されていた手紙を使用人が発見し、それを父に届けると、中身はなんと男に宛てた手紙である。なんと母の浮気の証拠品であり、父から相談を受けた叔父が激昂。余計なことに叔父が浮気相手を問い詰めたところ、相手も母との一時の恋を認めてくれやがったという経緯である。父は母への聴取も行ったようだが、母はなんとなく浮気は認めたものの、私に関する事項は失われているので子に関してはわからないようだった。時期的に夫との子ではなさそうということ、そして私が相手方の身体的特徴をいくらか引き継いでいるということで、私は父の子ではないと結論付けるしかなかったようだ。
混乱はまだまだ続くよいい加減にしろ馬鹿野郎。
この事実は父と叔父だけで完結するはずだった。ところが口さがない使用人から家族に話が漏れてしまい、姉が反発。兄や弟とも微妙な空気になり、家は恐慌状態へ陥った。 結果、父は私を浮気相手に押しつけた、というより渡すしかなかった。例え血が繋がっていなかったとしても長年育てた子に情があったが、周りがそれを許さなかったのである。仮にも貴族であり、そして我が家はとある名家の親戚筋だった。父方母方共に潔癖な方々がいたし、この頃は知らない爺婆が我が家にひっきりなしに出入りしていたのだ。母は相変わらず記憶を取り戻さないし、私がいると輪が乱れるばかりだ。父も心労が祟っていた。
そこで発動、臭い物は余所にやれ作戦。ドロー! 私の不幸はまだ続く……!
母の浮気相手は庭師の息子。しかもこの頃には既に妻子を持つ身であり、お金と共に押しつけられたとはいえ私はどう考えてもお邪魔虫。こっちが呆れるくらいに実父は恐縮し、その妻や子は怒り心頭である。私もこの時ばかりは嘆いた、せめて貴族と浮気してくれたのなら、やりようがあったかもしれないのにと。
「まあいいわ、落ちるところまで落ちてるから、あとは浮上するだけでしょ」
……流石に身売りするまで落ちないと信じたい。
ありがとう三十路、ありがとう生活へのバイタリティ。私は実父に部屋を借りてもらった。そこは集合住宅、日本で言えばアパルトメント的な存在で、住まうのは殆どが女性である。
この国に生まれて良かったとおもうのは、ファンタジーな世界といえど、女性が自立して働ける体制が整っているということ、またその女性を尊重する男性も多く存在するという点だろう。
悪いと感じるのは、これはもうしょうがないのだけれど、日本に比べると治安が悪い。どんな具合に悪いかと言えば、国の外を女の子だけで歩けば、身ぐるみ剥がされ陵辱の末に売り払われるのが想像に容易いくらいである。このため、よほど安全な道を行かない限りは殺されても文句は言えない。護衛をつけなかった故に納得、といった感じである。
都内は安全だけど、危ない人が多いのも事実。だから自衛に越したことはないのだった。
最初の頃こそ、生まれ変わったけどなにをすればいいのか悩んでいたが、一人の生活になるとそれどころではなくなった。やはり心の余裕は生活の余裕から生まれるのであり、あれよあれよと環境が変わっては、他に手を掛ける時間はない。
一人暮らしになっておよそ二年近く経った十六の春、さあどうしたものかとペンを握って唸っていた。場所は学校の教室。友人のエルネスタ嬢が私の手元を覗き込む。
「カレン、可愛い顔を台無しにして一体なにをお悩みかしら」
「聞いてちょうだいなエル、就職先が決まらないの」
「まあ、カレンの成績なら……余程いいところじゃない限りはどこでも狙えるじゃない。わたしのように研究職でもない限り、好きに行けばいいのに」
「忌憚のない意見をありがとう成績一位」
「いいえぇ、カレンだって百位くらいは常時キープだもの。悪くない悪くない」
「嫌味かこの秀才」
……この国は何代かに続き良い王に恵まれているおかげか、国民の生活と教養水準がまあまあ高い。一般市民相手でも学校の門は開かれており、学費さえ納められるのであれば、11以上16以下の子は2、3年間の入学を許される。卒業まで在籍すればわりと良い就職先を見込めるから、多少無理をしてでも子を入学させる親は多いようだ。
