第26話

 帰り道の途中で、姉から着信があった。母さんが目を覚ました、との連絡が病院から来たらしい。

 俺は自転車を飛ばし、姉が待つ駅へ急いだ。突然のことに、胸が騒ついた。

 あれほど鬱陶しいと思っていたにもかかわらず、母さんが倒れたと知った時はやっぱり悲しかった。何を言われても反抗したり弁当も毎日残したりと、とにかく俺は親不孝者だった。生意気でごめん、今までありがとう。その言葉を母さんにどうしても伝えたかった。言えないまま後悔していたことが、俺にもたくさんある。それをやっと、母さんに伝えられる。

 もう二度と目を覚まさないかもしれない、と医師は言った。でも、母さんは目を覚ましてくれた。大声で叫び出したいくらい嬉しくて、立ち漕ぎで自転車を走らせた。



 駅で姉と合流し、すぐにやってきたバスに乗車して病院へ向かう。

 バスの中で、姉の話を聞いて浮かれていた気持ちが沈んだ。


「看護師さんの話だと、お母さん目を覚ましてしばらくは呼びかけに反応してたみたいだけど、またすぐに意識がなくなったって言ってた。だから今病院に行っても、お母さんと話せないかもしれない」


 俺の気持ちと同様に、沈んだ表情で姉は言った。病院に着くまでの間、二人とも無言で窓の外を眺めていた。

 母さんの病室に入ると、姉は母さんに駆け寄って声をかける。


「お母さん、茜だよ。分かる? お母さん」


 母さんの反応はなく、目を閉じたままじっと動かない。なんだよ、これじゃあいつもと同じじゃないか、と俺は心の中で叫んだ。


「碧も声かけてあげて。お母さん、目を覚ますかもしれないよ」


 そんなわけないだろ、と俺は首を振った。どうして肝心な時に眠ってるんだよ、と母さんを責めたかった。

 やっぱり母さんは、もう目を覚まさないのだ。俺は一生、母さんに言えなかった言葉を言えないまま生きていくのだ。そんな十字架を背負ったまま、これから何十年も生きていかなくてはならないのか。そう思うと悲しくて悔しくて、目に涙が溜まってきた。あれだけたくさん時間があったのに、いつか言えばいいや、って逃げていた過去の自分に腹が立って、堪え切れずについに涙が零れた。姉に涙を見られたくなくて、俺は静かに病室を出た。


 十五分ほど談話室の椅子に座って待っていると、姉がやってきて俺の斜向かいの椅子に腰掛けた。

 お母さん、眠いみたい。と姉は無理して笑う。姉の顔を見て、泣いていたのは俺だけじゃなかったんだな、と思った。


「お母さんと、もっとたくさん話したいことあるのに、全然起きてくれないね」


 うん、とだけ俺は返事をした。


「お母さんが目を覚ましたら、あんた謝りなさいよ。ずっと無視してたよね、お母さんのこと。お弁当も毎日作ってくれてたのに食べないで残すし、お母さん悲しがってたんだよ」


 分かってるよ、謝るって。姉のほうは見ずに、俯いて答える。


「お母さんがなんで毎日お弁当作ってくれてたか、知ってる?」


 知らない、とボソッと呟く。当時、俺は毎日購買の百円のパンを食べていた。


「あんたさ、毎日卵焼きだけは食べてたでしょ。お母さん、それだけでも嬉しかったんだって。あたしもお母さんの卵焼き好きだったな。甘くておいしいもんね」


 そろそろ帰ろっか、と姉は言いながら立ち上がる。数秒遅れて俺も立ち上がり、姉の後を追う。

 母さんの卵焼き、甘くておいしかったなぁ、と思い出しながら、再び涙を流して薄暗い院内を歩いた。




 それから数日間、姉は毎日母さんの病室に通い詰めた。休みの日は一日中母さんに付きっきりだった。


「お母さんが目を覚ました時、あたしがそばにいてあげたい」


 姉は健気にそんなことを言っていた。母さんの心配だけではなく、姉は雪乃の心配もしてくれている。最近クラス内のいじめが酷くなっている、と姉に相談すると、碧が雪乃ちゃんを守ってあげな、と他人事のように言われた。


「これはね、碧にしかできないことなんだよ」


 さらに姉はそんなことまで言ってくる。

 俺にしかできないこと。どうしてかそう言われてしまうと、だったらやってやろうという奇妙な使命感に駆られてしまう。後で冷静になってから考え直すと、やっぱり無理だよなぁ、と気が引けてしまう。


「今日も帰り遅くなるから」


 この日も家を出る直前に姉にそう言われ、分かった、と返して家を出た。


 ここ最近、学校に行くのが憂鬱だった。俺にとって何か不利益なことが起きるだとか、そんなことはないのだけれど、井浦たちによる雪乃へのいじめが、日に日に激しさを増して見ていられなかった。

 変な噂を流されたり、弁当箱をひっくり返されたり、机の中に虫やカエルを入れられたりと、散々なものだった。

 止める奴は一人もいないし、かと言って加担する奴もいなかった。誰もが自分は無関係でいたいと、そう思っているのだ。下手に雪乃に優しくしてしまうと、次は自分が第二の雪乃になってしまう。生徒たちはそれを恐れている。何もできない自分に、憤りを感じている生徒も何人か散見された。もちろん俺自身も、そんな生徒の一人だった。


 学校に着いて教室に入ると、雪乃と目が合った。


【おはよう】


 いつもと変わらない笑顔で、雪乃は心の中で言った。どうしてそんな顔で笑えるのだろう。辛いはずなのに、雪乃はそれを顔には出さなかった。

 この日も雪乃に対するいじめが緩むことはなく、少しやり過ぎじゃないか、と心の中で心配する者もいた。

 体育の授業では、女子はバレーをしていて雪乃は集中砲火を浴びていた。雪乃は体育の途中で抜け出し、保健室に行ったようだった。

 授業が終わって教室に戻ると、指に包帯を巻いた雪乃の姿があった。

【突き指しちゃった】と雪乃は俺と目が合うと苦笑して言った。



「それにしてもボスギャルの奴、ちょっとやり過ぎだよな。雪乃さんが可哀想だ。黒板に悪口書いたの、雪乃さんじゃなくてデブキなのに」


 昼休みになると、小泉が小声でそう言った。肝心の伊吹は名乗り出ようとはせず、ひたすら心の中で雪乃に謝罪をしている。本当に雪乃のことが好きなら、彼女を守るべきじゃないのか、と思った。

「そうだな」とだけ答えて、雪乃に視線を向ける。


【餃子、シュウマイ、小籠包、ご飯、エビチリ、ブロッコリー】


 今日は中華なのか、などと思いながら、姉が作ってくれた卵焼きを頬張る。やっぱりちょっとしょっぱいな、と思った。

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