第25話
五時間目の授業が終了し、六時間目の授業も平和に、何事もなく過ぎていった。
小泉のスマホに残っていた画像は、伊吹が黒板に文字を書こうとしているものの、肝心の黒板の文字が写っていなかった。あれだけでは決定的な証拠にはならず、伊吹が糾弾されることもなく、自供した雪乃一人の犯行として片付けられた。あの日小泉を連れて行ったことを、少しだけ後悔した。
放課後はいつも通り騒がしく、生徒たちは足早に下校していく。
この日はいつもより早く教室が空になった。空といっても、窓際の席には雪乃がいる。彼女はこんな日にも、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「派手にやられたな。あの女、ほんとに凶暴だよな」
何もできなくてごめん、と一言謝りたかった。しかし口を衝いて出てきたのは、そんな言葉だった。
【そうだね。髪って、引っ張られると痛いんだね】
窓の外を眺めたまま、雪乃は当たり前のことを呟いた。本当に強い女だよな、と思った。
「どうして伊吹を庇ったんだよ。雪乃が犠牲になる必要なんてなかったろ」
【だって伊吹くん、私のためにやってくれたんでしょ? だったら、私のせいでもあるから】
「なんでそうなるんだよ。伊吹が勝手にやったことなんだし、あいつが報いを受けるべきだったんだよ」
【いいの。私はああいうの慣れてるから。全然平気だから】
昼休みの雪乃は全然平気そうには見えなかったが、本人がそう言うのなら何も返す言葉がなかった。
雪乃は窓を閉めて自分の席に座る。ただ無心で、何も書かれていない綺麗な黒板を見つめていた。
「前から訊きたかったんだけど、雪乃はどうしてこんなどうしようもないクラスの連中のために、あんなことを黒板に書いたんだよ。見返りなんてないのに」
【……このクラスの皆には、私のようになってほしくないから】
黒板を見つめたま雪乃は答える。私のようにとは、何を指すのか分からなかった。
「私のようにって、どういう意味?」
【私のように、言いたいことを言えずに後悔してほしくないから】
少しの沈黙の後、雪乃は続ける。
【私ね、昔からそうだったんだ。自分の思ってることがなかなか相手に伝えられなくて、そのたびに後悔してた。だから皆には、そうなってほしくなくて】
それをいうなら俺もそうだった。いつも言いたいことがあっても何も言えずに終わってしまう。思えばこのクラスには、そういう生徒が多かった。
【一人で抱え込んでて、誰かに相談すれば解決することもあるのに、それでも勇気がなくて打ち明けられないのって、どうしようもなく辛いんだよね。私も経験あるから力になりたかった】
「まあ確かに、一人で悩んでる奴いっぱいいたな。どうしようもない悩みばっかりだったけどな」
【私、そういう人の笑顔を見るとね、なんとなく分かるの。ちゃんと笑えてないっていうか、笑顔に影があるっていうか。なんとなくだけどね】
言われてみればそうかもしれない。妊娠をひた隠しにして、一人で抱え込んでいた藍田さやか。親友に直接話していれば解決していたであろう、お騒がせナイフ少年の川原田順也。両思いであるはずが、互いに鈍感で奥手な岩島と原。いつも一人ぼっちで、だけど本当は輪の中に入りたかった天才漫画少女、樋口。片思い中のクラスメイトに演奏を見に来て欲しかったギター少年、笹林。
雪乃の言う通り、彼らの笑顔はどこかぎこちなく、上手く笑えていないように見えた。彼らだけではなく、雪乃や高梨もそうだ。もしかしたら俺もそうなのかもしれない。
このクラスの生徒たちは皆、胸に秘めた思いを叫べずにいる。勇気を振り絞って声に出していれば、何かが変わっていたはずなのに。雪乃がいなければこのクラスは、今頃どうなっていただろうか。考えたくもなかった。
「雪乃にも言えなくて後悔したことって、やっぱあるんだな。てゆーか喋れないんだから、毎日そうだよな」
【……うん、まあね】
雪乃は俯いて手元に視線を落とした。彼女の手には、クマのキーホルダーが握りしめられていた。
「もしかして、双子のお姉さんのことで後悔してるの?」
雪乃は、ハッとして俺を振り向いた。【どうして私が双子だって知ってるの?】
高梨に口止めされていたのを思い出し、口を噤んだ。
【美晴ちゃんに聞いたの?】
雪乃の問いに、俺は「風の噂で」と適当に誤魔化した。雪乃は納得していない様子だったが、それ以上は訊いてこなかった。
【そうだよ。私はお姉ちゃんに、お姉ちゃんが生きてる時にたくさん感謝の言葉を伝えればよかったって、毎日思ってる。それからごめんねって、たくさん謝りたい】
雪乃の姉は、暴走した車から雪乃を守って亡くなったのだと、高梨が言っていた。何の前触れもなく、ある日突然姉が亡くなったのだ。言いそびれたことは腐るほどあるのだろう。
【私ね、昔から気が弱くて、今みたいにいじめられてばっかりだったんだ。でもお姉ちゃんが、いつも私を守ってくれた。お姉ちゃんがいなかったら、私はたぶん学校に通えてなかった。もっとたくさん、お姉ちゃんにありがとうって言えばよかったって、ずっと後悔してる】
雪乃は一息に言い終わると、今さら後悔しても遅いんだけどね、と付け加えた。
言いたいことを言えない人たちの気持ちが痛いほどよく分かる、と雪乃は言っていた。自分のようにはならないでほしいと、彼女は強く願っていた。
これ以上自分と同じ苦しみを味わう人が減ればいいと思い、雪乃は黒板に生徒たちの悩みを書き始めたのだ。そして見事に、雪乃は生徒たちの心を次々に救っていった。俺にはそんなことできないな、と感嘆のため息をついた。
雪乃にかける言葉が見つからず、俺は沈黙を選んだ。雪乃はまだ、手元のクマのキーホルダーを愛おしそうに見つめていた。
井浦に奪われてしまったという、もう一つのクマのキーホルダー。それがあれば雪乃の心の傷は少しは癒えるだろうか。似たようなキーホルダーを買ってきても、きっとそれでは心の穴は埋まらないのだろう。今は高梨が持っているが、彼女が言っていたように今さらぼろぼろのクマを返しても、さらに心の傷が深まるだけなのかもしれない。
結局俺はそのまま何も声をかけてやれず、教室を後にした。
誰もいない静かな廊下を歩く。この日も遠くから吹奏楽部の演奏が聴こえる。なんの曲を演奏しているのかは分からない。
雪乃の言葉を頭の中で反芻しながら、階段を下っていく。
──言いたいことを言えずに後悔してほしくない。
考えてみれば俺も、後悔してばっかりの人生を送っていた。意地を張ってありがとうやごめんねを、言えない人間だった。
中学の卒業式では、三年間好きだった同級生に、俺は最後まで『好きです』という言葉が言えなかった。周りの協力もあって卒業式が終わった後、彼女を校舎の裏に呼び出した。これで最後なんだから、告白をしようと思っていた。しかし結局、俺は何も言えなかった。振られるのが怖くて、振られた後の自分を想像して、勇気が出なくて言い出せなかった。
彼女は別の高校に進学して、それ以来一度も会っていない。当時、今みたいに人の心の中を覗けていたなら、彼女の考えていることを読み取り、告白する、しないの判断ができていたのに。
そんなことを考えても無駄だとは分かっていても、どうしても考えてしまう。肩を落としながら階段を下り、学校を出た。
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