友人たるエルネスタ嬢もその一人で、親の努力あって学校に通い続けた人である。くりっとした瞳に茶褐色のおさげが可愛らしい女の子だ。エルネスタ……エルは私の向かいに座ると、指折りであれやこれやと就職先を挙げていった。
「カレンなら礼儀作法も形になっているし、いっそ院にいってもいいんじゃないの。研究職は無理でも、受付とかいけるでしょ」
「んー……あそこはほら、偉い人多いでしょ」
院、とは魔導院、騎士院を指している。異世界ありき、こう……騎士とか魔導とか述べるのは……三十路にはなかなか恥ずかしいのだが……。前者後者共に国の治安維持のメインを張る人々の集う活動拠点である。そしてここ、貴族出身がとても多い。
「大金持ち捕まえて玉の輿にでも乗っちゃえば? 顔きれーだからいけるって」
なんてことをいいやがりますかこの友人。
が、エルは嫌味で言っているのではない。彼女は私の経歴をすべて知っているのだけど、知った上で、とても腹を立てているから暗にこう言っているのだ。「実家を見返してやれ」と。
「まぁ、捕まえたくなるくらいのいい男がいたら考えるわ」
故に、私の返答もこうなるわけである。
私は一人暮らしになった折、即座に学校へ入学した。上流階級の子供達が通う学校は、家を追い出された時に退学となっている。
「エルは? そう言うからには魔導院に行くんでしょ」
「まあね。せっかく魔法が使えるんだし。こうなる前はなーんにもできずに終わっちゃったもの。今度は自分のやりたいように生きて、親孝行して人生終わるわよ」
「もう人生見据えてるの早くない?」
「なに言ってるんだか、二十、三十過ぎたらあとは早いんだから」
「……まあ、それは、わかるけど」
ついでに記しておくと、エルも転生者である。ただ彼女は海外の人であり、私とは環境も転生前の経緯もまるで共通しない。彼女は若くして子供を生み育て、生活費を稼ぎ、そして亡くなったのだ。本人が口にするのを嫌がるので詳しくは聞けないが、間違っても恵まれた境遇ではない。エルが勉学に励むにはこういった背景もあるのだろう。
ま、私たちが友人になったのはお互い気が合ったという点に尽きるだろう。
「これも主の思し召し、悩むのも今のうちってね。新しい人生は楽しんでいこうじゃないの」
エルは外国出身のためか、私よりも宗教に対して一途である。いまとなっては考え方も多少変わったようだが、それでも神を信じる気持ちはあるようだ。
私はといえば、日本の宗教観そのままなので、見たことも会ったこともない神は都合の良いときだけしか信じていない。チート? 知らないよそんなの。私には過分な知識も、魔法も、頼めばなんだってやってくれる不思議な生物もなにもない。そんなものより、目下大事なのは目の前の用紙である。
「どこに就職したい、ねえ」
学校は学費を払い続けた生徒に対し、ある程度の就職先を斡旋してくれる。なので私も例に漏れずそのおこぼれを頂戴しようというわけだが……。
それが問題なのだ、それが。
ぶっちゃけ、私の就職先は限られる。何故って私は追放されたとはいえ、中流貴族の娘だ。前の家はキルステン家と言うが、勢力争いや噂諸々の関係で、キルステンを初めとした貴族と密接な関係のある所には行きたくないのだ。過去を掘り返され口さがなく言われたくない。
中流貴族とはいえ、私の存在はキルステンにとって汚点だ。
そりゃあ、悪いのは実母で、私と浮気は関係ないと友人は言ってくれる。正直私もそう思う。けれどこれで済まされないのが貴族社会なのだ。面子に命を掛ける親族等、特に母方の祖父母は実父を恨み、そりゃあもう怒り心頭と聞いているが、一人暮らし以降会っていないから詳細は知らない。
私が平穏に暮らせるのは、あの人達なりの情なのだろうか。今の生活はお金がカツカツな以外は平和だけど、学校を卒業して社会に出るとなれば、さてどう変わっていくのだろう。
「……希望は出すだけやってみましょ」
一つ目の希望は、とある商会の会計係。
二つ目の希望は、院の記録係。
どちらも給与が良いところだ。院はあまり行きたくないが、取捨選択の上でという感じ。どちらにせよしばらく働いて、貯金するのが目標である。
「先立つものがないと、なんにもならないしねぇ」
私は二十歳を過ぎたら国を出ようと思っている。もう少し外の世界を見てみたいのだ。けれど国外となるとあてがないから、働いてきたという下地を得ておきたい。いっそお偉い神様がお告げでもしてくれたり、いっそわかりやすくレベルアップ方式でステータス画面でも見ることができるのなら目標が定まるかもしれないけど、なんとも世知辛い転生である。それでもご飯を食べていかなきゃならないのが人生で、そのために私はあくせく働くのだ。ま、この国、日本ほどブラック企業に溢れてないけどね。
希望を出した三日後だろうか、私は先生に呼び出された。先生は目元を真っ赤に腫らしながら、泣き出す一歩手前で、振り絞った声でこう言った。
「すまないカレン。君の希望を叶えてやりたかったのに、私にはなにもできなかった」
この一言で「手を回されたんだな」と悟った。生徒に対し熱心な先生だったから、方々掛け合ってくれたのだろう。その涙だけで充分だと礼を言って、そのまま授業をサボったのである。
街は所々緑が溢れている。この日は風も強くて、街路樹はざあざあと音を立てて揺れていた。学校を囲むように花壇があるのだが、赤や黄色といった花が揺れ、そこに併設されたベンチにぽつんと腰掛ける。この国の学校は私服で通うものだし、生徒とわかりはしないだろう。
「……参ったな」
自分でも驚くほど力のない声が出た。何故って、自分ではかなり無難な就職先を選んだと思うのに、こんなところで妨害されるとは予想外だった。こうなると就職先は、虐め覚悟でかなりランクを上げてみるチャレンジか、それとも相当下げるか、あるいはどこかに飛び入りして頭を下げるか。でも最後のはあまり乗り気になれなかった。何故って十六の小娘を簡単に雇ってくれる先に、高額の働き口は期待できない。
酒場の給仕や小さな店の店員、こういった職が駄目とは言わないが、将来悉くを捨てて他国に去ることを検討している身だ。こんな私に良い人が見つかるのは難しいだろうし、最悪独身で生涯を終える将来設計でいると、いざ体を壊したときが恐ろしく、となれば安定した技能が欲しい。そのために学校に通ったのだから、今までの努力が無意味となる。子供らしい子供の生活を半ば放棄してやってきたのだから、このあたりの採算は取っていきたいと思うのは必然だ。
現実的すぎるっていわないでほしい。私だってお金の心配せずにいられるなら、せめて花の十代は遊び倒したかった。
どうしたものか、悩み悩んで両手を組み、両目を閉じる。風の音とそれに紛れる人々の声は優しいけれど、今の私にはただの雑音である。
しばらくじっとしていると、離れたところで馬車が止まった音がした。バタンと戸を開ける音がしたまではよかったが、複数人の足音が段々と近付いてきて、ここで何かがおかしいと目を開く。
私の体に影を落としたのは懐かしい顔だった。
最初は気付かなかったが、切れ長の目元に、整った鼻梁。撫でつけた綺麗な頭髪は紛れもなくキルステンの長子である。
「驚いた、兄さんがこんなところに来るなんて」
「久しいな、カレン」
素っ頓狂な声を出した私と違い、元兄もとい異父兄アルノーは何とも言えない表情でかつての妹を見下ろしている。口調が随分硬いけれど、異父兄妹とはいえ体面的には別家庭だし、こうなるのだろう。
兄に思うところはない。この人は私を可愛がってくれていたし、実父に追いやられると知ったとき、最後まで反対してくれた。
「お久しぶりです。お会いするのは二年ぶりでしたっけ、随分ぴりぴりしてらっしゃいますけど、ご飯ちゃんと食べてます?」
「……ああ、毎食きちんと食べているよ。お前も元気そうでなによりだよ。……そちらこそ、ちゃんと食べているか」
「お金はちゃんともらってますから、ご心配なく。ちゃんと自炊してお肉も野菜も食べてますよ」
どうもお金の話は失敗だったらしい。兄は眉を寄せ、そうか、と短い返答だった。
兄の背後に控えているのは、彼の乳兄弟だ。帯刀しているし、身なりもいかにも護衛といった装い。彼にも結構可愛がってもらった記憶があるので、ひらひらと手を振ってみたが、笑みを返されただけで終わってしまった。
「兄さんは、今日はどうしたんです。まさか偶然通りかかって見つけたから声をかけてくれたとか」
「いや、お前に用があってきた」
「でしょうね。……あ、いや、責めてません。責めてませんから」
そうでなくては、異父妹と接触禁止を言い渡されたであろう兄が会いに来るはずがない。この人は将来本家の若様の右腕となるべく教育された長子だ、いくら妹が気がかりであろうとも、守るべき者を背負う身とあっては軽々と動けない。
どうして私がこの話を知っているのかといえば、姉の使用人がすべて教えてくれたからである。追い出された最初の頃、この人伝いに兄姉からの言伝をもらっていたので、思うところがないというわけだった。
兄は無言で私に手を差し出す。来て欲しい、ということだろう。
この場合、どこに?なんて間抜けはいわない。わざわざこの人が出向いたとなれば、来て欲しい場所なんて一目瞭然だ。だから私はこの手を突っぱねるのも可能なわけだが。
「行かないって言っても兄さんが可哀想ですからね」
学校の途中だけど、私の学校はこのあたりの感覚が緩い。家のお手伝いのために途中で帰る子もざらだし、要は学校に迷惑をかけず、成績を落とさなければいいのである。
「今日はサボりますって、学校へのお知らせはお願いしますね」
「ああ、こちらから伝えておくよ」
久しぶりに乗る馬車は……便利の一言に尽きる。兄と向かい合って座る私は小窓からのぞく外の景色に、追い出される前は常時乗ってたんだよなあと感慨深くなるばかり。
「……カレン」
「はい」
「……生活費は足りているだろうか」
「キルステンを出るときにたくさん頂きましたから、それで充分賄えていますよ。お腹空かしてひもじい日々なんて送ってません」
「服は? 見たところ、あまりたくさん持っていないようだが」
「え? 見た?」
「ああ、いや……」
きっと隣のアヒムにでも私の様子を聞いていたんだろう。細かい突っ込みはせず、そちらも問題ないと明るめに言い張る。
「普通の家庭になると、服を取っかえ引っかえっていうのは難しいんですよ。暴れて汚すわけじゃないし、学校にいくくらいならあまり必要ありません」
毎日違う服っていうのも、ここの学校じゃ嫌味にしかならないしね。
このあたりの感性は貴族と一般庶民の違いではないだろうか。
人目がないおかげか、兄さんはこわばった笑みを崩して話しかけてくる。やはり嫌われていないようだと、こちらも多少気を緩めた。
「姉さんは元気ですか」
「元気すぎて困るくらいだ。うちじゃ家のことも仕切りだして、抑えるのが大変なくらいだよ」
「そこは姉さんらしいなあ」
姉は美しい人だ。艶やかな黒髪に滑らかな白い肌を持ち、一見大人しそうな令嬢に見えるけれども、その実、瞳は生命力に溢れる快活な美人である。些か気が強いのが玉に瑕だといわれていたが、その強さが周囲の女の子達には憧れの的だった。
「父上もな、お前のことを気にしていた」
「そうですか」
返事をしてから、内心「しまった」と気付いた。そっけないどころか冷たい返事は兄の口を閉ざし、アヒムをも気難しい表情で瞑目させる。申し訳ないと思いつつ口にしたい話題ではないので、私も景色を眺めて誤魔化した。
結局、懐かしきキルステン家に到着するまで私たちは会話をしなかった。
懐かしの生家は典型的な貴族の家だ。
柵格子に囲まれた敷地、門を潜り広がるのは人工的に整えられた庭園。門から正面玄関にかけては石畳で整えられている。中流は中流でも、まあまあ上に分類される家筋だろうか。
この風景、懐かしくも苦々しい気持ちになるのもまた事実。感傷とも言い難い感情を胸に玄関を潜れば、白髪の増えた執事が恭しく礼の形をとった。厳しいくらいに私を叱りつけた使用人長は、目尻にうっすら涙を浮かべていた始末だ。なんかごめんね……と居心地が悪くなる。この人達は、出ていくときにたくさんお菓子くれたのだ。
真っ直ぐに向かったのは、よく家族が集っていた居間である。そこには父親のみならず祖父母に親類といった面々が揃っており、威圧面接かと首を傾げた程である。
「……お久しぶりでーす」
ちょっとだけ、むっとしてしまったのは否めない。
礼儀正しく挨拶でもしようと思ったけれど、親類の汚らしいものを見る視線が、はっきり言って腹が立った。
肝心の母親も同席していたが、彼女は相変わらず他人を見る顔で鎮座するばかりである。形だけの礼をして、おそらく私のために用意されている席に腰掛けた。
「久しいな」
「はい」
父は周囲を制し、私に話しかける。本来はこういう無機質な喋り方ではなくて、もっと愛情深い人なのだが、兄の言葉を信じるのであれば親戚の手前もあるのだろう。
私たちの間に無駄な会話は生じなかった。父は端的に要件を告げたのである。
「ゲルダの婚礼が決まった」
「おめでとうございます」
「相手は国王陛下であらせられる」
「そうです……ん?」
それは大変おめでたいし、姉のあの美しさなら納得だが、ちょっと待って欲しい。国王陛下、いま五十過ぎではなかっただろうか。なにより后妃がいる。
時を止めた私に、父もわかっていると言わんばかりに頷いた。
「正確には第二妃……側室として召し抱えられる」
「あ、ああ。そういう……」
「ゲルダは陛下に求婚され、それを承諾した」
求婚されたらしい。流石姉。さすあねである。
「だが条件付きだった。傷ついたお前の名誉を回復させねば、側室など断固ありえぬ、修道院に入るとはね除けたそうだ」
待って。それ待って。姉の愛情は嬉しいけどちょっと待って。
顔から感情が抜けていく私に、父は言った。
「陛下はゲルダにお前の名誉回復を約束したそうだ」
「ちょ……」
「本家から我が家に命が下った。本日をもって、カレン、お前をキルステンに戻すことが決定した」
姉!! 姉ーー!!!
うまく発音できない私の前に、二枚の肖像画が置かれる。
これはなにと顔を上げると、なんだか父の面差しに苦悩の色が宿っていた。
「……ついては、お前も良い年頃だ。お前のために良い相手を見つけたいと……本家が仰せ、でな」
ここで父の兄弟が、そっと肩に手を置いた。顔色が悪い父親を心配する有り様、「代わろうか」と囁く声は、しっかり私の耳にも届いていたのである。
……つまりこれは父の本意ではないのだと、それがわかると少しだけ落ち着けた。
私は二つの肖像画を取って見比べる。
「つまりどっちかと結婚させて名誉回復をはかると、なにも考えてない本家はおおせなんですね」
「カレン! 口が過ぎるぞ!」
叔父は声を荒げるが、私も堂々と見返させてもらう。わからないと思っているのか。
片方は二十代半ば頃の男性らしい。実際はどうか知らないが、見た目だけで述べるなら金髪の長い髪が魅力的な人。唸っちゃうくらいに顔が良い。
そしてもう一方、こちらどう見てもおじいちゃんである。人の良さそうな顔をしており、愛嬌のある顔立ちをしている。
これは……どう考えてもお年寄りを断って金髪に行けってことでしょ?
「……いいかしら、カレン」
「はい、なんでしょう叔母様」
叔父の奥さんが夫のふとももを抓り、そっと口を挟んできた。男の人が私の相手をしても、怒らせるだけだと踏んだんだろう。実際叔母の考えは正解で、私はこの人相手には怒りを引っ込めた。
叔母は釣書二人の経歴を説明してくれた。
男性は名家の出身で、将来有望な騎士殿。
もう片方は田舎で隠居生活をしている、奥方に先立たれた地方領主殿。
他にも色々説明してくれたが、明らかに騎士殿の方が説明が多かった。
そりゃあ、私は若い娘だものね。地方領主と違い、金髪の男性を選べばキルステンに残れるとも教えてくれたのである。
一度、私は真っ直ぐに父親を見た。
「選んでいいんですね」
尋ねると、父は少し悲しそうな顔で目をそらし「ああ」と呟く。
その声を聞き届けると人差し指で肖像画を指さしたのだが、この一月後、仁王立ちの私が立っていたのは片田舎の館である。
「よろしくお願いしますねー」
笑顔で挨拶する相手は六十オーバーのおじいちゃんだ。この人が夫、旦那様である。
どうしてこの人を選んだのかは、別の機会に語りましょ。
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